2014年12月11日木曜日

阪神・淡路大震災20年 看護ボランティア・生田チサトさんの手記

保団連・保険医協会の支援を受けてスタートした私の被災地看護は南相馬市の大町病院へとつながった。
被災地復興支援:未来に向かって続く支援

兵庫県保険医協会西宮支部緊急対策本部
看護ボランティア 生田チサト

Ⅰ 心の復興:過去の悲しみのメモリートラックからの解放

 2014年9月7日昼前、生田神社に9月21日の国際平和デイのイヴェント会場を下見に出かけた。神社を参拝したのは、19年前の震災で本殿の屋根がすっかり原形のままで落下していたのを目にしたときであった。当時、耳新しいアフリカの喜望峰で採培されるエネルギーの高い活性酸素除去作用のお茶:ルイボスティと瓦1枚分ほどの気持ちを差し上げた。それまでは上流社会の飲みもであったがアパルトヘイト後一般の市民の手にも入るようになったお茶である。疲労した体と心をいやす助けになればと持参した。そのお返しにお礼の品を頂き恐縮して神社を後にしたのを思い出した。あの大変な最中どんな状況にあろうとお訪れた者に謝意を示される行為に対し、いのち(人と心)を支える神社の使命とその存在の意味を学んだのだった。神社の本殿につながる道に敷かれた毛氈は青空の下、朱色が美しく映えていた。若い巫女さんに「あの屋根が震災時に落下した屋根ですか?」と尋ねたところ巫女さんは、「ちょっと聞いてきます」と言って後ろを振り返り先輩らしい巫女さんに尋ねた後、しっかりと“そうです”と答えて下さった。その本殿で結婚式が始まり、震災を知らない若い世代のエネルギーの動きを感じた。同時にあの時の喧騒とした中にも凛として復旧に忙しくしておられた宮司さんを思い出し、私の中で過去と今が交錯した。時の流れを感じ、復興とは何だろう?と自分に問いかけた。答えが出ないままに三宮駅まで歩いていると当時の空気や情景がまざまざと蘇ってきた。高いビルが曲った鉄骨をあらわにして痛々しい姿を晒していた。あの時の町はどこにいったのだろうか、今この通りを人は歩き仕事をし、暮らしている。その当時のように若者がいる。その町の姿には何の新しさもなく映画のセットが入れ返ったかのように映った。三宮ステーションホテルの当時の姿や倒れかけている高速道路などなど幾度となく訪ねたがこの日ほど震災当時の壊れた街の情景がよみがえったことはなかった。自分のメモリートラックの中に被災地の状況が色濃く残っていることにも気づいた。人々のメモリートラックに被災体験がない時代になってつまり世代交代が起きて復興というのだろうか?・そんなバカな!それならメモリートラックが薄れていくことなのだろうか、そのことを忘れること、考えなくなることなどとあれこれ考えを巡らした。

 ある意味では世界中が第2次世界大戦の復興の途中にあるとも考えられる。戦後の未解決の問題も多くある。大戦におけるそのメモリートラックは今でも繰り返し思い出されている。途切れることなくどこかで戦争や感染症による人々の暮らしと健康の破壊はおき続けている。なんと悲しみの深い時代に世界は生きているのだろう。全ての人々が悲しみを超えて復興の道:健康と平和な暮らしへの努力を続けていると言えないだろうか。
 私自身は、福島の南相馬市福島第一原発から25km圏内の地域にある大町病院の復興支援を続けて3年目になる。人口は減少し、商店街は懸命に開店している店と、閉じたままいつ開店するとも知れずに空き家としてたたずんでいる店がある。状況は大きくは変わっていない。子供たちの数が増えたことが目立つ。その中にあって道路が新しく整備が進んでいるのは復興の兆しとして目に見える。学生たちが登下校時に新しく整備された道を歩いている姿は未来への希望のシンボルとして映る。美しい街への新しい街づくりである。除染作業も進んでいる。飯館村の除染作業はショベルカーで掘り起こされた土を、放射能を遮蔽する黒の専用のビニール袋に入れて眼前に広がる広い田畑のあちこちに並べられている。日本のこの場所で根気と忍耐のいる作業が続けられていることを多分多くの人は知らないだろう。
 住めるところへと人々は移住し暮らしている。メモリートラックには悲しみの影が色濃く残っていながらも懸命に生きている。他の安全に住める土地を選択した人々はその土地で生きようとしている。
 心の復興とは、生き続けるところから未来が現れ悲しみのメモリートラックは少しずつ薄く明るくなっていく。生きること、生き続けるところにいつもあるであろうと自分なりに結論付けてみた。その時を生きるための処方箋は、夢と希望である。被災地での医療の存続はその夢と希望をつないでいくというミッションを内包しているのではないだろうか。
 人類はいつの時代もいつの時も人生の復興への道を歩き続ける存在なのではなかろうか。生きること、それは人びとが夢と希望を決して手離さしていないという証しではないだろうか。

一通の電話で被災後20年を迎えることを知る
その夜のこと、西宮の広川恵一先生から電話で「震災20周年記念を予定している」と伺った。そう、その日は震災後20年を迎えようとしている三宮の街を歩いていたことに気づかされた。町の新しさと活気を感じなかったのは、自分のメモリートラックからの影響かもしれない。ここに住む被災体験をされた人たちのメモリートラックにも記憶が残っているのだろう。

 もしそうだとしたら今生きている喜びに影を落としているだろう。

この度の20周年の集まりに参加させて頂こうと思った。
20年前の方々にお会いできるのはなんと素晴らしいことだろう!
生きてきた喜びを分かち合う良い時を過ごしたいと思った。
20周年をよく計画してくださったと感謝している。メモリートラックが生きている喜びのメモリーに塗り替えられるよう心から願う。

Ⅱ 復興支援の道 阪神淡路大震災被災地医療は東北大震災への支援の序章

阪神淡路大震災の経験を携えて医療者による医療連携復興訪問が始まる
 大震災といわれた阪神淡路大震災(1995年1月17日5時46分)に発生した5日目東京保険医協会の支援で被災地看護訪問に参加させていただいた。全ての人のすべてのかかわりは生活再建の一言に集約されていた。看護師にとってはナイチンゲールの看護の基礎を理解し展開する時であった。
 そこでは、それぞれの国、職種の役割を理解しつつ繋がりあっていくコミニュケーションの力が問われた。互いの協力と連携が人々の生命力の消耗を最小限度にし、地域の復興の力を左右するという貴重な学びと体験であった。
 しかし当時の政府や行政の体制は、受け入れる心と力と技を展開することができなかった。①体験がなかったこと②官民の間の意識の壁③ボランティアスピリットの土壌が開拓されていなかったこと④市役所の建物が影響を受け機能がストップしたこと⑤市役所の人たちの多くが被災していたこと⑥災害対策における国の整備ができていなかったことなどが考えられる。
 それを補ったのが、ボランティア元年と称されるほどの全国から多種多様な手であった。
 困難な状況にある人々に支援の手を差し伸べるという人間本来の命を尊ぶ心が全国から被災地に集結した。その体験が東北大震災への支援の速やかな対応、他国の受け入れと自衛隊の10万人の支援など阪神淡路大震災の当時より迅速であった。ボランティアコーディネーターの存在と役割の発揮とその拠点も速やかに立ち上がった。と見ることが出来る。被災後、復興に財政的支援と災害時の補償に関する制度などに奔走されていた兵庫県保険医協会の努力が実っている。阪神淡路大震災の被災と復興への取り組みが、世界でも初めての地震、津波、原発崩壊の三重苦の試練への助走であり、そのための準備であったと当時誰が考えたであろう。
 阪神淡路大震災から14年目を迎え、兵庫県保険医協会では「阪神・淡路大震災の経験を語り継ぐ被災地での生活と医療と看護」出版に取り組んでいた。
 本の発行(2011年2月17日)そのよろこびもつかの間2011年3月11日午後2時46分に日本東北大震災が発生した。
 その自然災害のスケールは、阪神淡路大震災をはるかに超えていた。この著書が今回の大災害の助けにどれほどなるだろう?と考えた。本の出版は被災地医療連携復興訪問に踏み出す力になったと思う。その必要性のために創れた本であると認識している。
 現在も兵庫県保険医協会の医師、歯科医師、事務職がチームを組んで、東北大震災の被災地の医療機関を訪問し被災地の現状を伺い、他の被災地域の医療現場の情報交換や意見交換を通して交流が続けられている。それを私は医療者による医療連携復興訪問と名付けている。他府県の医療者との交流は現場で復興のプロセスを生きる院長を始め看護部長のエネルギーの変換や充足と一息感につながっているのではないだろうか。被災地への医療チームの訪問は被災地医療を支える一つの在り方ではないだろうか。短時間のミーティングであるが相互交流で支えあう医療のネットワークであると、幾度かその場に同席させて頂いて感じている。

地震、津波、原発崩壊、福島第1原発から25km圏内の一地点で地域医療の拠点として取り組む大町病院に赴任
復興支援はコミニュケーションと自己変革の学び
 被災地の状況を目にしながらも即戦力としては、体力的に無理があり、震災後9ヶ月目の12月8日に南相馬市の大町病院に非常勤看護師として赴任した。
 被災地の医療機関を巡っておられる保団連と兵庫県保険医協会の広川医師チームに、「どこかナースを求めている病院を探してください」とお願いして繋がったのが南相馬市の大町病院であった。当時68歳であったが、猫の手もほしい状況は察知できたので保険医団体連合会の事務局長の取次をいただき応募した。東京保険医協会員でいらっしゃる中野区で地域医療の先鞭を切って訪問診療と被災時の医療対応の仕組み図くりに活躍されているかっての上司、中村洋一郎医師から復興支援金10万円と“復興支援は長期的視野に立って”とのメッセージを頂いて現地へ赴いた。その一部で自転車を購入し病院に寄贈した。私も含めて皆で使わせていただいている。
 私にとっての被災地看護は約20年前東京中野区の中村診療所で訪問看護時代に“被災地に行きませんか”と声をかけていただいたのを切掛けにスタートした。約16年のインターバルを置いて福島の南相馬市の大町病院で再び始まった。
 赴任した大町病院は、復旧の時を経て地域医療の復興に向けて努力の真最中だった。地域の暮らしと健康を支える病院の人材と物理的機能とシステムの再構築であった。それは地域の生活再建(いのちと暮らしを支える)を意味していた。
 被災より3年と6カ月(1277日)経過した今、院長の努力によって関係大学の協力をえて診療部門は専門医の導入が進み、内視鏡センターが誕生し、地域のニーズに応えつつある。日本消化器内視鏡学会専門医制度による指導施設認定病院に指定された。内視鏡技師の認定を受けた5人のナースを含む外来担当ナースがチームを組んで患者さんを支えている。被災地域医療おこしの大きな一歩と言えよう。
 又、病院内においては内装が明るく設備が新しく便利さと感染防止を考慮した仕組みに整いつつある。
 看護部門の努力も見逃せない。全国から支援を望むナースたちの個々の才能と支援への思いを受け入チームを編成している。そして看護がより良いケアへと前進している。そこには復興過程における様々な問題や葛藤を克服する看護師、看護助手、介護福祉士たちの努力がある。

看護チームの再編成:院外からの支援ナースを迎え文化の違いを超えて受け入れる力
 大町病院では他県からの支援ナースがチームの一員としてともに臨床看護の最前線をカバーしてきた。今も他府県から就職した人、他1カ月に2週間あるいは10日から数日間、定期的に支援をしているナースによってチーム編成されている。国の医療機関:国立障害者リハビリセンター病院から看護師長が先鞭を切り3週間交代で約20名の看護師が交代で60週間を支援した。彼らは閉鎖した1ユニットの病棟機能を回復し、患者さんの受け容れを可能にした。彼らの支援は病院全体の復興を支えた。
 生活文化の違い、看護観の違いの中でお互いがら支えあっていく姿は、受け容れる心の広さを持つ福島の文化にその基を見ることができる。支援ナースを思いやること専門職としての看護への責任を果たすためにコミニケーションの努力が双方に必要である。現状のあり方を受け容れること、新しさを受け容れることに難しさがある。それらを克服しながら前進している。その努力の途中で支援から撤退する人、継続する人、新たに支援に来る人と、復興現場に生きるナースたちのコミニュケーションを図る努力は今も続いている。そこには他者の変革ではなく自己変革する力が求められている。
 私自身の支援も間もなく4年目を迎えようとしているが、“復興支援甘くはない”とはっとする時があった。配属された看護チームの希望に焦点を当て、自分の考えを押し付けない。自分の看護の目線で観ないことに注意を払っているが、それでも自分の考えの傾向やこだわりが邪魔をすることがある。その時にはコミニュケーションが成立しない。自分の考えから自由にいることが課題となる。その結果他者の思いや考えが伝わってくる。何をすればよいかが見えてくる。それは自己の変革と成長の過程でもある。復興支援は過去に道をつけ、現在を未来に繋げることなのかもしれない。自分が変わる勇気、自己への信頼と忍耐の力を磨きつつ、自己がより成長していくことに喜びが必要である。この年になってこれほどの自分かと情けなくなったこともある。自分を見て、成長していくこと。そこに復興支援の魅力がある。復興支援に臨む者自身が目的を見失しなうことなく、又、看護を磨き、関係を磨き、実践する喜びを持ち続けて行きたいと思う。
医師の手、看護師の手、介護士の手、病院を支えるあらゆる職種の手、従来の手、新しい手が一つに繋がり域域医療を支える病院に向かって復興の道はまだまだ続く。

*コミニュケーションとは、関わり合い、かかわり合うこと、理解し合うこと、通じ合うという意味で用いている。

全国保険医団体連合会並びに保険医協会の皆様へ
 今後も被災地の医療に心を添えていただき、復興の歩みを続ける被災地に医療者による医療連携復興訪問の継続を願っています。大町病院の明るく、楽しくエネルギーを回復するようなカラーに塗り替えられた病室もお訪ねください。

生田チサト
 1995年1月21日保団連と東京保険医協会の支援を得て西宮市の兵庫県保険医協会緊急対策本部西宮市の広川内科クリニックの看護ボランティアとして参加1年間月に1回の被災地訪問を続ける。2011年12月8日(東北大震災9か月目)に非常勤看護師として被災地看護支援に赴く。月2週間~10日間高山と南相馬を往復しながら4年目を迎えようとしている。現在、足浴ケアの実施と研究的な取り組みを行っている。

資料:内閣府の阪神淡路大震災と東日本大震災の比較の資料を添付させていただきました。『平成23年版防災白書』より

2014年9月25日木曜日

避難者健診 参加記

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原発事故による県内避難者を診察する森達哉先生(上)、脇野耕一理事(下)
 東日本大震災・福島第一原発事故避難者に対する「第3回避難者健診」が8月3日、宝塚市・良元診療所で行われた。兵庫県民主医療機関連合会(兵庫民医連)の主催で、協会の池内春樹理事長、脇野耕一理事らが診察し、健康への不安や悩みを聞いた。小児科の診察を行った尼崎医療生協病院の森達哉先生の感想を掲載する。

健康への大きな不安に寄り添いたい

 今回、第3回兵庫民医連避難者健診に参加しましたので、ご報告いたします。受診者は37人、うち小児19人でした。
 私は小児の診察を担当しましたが、やはり保護者の皆さんの健康に対する不安は大きく、「甲状腺が心配」「鼻血は放射線の影響だったのか」「放射線が1番強かった日に、何も知らずに公園で遊ばせてしまったことを後悔している」などの声が聞かれました。
 幸い、大きく体調を崩している児は見かけませんでしたが、倦怠感を訴える児もおり、また全体的にTSH(甲状腺刺激ホルモン)、FT4(遊離サイロキシン)など、甲状腺関連の検査値が各年齢の基準値を超えており、専門病院受診を勧めたケースが、過去の2回よりも多かった印象です。
 甲状腺エコーでは数例に径5㎜以内の嚢胞が見られましたが、正常な頻度なのかは不明です。
 放射線の身体への影響については、現状では「根拠に乏しく、まだはっきりとは分かっていない」と言うしかない段階なのですが、実際に不安に思っていらっしゃる避難者さんたちを目の当たりにすると、そのことがとても歯がゆく、早くデータを集めて結果を出したいという焦燥感に駆られます。
 この健診活動が、避難者の皆さんの身体と心の支えに、そして人類全体の学びの一助になればと心から願います。
【尼崎市 森  達哉】

2014年9月12日金曜日

被災地訪問・インタビュー

 東日本大震災後、一般社団法人「震災こころのケア・ネットワークみやぎ」は、被災者のこころのケアを目的に設立され、宮城県・石巻市を中心に、多彩な精神保健活動を行っている。拠点となる「からころステーション」代表理事の原敬造先生(仙台市開業)を、加藤擁一副理事長、白岩一心理事が訪ね、お話を伺った。

被災者のこころとからだに寄り添って
石巻市・からころステーション 原 敬造 先生に聞く

【はら けいぞう】1949年北海道生まれ。1978年東北大学医学部卒業、同大精神神経科勤務、79年大原総合病院清水病院勤務などを経て、88年9月仙台市青葉区に原クリニック開院。日本精神神経科診療所協会理事、宮城県精神保健福祉協会理事、震災こころのケア・ネットワークみやぎ代表理事、日本デイケア学会副理事長










  
聞き手 白岩 一心 理事
白岩 先生は仙台市で開業されて、継続的に石巻で精神保健活動に取り組んでおられます。震災後の様子などからお聞かせいただけますか。

  震災後初めて石巻市に来た時、以前住んだことのある街の変わり果てた様子に言葉を失いました。震災初期の対応は、仙台から石巻へ物資を届けることからはじめました。被災者の方の話を聞きながら「眠れていますか」と声をかけたり、支援物資の一覧を見せて必要なものを選んでもらったりしました。精神科医仲間の宮城秀晃先生(石巻市・宮城クリニック)が、医院の1階が半分ほど水没したにもかかわらず、避難所になっている近くの小学校で医療活動を展開していました。こうした現状に触れ、石巻市で心のケア活動を行うことを決意しました。あれだけの災害を受けたのですから、長期的な支援体制に基づく「安心と寄り添い」が、何よりも求められています。

聞き手 加藤 擁一 副理事長
加藤 石巻には震災直後に来ましたが、非常に無残な印象で衝撃を受けたことを思い出します。からころステーションが今の活動の拠点となっているのですね。

 原 ええ。長期にわたる活動に備え、宮城先生たちと「一般社団法人・震災こころのケアネットワークみやぎ」を設立しました。2011年9月に石巻市のふれあいサポート事業を受託して、からだと心のケアを意味する「からころステーション」を活動拠点として立ち上げました。ここでは震災をきっかけにして起こる不安や不眠、食欲不振、過度の飲酒やギャンブルなど、心の健康問題に取り組んでいます。訪問活動を軸に、電話相談、来所相談、カフェ活動、心の健康相談会の開催などが主な活動です。

本人の「気づき」を促す支援

 白岩 具体的にはどのような活動を展開しておられるのですか。

  主に仮設住宅の居住者などを対象とした心の相談活動を、電話、来所を通じて行っています。またハローワークでの相談活動や、乳幼児検診を受けに来た母親を対象に心理士を派遣するなど、不安を抱えた人が集まる場所を意識しています。状況を把握し、医師につなぐ体制が非常に重要になってきます。医師による支援者の研修等も行い、サポートする側の体制もより充実するように努めています。従来存在していた地域社会のつながりが絶たれたなかで、いわゆるオフィスベースの「待ち」の支援では、地域・世帯に潜む課題を発見することはこれまで以上に困難と予想されます。専門職による「積極的に働きかける支援(アウトリーチ型)」を行う必要性は一層高いといえます。
 複数回の全戸調査などを実施し積極的に家庭に出向く中から、ようやく隠されていたニーズが掘り起こされることは、これまでの震災における支援でも経験済みです。
 「こころの健康相談」などの名称で正攻法の相談会などを実施しても、地域で埋もれがちな小さなニーズは見えにくいため、健康診断や各種講座・イベントなど多角的で多様な支援・取り組みを実施しています。避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいが変化する中においても、この方針は一貫して継続すべきと考えます。

 加藤 震災から3年が経過し、被災者の方には様々な症状が出ているのではないでしょうか。

  ええ。不眠、不安、無気力、抑うつ、イライラなどがありますが、当初の地震のショックや余震などの不安から、今後の生活の不安を原因とするものにシフトしています。また、もともと痴呆で徘徊をしていた人などが、震災前は軽度だったのが重度化した例も見られます。これは激しい環境の変化がもたらしたものでもあります。
 特に単身の中高年男性が問題を抱えていることが多く、しかも危機的状況でないとSOSを出さない。こうした人たちに対応するために「おじころ」という男性のサロンをつくっています。独居でアルコール問題を抱えている人が基本です。この方々とは、ここの決まり事である「飲まない、賭けない、迷惑かけない」の3つをもとに契約を交わします。今では、この取り組みを人づてで聞いたりして、問題を抱えた人を連れて来てくれる人もいます。基本的にはまず、話を伺って、病気だけでなく、孤独や失職など、その人の抱える問題を広く捉えるようにしています。現在、100人くらいを継続的にフォローしています。毎週日曜日の11時から15時までステーションに集まり、 麻雀や将棋、スポーツ や料理などに皆で取り組み、コミュニケーションを図っています。
 当然、この場から離れると再飲酒を繰り返す人もいますが、一つのモチベーションとして、一定の問題軽減につながっています。こちらからは「アルコールはだめ」と強くは打ち出しません。なぜなら、否認されると、そこで止まってしまうからです。つまり、相談の際、「飲むな」とか「やめなさい」といきなり言うのではなく、一緒に係わりながら本人の「気づき」を促して行く方法で取り組んでいます。
 ステーションは子どもの遊び場としても機能させていますし、科学実験と心のケアの融合や、講演会、コンサートなど多彩な催しも行っています。


心配な生活再建の個人差

 白岩 被災地では、仮設住宅から復興住宅への移住がなかなか進まないと聞きます。

  ええ。復興住宅は必要個数を建設中で来年度末までが目標ですが、とても間に合わない様子です。仙台等に移住した人も多く、石巻は人口16万が15万に、女川は9千が7千弱にそれぞれ減少しています。今後は遅れても復興住宅への移住が進むでしょうが、心配なのは、状況がより捉えづらくなることです。現在私どもでフォローできている人はいいのですが、仮設住宅よりも閉ざされた空間に移ることで、症状を持った人が潜在化することを危惧します。仮設住宅は安普請で、周りの騒音が気になるなどの問題はありますが、逆に他人が生活していることも実感でき、安心につながる面もあります。

 加藤 兵庫の震災後の対応でも、同じ問題がありました。

  そう聞いています。復興住宅はマンション形式のため、どうしても働きかけが困難になり、阪神・淡路大震災で起こった孤独死などが再現される可能性が高いことを危惧しています。阪神・淡路では、復興住宅できた後に、いったん閉じた心のケアセンターを再開しました。その教訓から、幸い石巻では継続して把握する体制がとれていますが、背景としては同じ問題を抱えていると言わざるを得ません。また、住宅を再建して仮設住宅を出て行く人を送り出す側は「取り残され感」を覚え、今まで症状を訴えていなかった人が抑うつを訴えることも危惧されます。

 加藤 再建の度合いの格差が、大きな心の負担になるのですね。兵庫でも、とりわけ3年目を過ぎた頃から、再建の個別差が目立つようになりました。

  小・中学生などは、今は感じていなくても成長してから問題が生じる恐れがあります。高齢者は特に悲惨で、今まで積み上げてきたことの喪失感と同時に、長期化する中で経済的にも困窮していっています。時間の経過と共に刻々と変化するニーズ・状況に応じた、迅速な対応を図れる体制が必要です。また、それらを必要に応じて継続的に実施できる支援のあり方が求められます。

 白岩 医療費の一部負担金免除措置が宮城県は一時打ち切られましたが、受診低下などは現れているのでしょうか。

  宮城県はいったん打ち切られましたが、2014年度に制度が事実上復活しました。ただ、基準が厳しくなり幅広かった対象者が絞られてしまいました。今のところ継続通院の場合は、あまり受診抑制の影響が顕著だとは感じていません。精神科は公費負担医療があることも影響しているのかもしれません。


経験をどう生かしていくか

 白岩 今後の課題をお聞かせください。

  まずはこの活動を、どこまで続けるのかが大きな課題です。ステーションの財政は復興財源基金から支出されていますので10年が一つの区切りとなります。例えば阪神・淡路では20年たっても復興住宅での課題があるのをみても、その後は地域包括ケアの中でメンタルヘルスをどのように位置づけていくのかが大きな問題となります。課題があれば早期に介入する体制や、日頃の心の健康推進が重要です。「心の健康センター」で、障害を抱えている人から健康な人まで、全年齢を対象としたメンタルヘルスを国が面倒みる、そういう体制が必要です。

 加藤 たしかに日常的な精神ケアを地域でどう構築していくのかにつながってくる問題ですね。

  20年前の阪神・淡路から震災後のメンタルヘルス支援に注目が集まり、その後の中越・中越沖地震ではその反省を踏まえた復興支援が行われました。現在、それぞれの地では震災後の時間経過に沿った支援が継続されています。また、かつての被災地からは、事があれば支援チームがいち早く現地へ駆けつけるようになっています。
  東日本大震災では、被災した東北3県を中心に多くの命が奪われました。多くの方が家族・友人・知人、住み慣れた土地を失い、言い尽くせないほどの喪失を感じています。さらに仮設住宅、復興住宅と続く生活は、これまでのくらしを一変させるものです。産業を支えるインフラ再建の遅れ、人口流出と過疎化の進行といった複合的な問題の中で、日常的にストレスが増大しています。
 私たちの経験をどう次の災害に活かすか、またどういった日常的支援体制をつくれるかが、今後問われることになります。

 加藤 先生方の活動に本当に敬意を表します。本日はありがとうございました。

第23回日常診療経験交流会プレ企画

東日本大震災から3年を経て―原発事故、生活再建、被災地医療の今

協会は8月2日に、第23回日常診療経験交流会(10月26日・神戸市産業振興センター)のプレ企画「東日本大震災から3年を経て-原発事故、生活再建、被災地医療のいま」を開催。福島市、気仙沼市などの被災地で地域医療に取り組む医師らを招き、大震災・原発事故から3年が経過した被災地・被災者の現状や、今後の課題などを聞いた。県外も含め、医師・歯科医師や薬剤師、看護師など40人が参加。司会は清水映二・広川恵一両理事が務めた。参加者の感想文を紹介する。



被災地の生活・医療 なお続く困難の実情知る

加古川市・歯科 藤家 恵子

 第1部は、福島市飯野町・生協いいの診療所所長・松本純先生の講演「避難指示の水ぎわでみる原発事故被災地での暮らし」で、そのねらいは、
 1)福島の経験を振り返る.土壌汚染の形成
 2)引き裂かれた福島を知る.帰る・帰れない・決められない
 3)放射能被害のない未来を
の3項目とあったが、あらためて原発被災に苦しむ福島の実情を知り、その深刻さは計り知れないものがあると感じた。
 特に「引き裂かれた福島」のお話のなかでは、放射線量の高いところから出て線量を心配しないで暮らすことを選んだ、つまり選ぶことができた避難者、避難せずに、いわば避難できずに福島に住み続けている住民、一時避難していたが帰還してきた住民、これらの住民間に見え隠れする確執や、子どもたちの健康を案じる母親の心のケアの必要性、女の子が心に抱えている将来への不安などを聞き、随分胸が痛くなった。
 福島の子どもたちが、のびのびと屋外で遊べる環境が一日も早く実現するよう願うばかりである。「脱原発」が可能な未来をつくること、これは大きな課題であると痛感した。
松本純先生(福島市飯野町・生協いいの診療所所長) 

 第2部は、震災直後から宮城県気仙沼での医療支援に尽力されてきた先生方の講演。「本吉で思ったこと」と題して話された川島実先生は、震災で病院機能を失った気仙沼市立本吉病院に院長として赴任された方で、お話は人間味に溢れ、謙虚なお人柄が滲み出ていた。本吉の住民の方々が、どれほどか心救われたろうと確信し、お人柄に敬服してしまった。
 また最後は、山梨市立牧丘病院院長・古屋聡先生の「震災から3年、気仙沼の健康をめぐる状況」。今も継続して行っている医療支援、口腔ケアから摂食・嚥下コミュニケーション・サポートの立ち上げ、「食の支援」を現地の多職種医療連携に引き継ぎサポートしている経緯など、とても貴重な講演で、私自身がその一部に関わらせていただいたこともあるので、心から感謝を申し上げずにはいられない。
(左)古屋聡先生(山梨市立牧丘病院院長) 
(右)川島実先生(気仙沼市立本吉病院前院長)

2014年9月2日火曜日

東日本大震災 現地レポート53

被災地と連帯し復興運動を
須磨区・歯科 加藤 擁一

 東日本大震災から、はや3年半が経つ。私自身、4度目になる被災地訪問をさせていただいた、報告と感想を述べたい。

 初日は、石巻、女川地域を訪問した。この地域は、私は被災直後の2011年に訪問して以来、3年ぶりである。泥とがれきに覆われた当時から、どのように復興しているのかを見聞きしておきたいと思い、出発した。途中の田園風景はのどかで、田んぼに漁船が転がっているような、3年前の息をのむ光景はさすがにもうない。住民の足であるJR仙石線は、待望の全線復旧が来年叶うそうである。
 その石巻駅前で、被災者たちの心のケアに取り組んでおられる、「からころステーション」を訪れた。仙台市でメンタルクリニックを開業する原敬造先生が、震災直後から立ち上げた「からだとこころの健康相談所」である。
 被災者はさまざまな悩みを抱えているが、いきなり被災地に乗り込んで「メンタルヘルス」と言っても、心を開いてもらうことはできない。まず、相談活動からということで、仮設住宅訪問、相談会、コンサートやカフェなどを、日常的な活動としておられる。アルコール依存症や、うつ病など、当面するさまざまな問題への取り組みを報告していただいた。地道な活動に敬服する。
 原先生の話を聞いた後、職員の方の運転で、女川町周辺まで被災地を案内してもらった。女川では、被災した旧町立病院が、昨年秋より介護施設と一体化した地域医療センターとして再スタートしていた。水産業も少しずつ復興しつつあるようで、漁港の食堂でおいしい海鮮丼を食べることができた。
 しかし、その先の雄勝町や北上川河口の大川小学校のあたりに来ると、まだ、津波の爪痕がはっきり残っていて、復興の厳しさも実感する。

 2日目は、仙台市内にある「あしなが育英会・レインボーハウス」を訪問した。この3月にできたばかりの真新しい施設を見学させていただいて、震災遺児たちの心のケアの取り組みを中心に話をうかがった。
 子どもたちの持つトラウマの現れ方はさまざまであり、難しさとやりがいがある。震災で約1700人の遺児がいるとされているが、その多くは親戚に引き取られ、実態が把握しにくい部分も多いという。長期的な支援活動が必要なことを強調されておられた。

 阪神・淡路の震災を経験した私たちは、これからが復興の正念場であること、被災者の生活再建こそが復興の中心課題であること、被災3県が進めている、医療費窓口負担免除継続の運動の重要性を訴えてきた。

 兵庫県でも、現在、借り上げ復興住宅からの被災者追い出しが大きな問題になっている。私たちも震災復興運動の道半ばにいる。連帯して、運動を進めていくことが大事と感じて帰路についた。

2014年7月31日木曜日

東日本大震災 現地レポート52

第29次・被災地訪問参加記
兵庫県保険医協会理事 歯科医師 赤穂郡上郡町 白岩一心

 2014年7月19日(土)~7月21日(月)。兵庫県保険医協会は、第29次・東日本大震災被災地訪問を行った。
 日本国憲法25条・生存権、憲法11条・基本的人権尊重、憲法13条・幸福追求権などの憲法理念に基づいて、東日本大震災が風化されないように、福島原発事故が政府によって、歪められないように、被災地、現地にお伺いすることによって、全国に情報発信したり、問題点を浮き彫りにして、国会請願で直接国会議員にも訴えている。

 今回の訪問では、「被災者の皆さまの心のケア~被災地での心のケアシステムの現状を学ぶ」ことをテーマに掲げて訪問した。訪問場所は、宮城県仙台市と石巻市、女川町で、参加者は、加藤擁一副理事長、藤田事務局長、楠事務局課長、そして私、白岩が、兵庫協会代表として現地に行かせていただいた。

 7月19日、宮城県仙台市に現地集合し、2泊3日の被災地訪問であったが、得られるものは計り知れなく、兵庫協会の財産となると同時に、被災地で対応してくださった現地の方々に対して感謝の念は絶大なものである。

 初日19日(土)仙台市に現地集合して、スケジュール確認と今回の訪問目的を明確化し、資料の確認をした。翌日20日(日)午前7時55分に、レンタカーにて出発した。

■「からころステーション」(石巻市)で懇談、女川町内へ

 まず向かったのは、津波被害の大きかった石巻市の被災者の皆さまの「心のケア」が、震災3年を経過して、どのようにして行われているかを学ぶため、「震災こころのケア・ネットワークみやぎ・からころステーション」を訪問した。
 仙台市を出発して石巻市に到着するまで車中からは、多数の震災でお亡くなりなったと思われる真新しい墓地が見られた。震災直後、石巻市に現地入りされた加藤副理事長が、「がれきこそ無くなったが町ごと消えたようです‥…」とつぶやかれたことが心に響く。
 石巻市「からころステーション」とは、「体と心のケアステーション」を意味していることを到着してから学ぶが、「からころ」が、第29次被災地訪問の最終テーマになるとは思いも寄らなかった。
「からころステーション」では、事務局・高柳伸康様が、震災翌月4月下旬から現在までの経緯を詳細に説明してくださった。お話をお聞きする中で、政府の震災復興対策、社会保障政策が何ひとつ進んでいないことが明白になった。
 けれども、からころステーションでは、ハローワークとの連携、社会福祉協議会との連携、仮設住宅訪問、来所相談室の設定、乳幼児期検診への心理士派遣、保健師の派遣サポート、医師による心のセミナーなどを事業展開、対応の素早さ、先見性を強く感じた。
 そして自ら被災者にもかかわらず、被災者の方々に寄り添う姿が鮮明であった。ニーズに合った支援、定点地域のケア活動、も充実している。このような支援が、政府主導で行われていくべきで、社会に広く訴えていかなければならない。
「おじころ」という言葉も印象深い。単身独居の男性の心のケアを指している。男性の単身独居ほど、アプローチが難しく、把握も難しい。アルコール依存症の問題も多い。
「ベビころ」は、赤ちゃんと子育てお母さんのケアにも対応されている。三日目に引き続いていく流れの中で、子どもたちの支援構築に、科学実験や子ども視線の参加型イベントの定期的開催も大切なケアである。

 今後の課題として、住宅格差問題や生活格差問題への対策、被災者本人の希望でなくても介入しなければならない場合の対策、そして支援者自身の疲労、医療費免除打ち切りに対する今後の現実的課題が挙げられると締めくくられた。

 安心な生活には、長期的展望と支援体制の確立、復興住宅が出来ないため、仙台市への人口流出が大きいことも学んだ。高柳様のご説明のあと、医師・原敬造先生と懇談した。

 懇談後、精神保健福祉士、社会福祉士の曳地芳浩様に、からころステーションの自動車にて、石巻市と女川町を案内していただいた。この曳地芳浩様は、26歳で、社会人3年目でありながら、東日本大震災の復興支援対策を真剣に見つめて、故郷石巻市に対する愛着心、仕事に対する集中力、判断力、決断力、将来的展望に優れた人材である。
現地での出会いの中で、最も尊敬出来る皆さまのおひとりである。兵庫協会参加者全員一致した人物像である。

 案内していただいた女川町では、津波25㍍の高台の病院の一階全滅状況拝見が心に残る。女川町は、原発の町であるが、原発マネーの影響か、役場や保健センター、病院が高台に立派にそびえ立つ。けれども原発問題は住民の間では禁句のイメージを感じた。女川町のリアス式海岸も案内していただいた。

 石巻市大川小学校も案内していただいたが、悲しみが心に焼き付いて離れない。大津波に飲まれて、児童70名が死亡、4名が行方不明となり、全国的にも有名な被災地となってしまった。慰霊碑には線香が絶えなく、献花も多数供えてある。子どもを失った保護者たちは、子どもたちが逃げるはずだった北上川堤防に、ひまわりの種を植え、自分の子どもを育てるのと同じ気持ちで育てているお話も忘れられない。
 石巻市と女川町を約6時間訪問させていただいた。あまりにも惨状が強すぎて、今後の訪問の重要性をさらに感じた。再訪問の約束とスタッフ皆さまのご活躍を祈りながら石巻市をあとにして、仙台市に戻った。

■宮城協会・井上副理事長と懇談

 夕方、宮城県保険医協会副理事長・井上博之先生と懇談した。井上博之先生は、松島町で歯科医師として医療に従事されておられる。検屍では、カルテの重要性、レントゲン写真の重要性、口腔内写真の重要性をお聞きした。
 大学で学んだ法医学や法医歯学よりも生々しく、悲しみも背負っておられ、お話をお聞きするのさえ、つらくなってしまった。歯科医師として、災害時でも関われることを強調されたことが嬉しい。
 歯科医師は、災害に関係出来ないという見解の人もおられる。医師、看護師、薬剤師、歯科医師、歯科技工士、歯科衛生士のチーム医療が、災害時には必要と言われた。兵庫協会の医科歯科薬科一体運動も、讃えてくださった。震災を通じて、被災地の保険医協会との親交が厚く築かれる。これこそ兵庫県保険医協会ならではの活動だと思った。
 継続事業展開には、出会いと別れが付き物であるが、阪神淡路大震災を経験した兵庫協会だからこそ出来る事業だと思う。宮城県保険医協会と井上博之先生にも深い感謝の気持ちでいっぱいである。2日目を無事に終えた。

■仙台レインボーハウスを訪問

 3日目、21日(月)。午前9時から震災遺児、震災関連遺児の支援をしている、民間任意団体「あしなが育英会・仙台レインボーハウス」を訪問した。東日本大震災で、保護者を亡くした遺児たちの心のケアに取り組んでいる、レインボーハウスは、仙台と石巻、岩手県陸前高田の3カ所にある。
 あしなが育英会とは、教育支援のイメージが強いが、心のケア事業の二本立てで活動をされている。仙台レインボーハウス・若宮紀章様に、施設案内と懇談をさせていただいた。
 一階には体育館のような多目的ホール。遺体安置所や避難所のイメージを拭い去るような局面の天井、ぬくもりある設計と機材。新築でなく、元は整形外科病院のリフォームだとお聞きした。遺児のお世話をするボランティア養成講座も行われている。
 3歳くらいから高校生までの遺児の心のケアをするための施設設計工夫が至る所に見られる。明るい基調とした各お部屋、トイレ、談話室、お風呂場、などの詳細な説明をしていただいた。
 震災7日目から直接遺児の皆さまに直接支援活動に入れたのは任意団体がゆえの活動のお話には、保険医協会と通ずるものがあると思った。遺児の保護者が、祖父母であったり、叔父叔母であったり、悲しい現実をお聞きした。
「火山の部屋」と命名される部屋にはサンドバッグが吊り下げてあり、遺児の皆さんの心のはけ口となっている紹介があった。不登校児やひきこもり、高校生退学児童の対応もされている。遺児同士の関係が強くなったり、年上の子が、年下の子の面倒を見たりすることも教えていただいた。血縁関係の強い東日本では、家族の分断による心のケアの必要性をお聞きした。
 一番の問題は、あしなが育英会に相談したり、レインボーハウスに来れない遺児たちの心のケアが課題だと若宮紀章様は強調される。

 あしなが育英会の活動は、地域を超えて、全国的に支援者が広がっているが、現場でのボランティアの人数には足らない現状があると言われる。仮設住宅の特に多い石巻市レインボーハウス、岩手県陸前高田市のレインボーハウスは、仙台レインボーハウスよりも遺児支援活動が急務と聞く。
 あしなが育英会訪問を終えて、仙台駅から新幹線にて帰神した。車中も震災復興支援や被災地訪問の反省点などを話し合った。

■医療従事者の役割、人間にとって大切なこと

 医療従事者は、やはり震災被害者の子どもたち、特に親兄弟姉妹を亡くした遺児たちの心のケアを学ぶ必要性は高いと思われる。未来を背負う子どもたちこそ、今後の心のケアが大切だと思う。
 一人一人の心のケアのアプローチには、からころステーションと、あしなが育英会では違うけれども、最終テーマは、幸福な生活再建であり、情報を全国に伝達して、みんなで分かち合う精神だと思う。
 あらゆる体験を2泊3日で体験させてもらったが、伝承していかなければ、被災者の皆さまと同じ土俵で心を分かち合うことは出来ない。心のケアは、切れ目無く完成完全がないけれども、私たちに出来ることは、現地に足を運んで関わらせていただいて、学ばさせていただいて、そして問題点を浮き彫りにして、今後につなげていくことだと思う。

 第29次・被災地訪問のテーマ「被災地の心のケア」は、全国各地にも通ずる課題も見えた。政府の社会保障政策が、経済力を優先した成長戦略の名目で潰されることにも原因があると思う。被災地訪問を通じて、いかに心が人間には大切かを学び取る今回の訪問となったことを報告する。
 是非とも今後も被災地訪問事業に参加させていただきたいと思う。そして微力ながら非力ながらも、出会いを大切にして行きたいと願う。
 第29次・被災地訪問計画に携わってくれた、兵庫県保険医協会事務局の皆さまには、深く感謝していることを最後に申し述べたい。

2014年7月23日水曜日

東日本大震災から3年
被災地インタビューその②

見えない分断を越えて
福島県南相馬市・大町病院 猪又義光院長、藤原珠世看護部長

 保団連は4月26日から29日にかけて、兵庫・京都歯科協会とともに青森・岩手・宮城・福島協会の協力も得て東北被災地訪問を行った。前回掲載した福島県南相馬市の雲雀ヶ丘病院・堀有伸副院長のインタビューに続き、今回は、看護師不足や在宅医療体制の未整備と向き合いながら、同市の地域医療を支える大町病院・猪又義光院長と藤原珠世看護部長への保団連・住江憲勇会長のインタビューを掲載する(文責は編集部)。

■医療を必要とする人 いかに多いか

住江 震災から3年がたちました。この間、筆舌に尽くしがたいさまざまなことがあったことと思います。

猪又 この3年間、保団連・兵庫協会が被災地や当院を訪問し続けていただいていることに感謝します。全国からの物心両面の応援に、いつも勇気づけられています。もし南海トラフ地震が起きたら、今度は私たちが支援する番ですね。
 3年という時間が経過した気がせず、奇異な感じがしています。原発事故後の3月21日に、全入院患者126人を他の地域へ搬送しました。その頃には地域の住民もほとんどいなくなっていましたが、今振り返ると、大震災・原発事故直後の混乱の中でも「ここに留まっていたい」という気持ちが自分にはあったのだと思います。南相馬に残り医療を必要とする人々に対して、「医療機関がなくなったらどうする」との思いに強くかられ、「私の仕事は医療を提供すること。できることだけやろう」と、翌月の4月4日に外来診療を再開しました。

住江 震災・原発事故からわずかな時間での再開ですね。驚かされます。

猪又 再開できた大きな要因は、常勤医師が戻ってきてくれたことです。外来を中断している間、1日1回は常勤医に連絡をとっていました。診療再開の意思を伝えると、全員が快く「わかりました。すぐ行きます」と言ってくれたのです。
 親しくしている商店街の方が必死になって、門前の調剤薬局一軒一軒に「大町病院が4月4日から再開するぞ」と連絡し、薬剤師に戻ってきてもらったことも大きかったですね。

住江 医療者、地域の方に支えられて再スタートできたわけですね。

猪又 外来診療を再開し、医療を必要としている人がいかに大勢いるかを知りました。外傷の人も含め、たくさんの患者が待合室にあふれ、門前薬局には車や人の長蛇の列ができました。当院だけでなく、他の医療機関から処方箋をもらった患者も、大町病院の再開を聞きつけ門前薬局に駆け込んできたのでしょう。当時、県の地域医療課からの通知で「入院は5床、72時間まで」という規制があり、現場を考えない非常に形式的な措置がとられていました。しかし「責任は俺がとるから」と、手術や入院など、必要な人には必要な医療を提供するよう努めました。なるべく日常診療に近づけていこうと職員に話し、医師・看護師、スタッフらも皆、目の前の診療に徹してくれました。
 病院が医療を提供することは当然ですが、今は、治療内容など医療の質をより一層高めていくことが大事だと思っています。

■原発事故補償の差がスタッフ間に影落とす

住江 患者さんや地域住民の方々の健康状態はいかがですか。

猪又 受診者は県外から来ている除染作業員が多く、毎晩酒盛りをして肝硬変を患う人がいます。また、高血圧症でも糖尿病でも、重症者が増えている印象です。食事の影響も大きいと思います。
 在宅療養も困難になっています。入院してきたおじいちゃん、おばあちゃんが回復して自宅に戻られても、すぐに悪化してまた病院に戻ってこられます。震災後、住環境の変化などもあり、在宅で面倒をみる余裕が家族の方になくなっているのです。

藤原 強制的な退院・避難などで多くの患者が医療的に保護されず、仮設住宅入居後も精神的、内科的な疾患を悪化させています。在宅医療・地域医療を支える本格的なチームワークが求められていますが、訪問看護師、訪問看護ステーションも不足しています。地域医療を支えるスタッフをいかに集めるかが常に課題です。
 当院においても、もともと100人いた看護師が80人くらいまでは戻ってくれていますが、不足は続いている状態です。来年は何人入ってくれるだろうかと考えると先が不安になります。避難先で子どもの学校も始まって生活が定着し、南相馬に戻りにくくなっています。加えて、震災・原発事故後から地域に残り頑張ってきたスタッフも、3年が経過して相当疲れが出ています。

住江 看護師の皆さんが戻ってこられるような環境づくりも、大事ですね。

藤原 ええ。それには学校など生活基盤を整えていくことが必要です。そうしないと、看護師を含め若い世代の人たちが南相馬に戻ってこられません。
 それに、原発事故が当院の看護師を含め職員間にも大きく影を落としており、住んでいる地区によって元の家に戻れる人と戻れない人、窓口負担が免除されている人とされてない人など、3年たっても分断が起きています。住民に医療を提供しなければならないという思いで一緒に仕事をしていますが、福島第一原発の廃炉や放射線の影響について展望が見えないなかで、同じ気持ちで前に進んでいくことが困難になり、いろいろな心の葛藤があるのが現実です。 
 看護師間の気持ちの分断を乗り越え、どう心をまとめていけるか、今年の課題だと感じています。「病院全体が地域医療を支える立場で動こう」と院長が方針を出しているので、そこに向かって看護師としてどう医療を提供するのか、本来の医療従事者としての魂に響くものを病院内でつくり出していきたいと思っています。

■問われる国・県の役割

住江 生活再建の将来展望を示さず、しかも被災者の間に分断を持ち込むようなことは許されません。 
 3年前の震災直後に被災地へ行ったとき、ある被災者から「阪神・淡路大震災では、復興にどれくらい時間がかかったのですか」と聞かれました。長い期間がかかると答えて落胆させることもできないし、かといって無責任に期待を抱かせることもできない。何とも言いようのない気持ちにさせられました。そういう方々が震災・原発事故から立ち直っていくのを後押しすることこそが、県政や国政の役割のはずです。しかし実際に国がしていることは、原発政策でも被災者の気持ちを踏みにじってばかりです。

猪又 先ほどの入院ルールも同様ですが、震災後、県や国は被災者の実態を顧みず、何かと規制するときだけ出てくるのも現場の者としては妙な感覚を抱きました。

藤原 放射線の影響で福島に「見えないものによる分断」がある現状は、全国に伝えていかなければとも感じています。

住江 私たち保団連・各協会も被災地訪問を通じて、被災地の現状を全国に伝え続けたいと思います。本日はありがとうございました。




■猪又義光(いのまた・よしみつ)
大町病院院長。専門は消化器科。1944年福島県生まれ。東京慈恵会医科大学卒。医学博士。日本消化器病学会専門医。日本消化器内視鏡学会専門医。

■藤原珠世(ふじはら・たまよ)
 大町病院看護部長。1958年福島県浪江町生まれ。87年より前身医療法人の猪又病院に勤務。2005年より現職

■大町病院
 1877年(明治10年)に開設した前身の医療法人慈誠会・猪又病院時代を含め、約130年の歴史を持つ。2004年に猪又病院を引き継ぎ、医療法人社団青空会・大町病院として診療開始。震災時は一般病床104床、療養病床84床。14年7月現在は一般80床、療養60床。常勤医11人。全国各地からボランティア看護師などを受け入れている。福島第一原発から25キロに位置する。

(全国保険医団体連合会発行 全国保険医新聞 2014年7月25日付掲載)

2014年7月15日火曜日

東日本大震災から3年
被災地インタビューその①

住民の不安に寄り添う

福島県南相馬市・雲雀ヶ丘病院 堀有伸副院長


 保団連は4月26日から29日にかけて、兵庫・京都歯科協会とともに青森・岩手・宮城・福島協会の協力も得て東北被災地訪問を行った。福島県南相馬市で医療活動を続けている雲雀ヶ丘病院・堀有伸副院長と、同市の大町病院・猪又義光院長らに、保団連の住江憲勇会長が話を聞いた。今回は、精神科医として被災者の「三つの不安」に向き合う堀副院長のインタビューを紹介する。

■被災地における「三つの不安」

住江 東北被災地のなかでも原発事故による影響で、震災直後から現在に至るまで雲雀ヶ丘病院ではさまざまな苦労があったことと思います。大震災から3年以上たった現在の状況をお聞かせください。

 当院は福島第一原発から北24キロ、福島県浜通りの原発以北で唯一稼働できる精神科病院です。20~30キロ圏内は事故直後は屋内退避指示区域に、その後4月22日から同年9月30日まで緊急時避難準備区域になり、当院も全入院患者を他の地域へ転院させました。原発事故後は地域の高齢化が進みましたが、高齢者施設やヘルパーが不足しているため、南相馬市内で施設に入所できる人はほとんどいません。
 被災地の住民は口には出しませんが、今なおさまざまな強い不安を感じて生活されています。私は被災者の「三つの不安」に対するアプローチが、この地域で精神医療を考えるヒントになると考えています。
 一つは、「現実問題に由来する不安」です。仮設住宅で安心して暮らせない、仕事に復帰できない、生活が困難などの現実の問題は、実際に具体的問題を解決するか、諦めて現実を受け入れることでその不安から解放されるかもしれませんが、精神医療では解決できません。私たち精神科医は、地域社会の復旧・復興を傍らで応援し、お手伝いさせていただくというスタンスが大切です。
 二つ目は、「神経症的な不安」です。原発事故による低線量被曝の影響や、先の見えない廃炉作業などへの過度に悲観的な考え方によるもので、一番見逃されがちです。精神医療が関わるべきかどうか微妙なケースもありますが、望ましいのはカウンセラーなどが寄り添って悩みを聞き、問題解決に付き添うことです。
 最後に、「精神病的不安」です。不安が一定の水準を超え、うつ病や統合失調症などの精神病的症状が強く出ているときは、薬物療法や入院医療など、医学的な治療・管理が必要になります。私たちが病院で中心的に行っていることです。

■アルコール依存症や認知症の進行が深刻

住江 精神医療を必要としている方にはどのような特徴がありますか。

 知的障害が基盤にあって、避難生活に耐えられず行動異常になり入院してくる方は、震災後、明らかに増えています。ただ、当院が入院を再開してから最初は、予想よりも入院患者が少なく、入院適応になる気分障害やうつ病の患者は増えていないように感じました。統合失調症の入院患者数は震災前より減った印象です。
 このことは、必ずしもポジティブにとらえず慎重に解釈したい。一つは、統合失調症や躁うつ病の好発年齢である20~50歳代の人口が地域から流出したことが大きいといえます。また、当院が1年入院を中止していた間に他地域の病院に入院したのかもしれません。一方で、本来はリスクの高い人が震災直後から軽躁的にがんばり続け、疲労が蓄積している可能性があります。実際、脳血管障害や高血圧の人は増えており、ストレスを抱えて休みたい人、休むべき人はたくさんいます。

住江 大震災と原発事故という過酷な体験を経て被災地に留まり暮らしている方々が、さまざまなストレスにさらされ心身ともに疲弊しているであろうことは、20年前の阪神・淡路大震災の経験からも想像に難くありません。阪神・淡路では仮設住宅の独居男性を中心に、心身の疲労や孤独からアルコール依存に陥ることが深刻になりました。

 南相馬市でも、仮設住宅でアルコール依存の人が潜在的に増えているようです。また、恒常的に入院依頼があるのが認知症の患者さんで、数は増えています。原発事故の影響による住環境・人間関係・生活習慣の喪失など、認知症悪化のリスクファクターが南相馬市では明らかにそろっています。深刻なのは、孫や子どもが放射線から逃れるため他県に引っ越したことをきっかけに、抑うつ的になり認知症が一気に進行するケースです。

■不安を抱えられる地域社会に

住江 住環境の整備・改善は最優先課題だと思いますが、阪神・淡路と比べて災害復興公営住宅の整備が東北3県では進まず、依然として多くの方々が仮設住宅で生活していると聞きます。

 阪神・淡路のときの調査で、自宅が全壊・半壊・一部損壊だった方を比較すると、PTSD(外傷後ストレス障害)の発生率に明確な有意差が出ています。PTSDは生活が安定してくると自然寛解しやすいとも言われており、まずは被災者の生活再建が最優先課題です。
 住環境の問題も含め、先ほどの「三つの不安」を地域社会・コミュニティーの中で抱えきれないと、「ここに留まる限り不安は解消されない」と感じ外へ出ていかざるを得なくなります。もちろん、地域を出て暮らすことは必ずしも悪い選択ではありません。ですが、私たちとしては、地域に残り一生懸命被災地で働き生活している人たちの、不安を抱えることのできる地域にするために、貢献したいと思っています。
 同じ目線で関わりを促進しながら基本的な信頼関係をつくり、被災者の心の安定・回復を図ることを目指しています。住民と病院スタッフによる朝のラジオ体操など、できることから取り組んでいます。

住江 地域の不安を抱えるという点で、精神医療を提供する雲雀ヶ丘病院の存在は大きいですね。

 時代・地域を問わず、統合失調症のような精神疾患は人口の約1%の割合で発生すると言われています。地域で生じる不安の底を支える精神科病院があることは、住民が地域で暮らしていく上での安心・安全につながり、とても重要だと思います。

住江 医療費の窓口負担免除・軽減を原発被災者だけでなく、より幅広い被災者に適用すれば、安心して医療機関にかかることができ、平常時の医療ニーズの充足も望めます。被災地医療に奮闘されている堀先生の発信は、私たちにとっても極めて貴重です。保団連も、訪問活動を継続して被災地の状況を全国に伝え続けていきます。
 本日はありがとうございました。


■堀 有伸(ほり・ありのぶ)
雲雀ヶ丘病院副院長。精神科医。1972年東京都生まれ。97年東京大学医学部卒。2001年同附属病院精神神経科助手。08年帝京大学医学部附属病院精神神経科助手。12年福島県立医科大学災害医療支援講座助手(特任助教)。同年4月より雲雀ヶ丘病院勤務

■雲雀ヶ丘病院
1956年開設。大震災発生時は4病棟254床で約190人の患者が入院。震災で全入院患者を県内外の他院へ転院させた後、3カ月間休院。2011年6月下旬から外来を、翌年1月17日から入院を再開。現在は急性期病棟と認知症病棟の各60床・2病棟。福島県立医大災害医療支援講座からの派遣医師も含めた4人の常勤医と、週末や当直の非常勤医師らがいる。震災直後の患者の転院などに奔走した、県精神病院協会会長でもある熊倉徹雄氏が今年4月より院長に就任。熊倉院長を先頭に、精神医療の提供を通じて地域の復旧・復興に取り組んでいる。

(全国保険医団体連合会発行 全国保険医新聞 2014年7月15日付掲載)

2014年6月4日水曜日

現地レポート51(2)

東日本大震災 現地レポート51(2)
現状を知り、思い新たに

兵庫協会は4月27日〜29日、東日本大震災被災地を訪問。前回に続き白岩先生のレポートを掲載する。

2014年4月26~29日東日本大震災被災地訪問(前)


2014年4月26~29日までの4日間、東日本被災地訪問に参加した。今回の被災地訪問では、保団連会長・住江先生が、私たち兵庫県保険医協会の28回目の訪問に初めて同行された。つぶさに兵庫県保険医協会の結束力と被災3県協会との連携と交流の深さに驚かれ、今後の東日本被災地への復興支援運動に弾みがついたといえる。            

憲法25条における「生存権」の重みを実体験し、常に憲法理念のもと、兵庫県保険医協会として医療運動を実践しているが、今回の被災地訪問の一番の目的に、憲法を守り抜く立場を鮮明に解き明かしていくことを念頭に置いた。
しかしながら被災地では、「受け入れていただく」「関わらせていただく」「学ばさせていただく」という気持ちが常に必要で、継続した訪問活動がどのように展開させなければならないかを考えていかなければならない。下記報告は、前半の2日間である。

■岩手県野田村
今回の被災地訪問では、2つのグループに分かれて、視察及び訪問を行った。私の参加したグループでは、4月26日青森県八戸市に現地集合し、広川理事を団長に即座に結団式を行い、決意表明のごあいさつがあり本格的に被災地訪問が始まった。
26日の初日は、広川先生から青森県保険医協会の紹介があり、原発に対する住民運動の実態を学んだ。明くる日27日。午前6時50分に八戸市を出発。南下して岩手県に入り、広川先生から岩手県保険医協会の紹介があり、現地の復興支援を学んだ。具体的には、まず最初に野田村役場を表敬訪問し、行政の立場から復旧・復興支援の具体的政策を、小屋畑勝久教育次長からお聞きした。
野田村は、昨年NHKの朝の連続ドラマの「あまちゃん」でも一部紹介された。野田村では、三陸鉄道の早期復旧再開、応急仮設住宅から公営復興住宅への居住区移設充実、医療施設の公営にて再開など衣食住の充実が震災約2年で行われており、被災地の中では急速に復興の進んだ市町村である。平成の大合併に参加しなかったことが、復旧・復興が進んだ要因と、教育次長は結んだ。
市町村合併をしなかったことから約4900名の住民が震災前から声かけ運動が進み、都会のような隣近所の交流がないわけでなく、一人一人の責任がコミュニティーを形成していった過程が推測される。
私たちが野田村を訪問したあと、安倍総理大臣が野田村を視察し、野田村を例に政府の被災地政策が進んでいると発表した。一部分の復興成功例を取り、被災地全域の復興が進んでいるかのようなコメントは、やめていただきたいと思った。
次に南下し、田野畑村に入り、江戸時代に多発した飢饉の際、住民団結による一揆の歴史を学んだが、今の時代のように、署名運動の大切さ、住民の度重なる嘆願書提出、住民による住民のための命を守る運動の基本を学んだ。

■岩手県田野畑村
岩手県には原子力発電所が建設されていない。しかしながら政府案では岩手県にも建設計画があった中、事前に建設反対運動を発展させた開墾村に居住して、医療の立場から運動主導をされた保健師の96歳・岩見ヒサさんのご自宅を訪問した。
貧困の戦時下の国民生活から医療の充実を行い、開墾して理想の村をつくる苦悩、子育て支援の大切さ、社会保障の充実こそが開墾していく場合には必要であり、家族制度の在り方などの総合的思考が、岩手県に原子力発電所建設をストップに導いたのではないかと察しつつ、約2時間お聞きしたが、96歳とは思えない語り口。そして女性の社会進出にも言及され、胸を強く打たれた。社会資本の充実は、今の福祉の原点となり、フォーマル、インフォーマルの整備が、介護の充実につながるという、介護保険法成立にも関与している貴重な体験談を聞く機会となった。開墾村の歴史を知ることで、被災地となる現在、生きる喜びも重ねて学んだ。

■岩手県陸前高田市
こうした学びの中で、陸前高田市や気仙沼市の津波被害と復旧・復興支援体制を見ると、兵庫県保険医協会の医療訪問の活動が、継続的に計画される理由が自然と噛み砕かれていく。
陸前高田市では、ベルトコンベアによる盛り土政策や奇跡の一本松が、日本中で有名となる中、被災者の皆さんが、全国からの支援金で建設された、「朝日のあたる家」を訪問した。
知的障碍者の方々、発達障碍者の方々が、地域の方々と一体化して自立支援組織化され住民の憩いの場所となり、健常者と精神的に悩みのある方々、被災以後の心の悩みを共に分かち合う組織及び施設が、「朝日のあたる家」である。継続した兵庫県保険医協会の訪問により、いつの間にか初対面の私にも温かい目を向けていただいた。
「朝日のあたる家」では、音楽を通しての交流も行われている。兵庫県保険医協会も、音楽交流訪問をしており、幅広い活動こそが、被災地の方々と心が一つになれることを確認した。

■宮城県気仙沼市
このようにして、岩手県をあとにして宮城県に入り、まずは広川先生から宮城県保険医協会の紹介があり、次に訪問させていただいた気仙沼市では地元医師会長・森田潔先生との懇談、さらに気仙沼市での地元ボランティア、仮設住宅自治会・自治会長、ボランティア医師、管理栄養士の方々を交えての懇談会で、気仙沼市の復興の現実の隠れた問題点が浮き彫りとなる。
例えば、地元の住民の懇願とは違う県知事や県の被災政策。個人情報保護法の為に、住民自治が機能しない重大事項、仮設住宅を分散化したために、仮設住宅同士の問題などである。計画的な復興のため、新しい町つくりは必要不可欠であるが、気仙沼市のような津波被害の大きな町では、敢えて遺産として建造物を残して、建造物と共存しつつ再生の議論も必要でないかと個人的に感じた。

森田医院を訪問







気仙沼市内での懇談











■訪問前半を通じて
今回の被災地視察と医療訪問で、明白となったのは、仮設住宅の分散化による住民の心理の分散化、プライバシーの保護の名のもと、政府や都道府県単位の行政の対応の遅さ。特に仮設住宅の劣悪な住居から起きる健康被害は、震災関連死の原因ではないかと思われる。
完全に憲法25条の生存権を無視した、劣悪な仮設住宅から早期の公営住宅転居を進めなければならない。
今回の訪問で感じたキーワードは、「分断」である。家族の分断、住民の分断、職場の分断、教育の分断、医療福祉の分断、行政の分断など。これらは、目に見えない部分が多く、高齢化する家族崩壊や高齢化率30%を超える超高齢化市町村の現状を、さらに悪化させて心労の疲弊につながっていく。
これは、被災地に限ったことではなく、全国的に潜在する問題である。そして兵庫県保険医協会として、開業医の権利や生活の保障を主張する中では、エゴに取られないよう、市民や国民を巻き込んだ市民運動の重要性を訴えつつ、他府県でありながらも東日本被災地では、阪神淡路大震災を経験した兵庫県保険医協会ならではの医療運動の中に、被災地医療支援策も練り、盛り込み、全国的な社会保障制度充実を強く継続して訴えていかなければならない。
兵庫県保険医協会、個々の会員の意見集約をしつつ、被災地訪問を通しての住民との連携の重要性を学びつつ、マスコミの報道しない部分にも着目しなければならない。全国10万人の会員を抱える保険医協会ならではの被災地医療支援策も熟慮断行しなければならない。
人は窮地に立たされた時に、振り返って見つめる人たちに会釈を忘れることさえ有り得る。歴史上のキリシタンの踏み絵のような政府政策にも挑んでいかなければならない。
まだまだ被災地訪問では語り尽くせないことばかりであり、前半の2日間だけでもまだ語り尽くせない。後半の2日間も大きな体験となった。
訪問先で合流した福島県保険医協会・菅原浩哉事務局長、京都府歯科保険医協会・平田高士理事・浜辺勝美事務局長、宮城協会・北村龍男理事長・鈴木和彦事務局長、保団連・住江憲勇会長への感謝の念は言うまでもない。
日常の地元地域医療充実に微力ながら尽力しつつも、訪問にも継続して参加させていただきたい。

2014年4月26~29日東日本大震災被災地訪問(後)

兵庫県保険医協会の被災地訪問に、昨年の11月に引き続いて参加した。貴重な経験を通して、被災地の現状から、いかにして復興対策を医療運動に転換すべきかを考える日々となった。前半2日間の参加記に引き続いて、後半2日間の参加記を綴らせていただく。

■福島県へ
4月28日は、岩手県や宮城県とは全く異なる福島県に入った。岩手県や宮城県は、大震災による津波被害による復興支援対策が急務である。特に劣悪な仮設住宅から公営住宅への移転が急がれるが、福島県では大震災による津波被害だけでなく、世界最大規模の福島第一原発事故による生活再建が急がれる。ところが、東京電力の無能さ、政府の情報公開をしない姿勢でなおかつ秘密保持体制。放射線被曝という目に見えない怪しい悪魔との戦いが目に付く。

■雲雀ヶ丘病院
福島県南相馬市・雲雀ヶ丘病院を訪問すると、昨年11月に面会してくださった副院長・堀有伸先生と再会出来て嬉しく感じた。保団連会長・住江憲勇先生、京都歯科保険医協会・平田高士理事、浜辺事務局長、兵庫協会から藤田事務局長と楠課長と合流した。福島県保険医協会事務局長、菅原様とも合流した。
堀先生から病院長、2人の常勤医師、鎌田看護師長を紹介された。雲雀ヶ丘病院では、保団連住江会長から、「現地を訪問して、現地の方々と共感して、共有した全てを全国に必ず発信していく」と、心強いご挨拶をしていただいた。この病院は、精神科の専門病院であるが、堀先生のお話では、原発事故によるPTSDの患者さんは見られない。三世代同居だった多くの多人数家族が分断され、核家族化された影響による高齢者の認知症患者さんが圧倒的に増えたとの解説をしていただいた。支援者の支援の必要性を訴えられた。つまり、医師看護師は、患者さんの医療支援を行っているが、医師看護師不足による、医療従事者が疲弊しない政策を訴えられた。
政府が介入するならば、必ず継続性ある安心安全な対応及び政策を取っていただきたいとの熱い現実をお聞きした。
昨年訪問した時から堀先生が、たった半年間で変わられた。東大病院や東大研究所から、南相馬市に、原発事故以後に飛び込んで来られた堀先生が、半年前、本当に東大病院を辞めて南相馬市に来て良かったのだろうか、哲学を専門に研究を継続しておけば良かったのではないかという迷いの吹っ切れておられる姿が印象的だった。堀先生のような全てを放り出して、原発事故以後に敢えて被災地に飛び込んでいかれる医師に、憧憬の念が強くなった。


雲雀ヶ丘病院で堀先生からお話を伺った













■大町病院
次に訪問した南相馬市・総合私立病院・大町病院では、猪又義光院長先生と藤原珠世看護部長が対応をしてくださった。猪又院長先生は、南相馬市から病院を無くさない、そして地域に根付く医療をという、原発事故以後も変わらぬ医療方針で、必死に患者さんと向き合う姿が印象的だった。老人保健施設を、南相馬市に必ずつくるという壮大な夢も持ち続けておられる。  
藤原看護部長は、看護師不足解消のため、毎日病棟とあらゆる対策のため奔走されている。南相馬市は、福島第一原発から20キロ圏内の避難地域も抱えている。避難区域の方々は、仮設住宅から今後、公営住宅に移住される。
しかしながら病院の医師看護師不足が顕著だと医療の質が落ちかねない。政府は、社会保障改悪を断行しているが、原発事故は人災であり、本気で福島県の実情を改善する気持ちがあるのかと思ってしまう。猪又院長先生は、兵庫協会のように、処方箋調剤薬局の重要性、管理薬剤師の方々との協力も訴えられた。
大町病院では、南相馬市内に住ながら原発事故後の住民の分断を研究している元高校教師で、現在詩人の若松丈太郎様を交えて詩を朗読しながら議論を展開した。原発事故は政府による人災で、ありのままの事実を情報公開しながら、全国に真実を発信していく責任が、地元住民として、地元行政として、政府としてあり、相互交流の必要性を意見交換したことは、貴重な体験となった。
福島県でもキーワードは、「分断」である。家族の分断、自治会の分断、教育の分断、職場の分断、地域コミュニティーの分断、などは被災地に共通している。後半初日は、南相馬市の病院を訪問して、保団連会長・住江先生のご挨拶が重みを持ち、兵庫県保険医協会の継続性ある支援体制に対して驚かれていた。
大町病院で懇談したみなさんと














■飯舘村
4月29日。飯舘村を、いいの診療所・松本純先生が案内してくださった。飯舘村の復旧・復興の遠いかげりを感じた。飯舘村の現実問題に、どうしようもない苛立ちを覚えた。放射線線量が高く、住民はいつ自宅に戻れるか、全く予想もつかない。飯舘村は、全国的にも救済の声が高い村である。自然の美しい村である。原発対策を考えるのは、医師歯科医師も、国民の命を守る職業人として、政策を立案し、政府に訴えていかなければならない。その前に、確実に事実を全国に発信していく必要性も高い。
飯舘村を松本純先生(右)に案内していただいた















■被災地訪問を通じて
今回の被災地訪問に参加して、兵庫県保険医協会の結束力が被災地の方々の閉ざされた心を、少しずつ溶かしているように思う。兵庫県民ならば心を開こうとされる被災地の人たちの姿が目立った。
けれども、被災地に入った限りは、私たちも必死で、本気で、体当たり。継続した事業であるからこそ、見えてくる真実がある。保険医協会会員は、全国に10万人いる。みんなが被災地医療の現況を知り、共有し、発展展開していくことで、潜在的な問題も顕在化していく。
福島県では、福島県保険医協会事務局長・菅原様に2日間大変お世話になった。福島県保険医協会と兵庫県保険医協会の信頼関係も強くなっていくと確信した。保団連・住江会長が、兵庫県保険医協会の真剣そのものを、目の当たりにされたことは、今後必ず実を結ぶと信じて止まない。

■宮城県亘理町・鳥の海歯科診療所
私たちのグループは、合流したグループと飯舘村で分かれ再度北上、宮城県仙台市に入り、仙台市や亘理町の防潮堤を見学し、亘理町の鳥の海歯科診療所を訪問した。所長の上原忍先生と、宮城県保険医協会理事長の北村龍男先生・鈴木事務局長と懇談させていただいた。
鳥の海診療所は仮設診療所なのに、歯科診療所として最高最新の設備にびっくりした。技工室の充実にも愕然とした。歯科医師の上原先生の歯科医療の充実に賭ける夢や希望を心底感じた。
宮城協会理事長、北村先生のぬくもり、鈴木事務局長のご配慮にも感謝している。
鳥の海歯科診療所で上原先生(後列中)と














■さいごに
岩手県、宮城県、福島県の被災3県保険医協会に共通して、2014年3月11日、震災3年の日に兵庫県保険医協会が贈った哀悼及びエールのメッセージを喜んでくださったことを、お会いして身に染みて感じた。
私は、昨年に引き続いて被災地訪問に参加させていただき、兵庫県保険医協会には深く感謝している。
被災地医療に携わっておられる先生方は、全国の医師歯科医師の代表として、命がけで被災地医療に従事されている。私は、必ず兵庫県民として、兵庫県保険医協会会員として、引き続いて被災地の生活再建に向けて、被災地の皆さまと共に、立ち向かって行きたいと思う。
かけがえのない尊い命を共に感じて‥……。

兵庫県赤穂郡上郡町 歯科医師 白岩一心

現地レポート51(1)

東日本大震災 現地レポート51(1)
現状を知り、思い新たに

 兵庫協会は4月27日〜29日、東日本大震災被災地である岩手県野田村・田野畑村・陸前高田市・宮古市、宮城県気仙沼市・亘理町、福島県南相馬市・いわき市・飯舘村を訪問。兵庫協会から川西敏雄副理事長、広川恵一・白岩一心両理事、松岡泰夫評議員が、保団連から住江憲勇会長、京都歯科協会から平田高士理事・浜辺勝美事務局長が参加した。被災地では、福島協会の松本純副理事長・菅原浩哉事務局長、宮城協会の北村龍男理事長・鈴木和彦事務局長に案内いただいた。参加した松岡先生のレポートを掲載する。

現地の方々の心境知る
長田区  松岡 泰夫

 26日の夜遅く、医師2人、歯科医師2人、同行事務局2人が八戸で合流し、27日早朝に野田村へ向かいました。視察用のレンタカーの車内で簡単に結団式を済ませました。村役場では、小屋畑勝久教育次長に震災当時の様子や復興状況の説明を受けました。ここは津波に何とか持ちこたえ、その後の「救援の司令塔」としての機能を果たせたようです。5千人弱の小さな村故に、「顔の見える関係」が日ごろから築けており、連絡が密にとれ、村民の要求が早く実現しやすく、仮設住宅からの恒久住宅への移転も70%完了しているとのことでした。ほかの町村に比べ生活復興が非常に進んでいると感じました。
野田村役場前で小屋畑教育次長と

















 次に田野畑村民俗資料館に寄り、圧政の続く盛岡藩に反旗を翻した「三閉伊(さんへい) 農民一揆」について学習しました。行政が主体となり「一揆」の学習をさせていることに本当に驚きましたが、ただ決して幕藩支配体制を覆すことを目的としていないところが日本的だと感じました。しかし、東北人の我慢強く、粘り強い気質だからできるのだろうなと勝手に納得しました。
田野畑民俗資料館

















 その後、元「開拓保健婦」の岩見ヒサさん(96歳)を訪問しました。岩手地方の開拓団は苦労も多く、特に妊婦や子育て中のご婦人たちに負担が大きかったようで、医学衛生面での彼女の指導は、かなり効果があったと思われます。
 大阪生まれのヒサさんは「短歌」を通じて知り合った「胸を患っている」と自ら告げた男性と、その一途な愛ゆえに結婚。しかし、その夫を戦後すぐに病で失い、さらに一粒種の可愛い長男とも、白血病で死別してしまいました。生きる気力を失っているときに、ふと「他人の幸福のために自分が生きること」、「生かされることの大切さ」に気付いたとのことです。岩手の山村の自然の美しさに魅了され、亡き夫の親戚にあたるやさしいお坊さんの岩見対山さんと結婚され、開拓農村で活躍されたとのことでした。
 地域の女たちだけでお産をしていた環境で、経験ある助産婦であるヒサさんへの信頼感は増すばかりだったことは想像に難くなく、戦後すぐは回虫症が蔓延しており、持参していた「特効薬サントニン」を少なめに使ったところ、たちまち名保健婦として名声を誇るほどになったとのことでした。
 ヒサさんは、昭和30年代に「原発誘致」の話が持ち上がったときに、「原発反対」を説く広瀬隆さんの本を読んで、愛すべき郷土に「危険な原発」は不要と反対したとのことでした。当時、村の予算が5億円で、35億円のお金が降って湧いてくるとの電力会社等の「甘言」があったようで、男性陣はもろ手を挙げて賛成されたようです。彼らに原発の危険性や、一度事故を起こしてしまうと取り返しがつかないことなどをじっくりと語り、もしくは広瀬さんの本を無償で送り読んでもらったようで、結局岩手には原発が作られませんでした。
 ヒサさんは、高齢ですがとてもチャーミングで、表情豊かに、時には悲しそうに、時には満足げにお話しくださりました。彼女と交流ができ、参加したかいがありました。
岩見さんをかこんで

















 南下して、陸前高田市の地域交流施設「朝日のあたる家」で笑顔の可愛い行本清香さんと交流しました。津波で押し流され、何もなくなった更地に建てられており、地域活性化の拠点としてはあまりに小さいかもしれませんが、その志は輝いておられました。被災地域で何とか皆が集える共同スペースづくりに努力されていることに共感・感動しました。
朝日のあたる家で行本さんと懇談

















 本当に充実した東北応援視察でした。診療所の代診が見つかっておれば福島まで行けたのにと悔やむことしきりです...。

2014年3月15日土曜日

現地レポート50

東日本大震災 現地レポート50
被災地にあらわれる社会保障政策の貧困

副理事長  川西 敏雄
 協会は2月11日、12日に東日本大震災被災地への訪問活動を実施。岩手県大船渡市、一関市、陸前高田市、宮城県気仙沼市の仮設住宅などを、川西敏雄副理事長、広川恵一理事らが訪れ、住民や医師らと懇談した。川西副理事長のレポートを掲載する。

はじめに

 兵庫県保険医協会は今年2月1112日に岩手・宮城両県の被災地へ、広川理事・川西、事務局の藤田・楠・山下を派遣した。

 定期的に被災地を訪問されている広川理事を団長と頼り、私も参加させていただいた。今年の3月11日で、あの震災から丸3年。阪神・淡路大震災を経験した兵庫県保険医協会は、震災20年を来年に控えた時期での訪問である。この日は、全国的に雪、当地でも数年来の大雪だったそうだ。

・訪問場所と懇談者名

①大船渡市・越喜来甫嶺仮設住宅(及川氏)
②陸前高田市・朝日のあたる家(行本代表、気仙川土地改良区・熊谷理事長、公益社団法人 認知症の人と家族の会岩手県支部・今野世話人
③気仙沼市・ロカーレ(気仙沼市立本吉病院・川島院長、ボランティア村上氏、山梨市立牧丘病院・古屋院長、菊池看護師)
④一関市藤沢町・ちくちく工房(阿部氏他)

・懇談内容

1.被災地の現状と今後の課題については、前回訪問後の特集記事(兵庫保険医新聞1月25日・2月5日号)に詳細が載せられているので、ご参照いただきたい。
2.仮設・医療現場で、医科・歯科連携が従来以上に進んでいる。歯科の治療点数ならびに技術料が異常に低いことに、全員が驚いていた。
3.「引きこもり」が、特に男性で増加している。
4.仮設住宅の方々が手作りした物品を、兵庫県で紹介していることに感謝をいただく。

まとめ

・毎回の記述になるが、この国の社会保障政策の貧困が、被災者に如実に現れている。

・兵庫協会は大震災の洗礼を過去に受けたこともあり、現地における医療活動・窓口負担免除措置実現を求める運動・精神的な寄り添いなどを続けてきた。また今後も保団連とも協力し、活動を続ける予定である。

・現地への働きかけは、震災後経時的に内容も手法も変化する。今一度、ボランティアとは何か再認識が必要と考える。

談話

東日本大震災から3年
人間復興へ一人ひとりが行動しよう

理事長 池内 春樹


2011年3月11日の東日本大震災から3年の月日が流れた。復興は遅々として進まず、未だに約26万人のみなさまが故郷に帰れずにおられる。住民生活の再建・復興は進んでいないが、政府は、復興への真の援助の手を一向に差しのべない。
 阪神・淡路大震災後、被災者生活再建支援法の成立と2度にわたる改正、災害援護資金制度の改善、医療費窓口負担免除措置など、兵庫協会は全国の自然災害被災地と連帯して、地道な運動を継続することで一歩一歩、災害救援施策を前進させてきた。
 また、27次にわたって、西宮・芦屋支部を中心に、東日本大震災被災地の仮設住宅などへの訪問を続け、健診やコンサートなどを行っている。
 子どもたちにはPTSDがみられる。少しでも子どもたちを元気にしたいと、「復興太鼓」の演奏や作文などを通じた、被災地の先生方の努力が続いている。子どもたちが防災マップを作る地域も現れている。
 県内では、福島第一原発事故で避難してこられた方々が「損害賠償裁判」を起こしている。
昨年から県民主医療機関連合会を中心に、協会も協力し「健診」での支援も始まっている。特に子どもたちの被ばく実態調査は重要だ。費用負担なしで健診が受けられるよう求めていきたい。
 3・11の時、阪神・淡路大震災時と同じく、被災者は肩を寄せ合って、助け合った。世界中から援助の手も差し伸べられた。
 3年の月日が流れた今、あの時の支え合いの気持ちが希薄になっている。
 私たちが望む真の復興とは何か。原発再稼働でいいのか。原発に頼らない、新しいエネルギーとは何か。みんながそうだと思える「人間の復興」とは何か。原点にもどって、来年の阪神・淡路大震災20周年を前に、みんなで考えよう。
 国の教訓、自治体の教訓、市民の教訓、それぞれを一人ひとりが考え、行動することが、東日本大震災の被災者の皆さまを支えることになり、来たるべき大震災への備えになるに違いない。

2014年2月5日水曜日

特集・現地レポート49

特集 阪神・淡路大震災――東日本大震災 
被災地訪問と今後の課題(下)
広川 恵一 理事


 協会が、東日本大震災以後につづけている被災地訪問に関する報告の後半を掲載する。

11月と12月の被災地訪問

(上からのつづき)
 11月22・23日の被災地訪問は、亘理―南相馬―いわき・湯本。参加者は、川西敏雄副理事長、白岩一心理事、中西透評議員の各歯科医師と広川、事務局は黒木、楠の各氏。
 亘理・阿武隈川の下流では、護岸工事で再建を果たせた店が、立ち退き移転を求められ、昨年末で無期限休業に入った。
 南相馬市の精神科の堀有伸医師は「PTSDは言われるようにはみられず、むしろ広い家で3世帯7~8人で暮らしていて、仮設住宅に移られた高齢者の認知症が問題になってきていると感じる」とのこと。
 同市内の大町病院では病床再開と共に患者受け入れがすすみ、スタッフの外部研修と全国からの短期受け入れをすすめていること。
 いわき・湯本では他の旅館とともに、長らく広野町からの人々の避難所として機能した「新つた」を訪問。女将の若松佐代子氏から、事故地から29キロメートルにある温泉地の今後についての思いをうかがった。もとの歴史ある温泉地として、観光に栄えることを願うばかりである。
 12月21・23日は、盛岡―宮古―大船渡―陸前高田―気仙沼―千厩・藤沢町の訪問。兵庫協会からの参加者・広川、事務局・藤田、楠、山下4名に、青森協会から大竹進会長含め3名、岩手協会から小山田榮二副会長と畠山事務局長の2名、宮城協会から北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長の3名が現地参加。鳥取協会から家原猛理事(保団連財政部)、保団連から工藤、丸山事務局員の2名が通しで参加。地元協会の参加は被災地の人々にとってとても勇気づけられる。
 われわれの取り組みとして、地元の人々と医療機関をつなぎ、また医療連携に役立つことが今後も重要である。健康問題ではとりわけ高血圧、循環器系の疾患、精神疾患・認知症、そして放射線障害が予想され、その手立てに、地域住民・医療機関・協会・専門団体・ボランティア組織と手を携えてあたることが課題となると考える。
 地元医療関係では、陸前高田病院前院長の石木幹人医師、宮古・後藤泌尿器科・皮膚科(透析施設)の後藤康文医師、気仙沼では医療支援で地元ボランティアの村上充氏、山梨県・牧丘病院院長の古屋聡医師ほか、今回も多くの地元の方々、地元協会の方々に協力いただいた。
 後藤医師からは「阪神・淡路大震災から学びました」と、発電機を医院の屋上に設置し、水タンクを分割して確保したことから津波の際には200人の住民の避難所となり、それで透析をはじめ診療を継続でき、200人の住民の避難所を提供できたことをうかがった。
 移動の車中で昼食を簡便に済ますことを考えていたところ、予想もせず、大船渡では仮設集会所で昼食を用意していただいた。
 五右衛門ヶ原運動場仮設では、後に述べるお話をうかがい、赤岩牧沢テニスコート仮設では、集会所で夕食を用意していただいており3時間にわたる懇談が行われた。
 多くの参加があることは、人間関係が豊かにひろがり、にぎわいもあり情報も豊かになり、何よりもそれぞれの役割が顕在化してきて、とても人間的である。


 
地域の歴史知る大切さ

 一関市藤沢町の雇用促進住宅(仮設扱い)に入居され3人で小さな工房を立ち上げた方の「…津波は私の家も職場も流してしまったが、私の魂とこの腕(技術)は流せなかった…」は心に残ったひと言である。
 このように訪問先も次第に増え、継続する中であらたな学びがある。
 南相馬の建築会社の社長からうかがった話―南相馬には富山県からの支援物資が多かった。
 それは天明の飢饉(1783~84年)で人口が3分の1となった相馬中村藩に、富山の真宗(一向宗)が、親鸞聖人の旧跡参りと通行手形を入手して、前田藩の禁制(戻れば死罪)を破って移住してきたもの(薬売りが情報の中心となったらしい)。真宗は間引きが許されず人口が増えていたこと、また前田藩はその移動を見て見ぬふりをしていたらしい。もちろん風習が違うことから、長らくの間、地元の人とはぎくしゃくした関係が続いたこともあったらしい。
 また、亘理ではイチゴ農家が塩害で壊滅。亘理の亘理伊達氏が、戊辰戦争の敗戦処理で北海道に1870年、2700人で移住し伊達市をつくったことから、亘理町とは姉妹都市で、伊達市がイチゴ農家に声をかけ、誘致して栽培に成功している。
 歴史を知ることは大切で、単に現在の行政の区切りでは割り切れないものがあることも感じる。
 

窓口負担免除措置再開求める住民

 窓口医療費負担免除措置は、14年度末まですべての市長村国保の窓口負担免除としている岩手県、原発事故避難指示区域以外も含め免除されている福島県と違って、宮城県では財政難を理由に13年4月1日から打ち切りが行われ、25万人の被災者が3割負担(70才以上原則1割)に戻った。
 気仙沼の仮設では、「抗がん剤の治療を中断した」「2家族の高齢者介護をしていたうつ病の女性が服薬を中断し自殺された」など、もうたまらず、その思いに「背中を押されて」自治会長さんが、市長さんと一緒に、12月9日、財務省と厚生労働省の副大臣を訪問し、「これでは困る!」と免除再開の支援を求めた。
 4日後、(不十分ながら)手当の算段がついたと担当者電話があり、詳細を待っているとのこと。われわれが訪問したとき、自治会長さんご夫妻からうかがった。その翌日朝6時のニュースに低所得者に限り来年4月から窓口負担減免が決まったと報道された。
 岩手県は江戸時代、最も一揆が起こったところである。幕末に2回の三閉伊(へい)一揆があった。弘化の一揆(1847年)では、野田・宮古・大槌の農民1200人が、南部藩の役人の説得には「聞くな、聞くな」と大声だし耳を覆い、法螺をならし足踏みして遠野に集結し、遠野の役人を通して南部藩と交渉。
 嘉永の一揆(1853年)では同じく、農民が赤白タスキに「小○(こまる=困る)」と書いたむしろ旗を掲げて、釜石に1万6000人集結、半数が仙台領に入り伊達藩に直訴におよび、藩主交代ほか三閉伊の農民を伊達領民か幕府領民にせよという政治的要求3か条、具体的要求49か条と首謀者45人の命の安堵状を求めた。このたびの成果にその影を見いだすことができる。
 そのような歴史があり、やはり語り継ぐことの大切さを考えた次第である。


被災地に集まって/被災地から招いて
知恵出し合おう

 「被災地に集まって知恵を出し合おう」は12年8月に西宮・芦屋支部主催で協会会議室で開いた 「地域医療再生/まちづくりのための処方せん~被災地に集まって知恵を出し合おう~」(青森協会会長・大竹進医師)の講演テーマである。ここでは深刻な医師不足について、勤務医の定年延長、院内開業、医学生へのはたらきかけなどが報告された。
 「被災地から招いて知恵を出し合おう」では、日常診療経験交流会(日常診)プレ企画として、11年10月に大槌町・植田医院の植田俊郎医師、陸前高田病院の石木幹人医師、亘理の上原忍歯科医師を招いた。
 被災地での医療を続ける思いをうかがったところ、植田医師は「私は町の人間です、町の人に生活させてもらっています」、石木医師は「看護師さんから、『先生、患者さんが…』といわれれば動いてしまうものですね」、上原歯科医師は「残されたものの務めと思います」と語られた。
 12年の日常診プレ企画には大町病院の藤原珠世看護部長を招いた。
 「院長からベッドがなく患者を受けられないのは看護師がいないからだ、看護師がいないのは看護部長のおまえの責任だ」と言われたこと。それを真っ正面から受けて立ち、「できる人は1日でも2日でも…」と呼びかけ、被災地医療を経験し学ぶ場を広く提供することと合わせて、看護師が集まり、必要病床回復がはかられたという。ここに院長共々、医療者としての誇りと覚悟を見いだし学ぶことができた。
 13年には、気仙沼市・民生委員の小野道子氏と千厩の訪問看護師(もと被災地特例一人訪問看護師)で、気仙沼でボランティア活動をしている菊地優子氏とを迎えた。小野氏から被災直後の町の状況、菊池氏から一人訪問看護師の経過と仮設で精神を病む人が多く報道がなされていないこと、何よりも住宅が必要なことを報告された。
 今後も被災地と各地を結び、そして被災地の人たちを結ぶとりくみをすすめていきたい。つながることは日々の医療を豊かにし、社会保障充実をすすめ平和を守る確かな力である。


2015年1月17日―震災20年に向けて

 西宮・芦屋支部は、支部総会記念講演では、災害・原発事故を正面から捕らえて、12年7月にはチェルノブイリで6才のとき被曝したナターシャ・グジー氏の講演と歌と民族楽器・バンドゥーラ演奏、13年8月には映画監督・鎌仲ひとみ氏の「ミツバチの羽音と地球の回転」上映、10月には詩人のアーサー・ビナード氏による講演会「ぼくらは何を勉強したら生き残れるのか」を開いた。
 また、19年前の震災の経験から、心肺蘇生の実技研修を始めた。しばらく中断していたことから、20年のメモリアルに向けて街場と職場(無床診療所外来)それぞれを想定した心肺蘇生研修会を、年4回で始めることとした。また被災地訪問も検討中である。
 もうそれぞれ20歳年をとった、阪神・淡路大震災でお世話になった仮設住宅の方々、ボランティアの方々との関係もひきつづき大切にしていきたい。
 震災10年のメモリアルでは、名塩仮設住宅の同窓会をひらき、多くの人たちが参加された。このときの記念講演は、当時東京農大の小泉武夫先生で、テーマは「災害時での発酵食品の底ちから」。20年に向けて課題は山積みである。15年のメモリアルは前号冒頭にあるように書籍化した。
 「避けられる死をなくすこと」~その一点について毎日の診療内容を深めながら開業医としてできる知恵を出し合う機会を拡げていくことができればと考えている。 

2014年1月25日土曜日

特集

 東日本大震災から2年10カ月。兵庫協会は、東日本大震災発生直後から、広川恵一理事を中心に、被災地への訪問活動をつづけている。昨年12月21日~23日には、第23次訪問として、広川理事らが宮古、大船渡、陸前高田、気仙沼などの医療機関や仮設住宅を訪問した。広川理事に、これまでの被災地訪問を振り返り、被災地の現状と今後の課題について報告いただく。

阪神・淡路大震災―東日本大震災

被災地訪問と今後の課題(上)
理事 広川 恵一

1995年1月17日 阪神・淡路大震災
 
 震災から19年後の1月17日、知人から当時の日記・記録が届けられた。
 書いた本人もそれをあとでみることになり、初めてそんなこともあったのかと驚いたとのこと。この日は、意識せずともあらためて語り合い伝え合い風化させず語り継いでいく一日である。
 2011年に西宮・芦屋支部で行った「阪神・淡路大震災15周年の集い」での関西学院大学の室崎益輝教授、県災害医療センターの鵜飼卓顧問、日本福祉大学の金持伸子教授による講演記録と、当時のボランティアの寄稿とをあわせて、16年目のメモリアルにあわせて『被災地での生活と医療と看護~阪神・淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ~避けられる死をなくすために~』を出版した。
 その2カ月後に東日本大震災・大津波・原発事故が起こり、出版社からも、震災支援の一環として1000部増刷いただいた。

阪神・淡路から引き出される課題

 この本の中にも示されているように、多くの言葉が被災地の中で語られた。
 「(ボランティアがニーズがないと断られるような現状に対して)『ニーズがない』ということはニーズを見いだす力がないということ」、(ボランティアの医師に「何故被災地に来るのか?」との問いに)「次は私ところですから」、「被災地の全国からの『支援』は被災地(の人々)によって『支援』される」、「異常なときには通常通りしようとすることが異常(たとえば災害時に診察で保険証を求めることなど)」「被災地医療は日常診療の延長線」など。
 ここにはそれぞれ被災地を訪問するカギが見いだされる。
 たとえば、その一つ、「被災地医療は日常診療の延長線」は、被災地医療を見つめる中で日常診療のあり方がみえてくる。
 もともと医療過疎地・診療科目偏在があり高齢者比率の高い被災地にあって、その医療課題はどの地域にあっても社会・社会保障のあり方と診療のあり方を考える上で共有する課題である。
 また「次は私ところですから」は東京・中村洋一医師の言葉であるが、一言ながら相手の気遣いを和らげ、お互い共同のとりくみとして、絶えず災害に心して望むという課題意識・心意気が伝わってくる。

2011年3月11日 東日本大震災・大津波・原発事故

 被災地の課題は、時間の経過とそれぞれの地域の状況・被災内容によって変化する。
 協会からの、私の被災地訪問は、東日本大震災震災・大津波・原発事故から10日目に始まる。
 池内春樹兵庫協会理事長からの依頼をいただき、大阪府保険医協同組合の協力を得て薬剤を選定し、保団連からそれを届けるべく、宮城協会に訪問を行った。山形空港を経由して現地では和歌山協会の小野田幸男理事・上野佳男事務局長と合流し、ともに混乱を極めた避難所の訪問。帰路は、事務局の横山、足立の各氏と3人で車での神戸(西宮)までの移動であった。
 あれから2年10カ月。被災地の生活の場は避難所から仮設住宅へと場所を移しているが、その仮設住宅も先が見えない。
 大槌町も陸前高田市は多少の盛り土は始まったが、地元の人たちに聞くとまったく変わっていない。防潮堤をという声も聞かれるが、仮設に住む人たちは、それよりも何よりも、「一刻も早く安心して住める家を」という気持ちが強い。三陸鉄道再開を願う声もあれば、54号線など高台を走る安全な輸送ルートを求める声もある。
 原発事故周辺地・ホットスポットではどうしようもない現実と不安があり、日々生活が脅かされる現実がある。「遠方に出ている子どもたちに帰ってこいと言っていいのでしょうか」という相談がある。
 また、それを世界史的事件に立ち会ったととらえて、正確にデータをとり、自分たちの生活やこれからの日本や世界に役立て残そうという動きも聞く。

地域・人をつなぎ、学ばせていただく被災地訪問

 訪問では「受け入れていただく」「学ばせていただく」「関わらせていただく」。お互いの関係は双方向性であり、「支援」という概念はない。
 訪問日は休日が主となるが、現地の方々には貴重な時間であり、たとえ「今日はボランティアの日ですから」とか「日直ですから」と言われても、それを心すること、平日でも同じことで、貴重な時間をとっていただいていること、その思いをきちんと持つことが大切なことである。
 これまでに訪問してきた医療機関、ボランティア組織、(旧)避難所と仮設住宅のある地域は、北から宮古、大槌、大船渡、陸前高田、気仙沼、千厩、藤沢町、東松島、仙台、亘理、南相馬、そしていわき・湯本である。
 訪問先では受け入れていただいたことに礼を尽くして、何度でも訪問し、そして新たに訪問先を加えることを心がけている。
 被災地協会とは、事前に保団連、各協会に連絡して同行・協力、企画の際には共催の依頼を行い、事務局だけでなく私からも直接相談や連絡を行うようにしている。
 移動の安全のため、公共交通機関をできるだけ使い(冬期は凍結・積雪のため内陸部の花巻~盛岡~宮古・大槌・陸前高田間)、沿岸部の移動はレンタカーで事務局スタッフによる運転で安全を心がけるようにし、一台に乗れる人数としている(12月の訪問でははじめて2台での移動)。
 参加メンバーは訪問ごとに交代しながら継続し、新たに参加してもらうよう工夫している。今後は責任者の交代と各地域ごと交代しながらの担当が必要となる。
 企画として、医療相談を行い、地域からのニーズで西宮・芦屋支部に関わりある演奏家によるコンサートを開いた。「いま仮設にはそのような時間が大切で、いろんな人たちを連れてきてくれるのでとてもありがたいです」と地元の方々からそのような言葉をいただく。
 一回の訪問での走行距離は400~500キロメートルで空港でも待ち時間があり、移動中がお互いの情報の補完、感想やまとめの時間となる。
 12月の訪問時には、22日は午前6時20分に盛岡宿舎を出て、午後10時に気仙沼の宿舎に入るまで、宮古の後藤泌尿器科皮膚科医院・河南仮設住宅・高浜仮設住宅、大船渡の越喜来甫嶺地区仮設住宅、陸前高田の朝日のあたる家・子ども図書館、気仙沼の五右衛門ヶ原運動場仮設住宅・赤岩牧沢テニスコート仮設住宅と、8カ所を訪問。まとめを行いながら移動を行った。

(下につづく)

阪神・淡路大震災19年メモリアル行事

経験つなぎ、東北へ−借上住宅追い出し、残る借金...苦しみつづく


1月17日に行われたメモリアル行事のもようを紹介する。

メモリアル集会
〝人間復興〟へたたかいをつなぐ


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300人が阪神の課題と福島の現状を考えた
メモリアル集会(神戸市勤労会館)
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原発事故による福島県民の苦況を語る伊東氏
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母子避難に至った思いを語る森松氏
17日、神戸市勤労会館で「東日本大震災被災地と結ぶ 阪神・淡路大震災19年メモリアル集会」が行われた。協会も参加する阪神・淡路大震災救援・復興県民会議(合志至誠協会名誉理事長が代表委員)の主催。300人が集まり、協会からは、池内春樹理事長、松岡泰夫評議員が参加した。
 主催者あいさつにたった池内理事長は、阪神・淡路の経験を活かし、いまだ仮設住宅暮らしがつづく東日本大震災の被災者の恒久的住宅の建設や、窓口負担免除措置の復活を国に働きかけようと訴えた。
 住江憲勇・保団連会長が、全国災対連を代表して来賓あいさつ。阪神・淡路後の粘り強い運動が被災者生活再建支援法を勝ち取ったとし、「不屈の闘いが東日本大震災被災地をどれだけ勇気づけたか。いのち、健康を取り戻すため、運動をつづけよう」と呼びかけた。
 県民会議の岩田伸彦事務局長が活動報告にたち、被災者不在ですすめられた「創造的復興」に対し、被災者に寄り添い、公的支援実現を求めつづけた、19年間にわたる運動を振り返った上で、現在の課題として、借り上げ公営住宅からの追い出し問題、新長田開発事業、災害特別融資返済問題をあげた。
 県や神戸市などが、民間住宅を借り上げ、被災者に提供する「借り上げ復興住宅」では、高齢を迎えた入居者に対し、20年間の契約期間満了を盾に、県や神戸市は転居を迫っている。被災者の粘り強い運動により、一部で継続入居が可能となったが、希望する全入居者の継続入居が認められるには達していない。
 火災により焼け野原となった長田地区では、住民無視の大型再開発事業が進められた結果、立派なビルが立ち並ぶものの、テナントには空床が目立ち、人口は減り続けている。また、災害援護資金や営業用融資、住宅ローンなどの各種融資返済問題が、いまだに被災者を苦しめている。
 岩田氏は震災復興再開発事業で大もうけしたのは結局ゼネコンをはじめとする大企業であり、企業にやさしく市民に冷たい「復興」であったとし、住民生活の復興を求め今後も運動を継続しようと訴えた。
 東日本大震災被災地からの報告として、原発事故後、福島から大阪に母子避難している森松明希子さんが、小さな子どもを抱える母親として見えない放射線とたたかい、子どもが自由に外遊びできないような状況に避難を決めたとし、「事故の責任を明らかにし、今後の教訓にする」と、原発賠償関西訴訟の原告になる決意をした経緯を涙ながらに語った。
 記念講演では、原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員の伊東達也氏が、原発事故後の福島の現状を語った。
 伊東氏は、原発事故は「最大にして最悪の公害」であり、完全賠償、継続的健診の保障、被ばく低減のための除染促進、強制避難地域での地域の作り直しなど、住民のための復旧・復興実現を求めて運動していくと決意を述べた。

談話

生活復興へ粘り強い運動続けよう
理事長  池内 春樹
 
1740_1.jpg 阪神・淡路大震災から19年の年月が流れた。
 今一番問題になっているのは、被災者が入居している借り上げ住宅から、20年の契約期限がきたからと高齢化した入居者を追い出そうとする問題である。兵庫県や国が被災者のために恒久的な住宅を造らなかったのが根本的な間違いだ。
 私たちの粘り強い運動により、「被災者生活再建支援法」ができ、その後の被災者には住宅全壊で300万円が支給されることになった。しかし、住宅再建には不十分である。この経験を十分生かし、いまだに仮設住宅で過ごしておられる東日本大震災の被災者のみなさまのための恒久的な住宅の建設が急がれる。
 そして、地域医療の再建と被災者の医療費窓口負担の免除措置が継続できるよう、国に働きかけよう。これらは復興予算を適正に使用すれば十分可能だ。
 阪神・淡路大震災と東日本大震災の大きな違いが福島原発事故問題である。海沿いにある原発では、津波の被害も考えなければならない。原発ゼロを積極的に進めるべきだ。
 兵庫県保険医協会は兵庫県民主医療機関連合会(民医連)と協力して、昨年8月に原発事故による避難者の方々の健康診断を初めて行うことができた。継続して行っていきたい。
 東日本大震災の被災者のみなさまへの支援を兵庫県保険医協会は23次にわたって継続的に行っている。
 来年の阪神・淡路大震災20周年には、みなさまのお知恵をお借りして、南海トラフ大地震に備える、すばらしい企画を開催したいと考えている。
 会員の先生方の積極的なご支援をお願いしたい。

2014年1月5日日曜日

現地レポート48 11/23~24被災地訪問参加記




協会は11月23,24日に東日本大震災被災地である、福島県南相馬市・いわき市、宮城県亘理町などを訪問した。広川恵一・白岩一心・中西透各理事が参加した。参加者のレポートを掲載する。


参加記(1)
被災者の将来見すえた しっかりしたサポートを
三田市・歯科  中西  透





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南相馬市の雲雀ケ丘病院で堀副院長(中央)と懇談
仙台空港近くの亘理町では、宅地復興の風景が見られるがまだまだ空き地が多く、当地区の住民に尋ねてみると、当地区での建築物の災害への対応は、今後自己責任であるということだった。
 その後、福島県南相馬市に向かう車窓から農地の除塩対策などの風景が見られたが、あまりにも広域で、復興には時間が必要であると実感した。
 南相馬市雲雀ヶ丘病院の堀有伸先生との懇談会の中で、震災後認知症が増加していて、その原因の一つは仮設狭小住宅ではないかとのことだった。
 また南相馬市の大町病院では、除染労働者の肝疾患の重症患者が多いこと、また復興の軌跡を藤原珠世看護部長にお話しいただき、ご苦労を痛感した。
 地元紙・福島民報では、30面中9面に震災・原発事故の関連記事が掲載されて、原発事故関連死も記載されていた。なおかつ、核廃棄物最終処分地を決定せず、福島第一原発周辺の土地を国有化して中間貯蔵施設を建設するのは疑問に思った。
 今なお避難生活を送っているのは、東京電力が充分な津波対策を講じてなかったことと危機管理のまずさのせいである。事故前と同じ水準の生活ができるように、被害者の気持ちを考えて対応してほしい。
 国の責任も少なくない。被災者向けの補助制度の充実と仮設住宅等で生活する人の新たな暮らしをサポートする必要がある。被災者の将来の見える、しっかりとした方針を示すことが重要だ。


参加記(2)
経験つなぎ 被災者によりそう

赤穂郡・歯科  白岩 一心



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いわき市湯本「新つた」旅館の女将と交流
私たち兵庫協会では、池内理事長の方針である、憲法13条「幸福追求権」、25条「生存権」に基づく医療運動の一環として、東日本大震災・被災地訪問を継続的に行うことによって、現地の問題点を洗い出し検証しつつ、被災者の方々や被災地から避難された方々との交流を続けている。
 協会は震災直後から今まで、医療支援や避難所各地で行ったコンサートなどの記録や課題などの発表も定期的に行っているが、いずれも継続性が求められ、継続的な被災地の人たちとの交流が大切である。
 11月23日・24日の訪問には、私も初めて参加した。
 最初の見学地である仙台市若林区荒浜周辺から仙台空港近辺の津波被害地は、いまだに傷跡が大きく、空港は再開しつつも空港ターミナル周辺の企業活動は全く再開されておらず、マスコミの報道も全くない。宮城県亘理町鳥の海、阿武隈川河口近辺の住宅街も町ごと消え去ったままである。消え去った町中に、多数の慰霊碑や新しい墓地だけが目立つ地域も多い。
 近隣の人たちの話では、震災直後に家屋を潰す期限を設けて助成金を出し、期限を過ぎれば出さないと発表して、被災者の気持ちはなおざりである。地域の医療再建も、住民の流動化により困難だと言える。
 福島県南相馬市では、人口7万人の都市が一時は1万人まで減少し、現在4万8千人まで戻っている。
 そのなかで、南相馬市では、介護認定や介護保険申請問題、急速な過疎化問題、少子高齢化問題など、原発事故が起こる以前からの潜在的問題が顕在化したことも明らかになった。
 避難することで食生活が変わり、高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、パーキンソン病、胆道疾患が増加することも知ることができた。
 いわき市湯本の数少ない温泉地での観光客減少、川内村や飯舘村、いわき市から南相馬市には、原発事故の影響で、郡山市経由でないと行けないことも知り得た。
 今後の医療問題として、原発事故によるあらゆる国民への情報開示に加え、甲状腺だけでなく、放射線の感受性の高い生殖器への影響、生活改善のための栄養指導、運動指導、健康診断を訴えていく必要性が高い。仮設住宅では、コミュニケーションに乏しいことや老々介護問題も深刻と聞く。
 仮設住宅の方々の医療費減免継続は当然であり、介護保険の充実も訴えていく必要がある。
 私は歯科医師であるが、歯科医師が、震災関連性疾患の肺炎予防のため、口腔ケアを行うことが必要である。自分の口で味わう喜びを回復してもらうための咀嚼機能を維持することも大切である。
 協会は、阪神・淡路大震災の経験を生かして、被災者の方々によりそうことができる。他人ごとではなく、わが身のこととして受け入れることが、阪神・淡路で全国から励ましていただいた、兵庫協会の責務である。
 幸福を追求しながら、自助や共助の強要でなく、公助の充実を推進する呼びかけや運動推進が急務である。
 協会の継続訪問は、今後も東北の方々に寄り添うため、そしてたくさんの個々の尊い命を学ばさせていただくためにも、必要不可欠である。
 同行していただいた、広川先生、中西先生、事務局をはじめとする兵庫協会に感謝を申し上げて報告としたい。