2011年4月7日木曜日

(4/6) 宮城・石巻市渡波(わたのは)地域の避難所を訪問 住江会長

(保団連FAXニュースより転載)

今日は朝8時に対策本部へ集合。昨日の取り組み報告などのミーティングを行い、8人(住江会長、保団連事務局1人、愛知協会事務局2人、栃木協会事務局1人、宮城協会事務局1人、大阪の原)が災者を出した石巻へむけて9時に出発。2人1組で会員訪問を、住江会長と私が激甚被害を被った渡波(わたのは)地域の避難所を訪問し、他に宮城協会事務局員2人が近辺での会員訪問を行った。
私たちは先ず全員で石巻市歯科医師会へ行き、昨日約束した歯ブラシをお渡しした。これは栃木協会から運んできた歯磨き付きのものと、大分協会から届いていたもので、住江会長、宮城協会の鈴木さん栃木協会の神藤さんが石巻歯科医師会の職員へ贈呈する写真を撮らせていただいた。
続いて、住江会長と私は昨日に続き石巻市役所を訪れ、各協会から保団連に提供の申し出があった物品(マスクなど)の受け入れ先などに関して相談した。しかし、担当者によれば、大方の物品はすでにほぼ充足しており、保管場所が満杯状況とのことだった。
そして、避難所の状況を聞き、まだ水や電気などライフラインの届いていないところなどを聞き、訪問先を津波の被害が甚大だった海沿いの渡波(わたのは)地区と決めた。
午後1時、タクシーで避難所の一つの宮城水産高校へ着き、校庭で昼食のおにぎり(宮城協会の事務局の方が朝つくっていただいたもの)ほうばり、さっそく中へ。避難所は体育館を使用しており、5日時点で110人がここで寝起きされている。昼のため、主にお年寄りの方などが多かったが、責任者の許可をいただき、住江会長が「眼科医ですが、目の具合が悪いとか、何かお困りのことなどありませんか? 遠慮なくご相談ください」と声をかけてまわった。ここでは1人の女性がぜひ診てほしいと申し出られ、住江会長が眼科の診療器具を取り出して診察し、目薬を渡して丁寧にアドバイスして感謝された。住江先生は7年ぶりの診療だと感慨深げ。そしてあと3人の方からの相談に応じました。
あるおばあさんは、私たちに多くを話しかけてこられた。その中で、ここでは電気がなく夜になると真っ暗で、懐中電灯と石油ストーブの明かりしかなく大変なこと、トイレは体育館の外に設けられた仮設しかないこと、そして水はペットボトルなどは充足しているものの、風呂など入れないとのことだった。風呂は自衛隊が設営したものを利用できるが、自衛隊の送迎バスで出かけなければならず、津波から3週間をこえる今まで、1度しか行っていないと。私たちが励ましの言葉をかけると、それでも気丈に「がんばるよ」「わざわざ遠くから来てくれてありがとう」と笑顔で答えてくれた。
この避難所へは持参した風邪薬や胃腸薬などの一般薬と、タオルなどをスタッフにお渡しした。生徒たちのいない校庭にはまだ一部に津波の跡の泥や水が残っていたが、桜の木がつぼみを膨らませていた。
次に渡波公民館へ歩いて到着。250人が避難中とのことだが、日赤の支援隊が庭にテントを張り、医薬品の提供や各種相談に対応していた。ここも電気と水道が途絶しており、自衛隊の給水車や水のタンクを使用していた。同じく住江先生と私が避難者に声をかけてお見舞いを述べ、また「お困り事などありませんか?」と尋ねると、3人が目のことで相談を申し出られ、さっそく住江先生が診察して目薬をわたして丁寧に対応をアドバイスした。ある高齢の女性は、主治医だったこの地区の眼科の先生(田中先生)が、この津波で流されて亡くなられたと悲しそうに話してくれた。
次にまた歩いて渡波小学校へ向かった。途中、自衛隊の給水車が空き地で水を提供していた。また驚いたのは墓地の墓石の上に自動車が乗っていることだった。津波の猛威を示したものの一つだった。
渡波小には約800人が避難しており、昼のため、やはりお年寄りの方が多かった。ここでは4人が診察を申し出られ、住江先生が診察して薬をわたして適切にアドバイスした。津波の跡の泥などが乾いて舞い上がり、アレルギー性結膜炎などが広がっているようだ。
ある男性が住江先生に「神戸では震災の復興に何年かかりましたか?」と声をかけてきた。「表面的には約10年ほどだろうか。でも内側はまだまだです」と答えると、「10年か・・・でも頑張らなければ」と自らをはげますように語っておられた。
ここでは子供たちが校庭で遊んでいてにぎやかだった。そういえば、今日は全国的に小学校などの始業式が行われているが、ここではどうなるのだろうかと心配になった。また自衛隊の風呂への送迎バスなども待機していた。
次に両側に瓦礫が並ぶ幹線道路をしばらく歩き渡波中学へ到着。全く海べりで、建物の損壊が著しい。校庭には自動車などが散乱していた。かなり古い学校のようだが、おそらくもう再建されることはないだろうな、と感じた。銀杏の木の高い枝に、学校の木の椅子などがさかさまに引っかかっていた。あの高さまで津波が押し寄せたのだ。
ここでは60人が身を寄せていた。3人のお年寄りの診察をして、励ましの声をかけて辞した。帰り際に学校を振り返ると、校舎の上に大きな「自立する渡波中生」との大きな標語の文字があった。

(大阪協会:原氏報告)