2014年6月4日水曜日

現地レポート51(2)

東日本大震災 現地レポート51(2)
現状を知り、思い新たに

兵庫協会は4月27日〜29日、東日本大震災被災地を訪問。前回に続き白岩先生のレポートを掲載する。

2014年4月26~29日東日本大震災被災地訪問(前)


2014年4月26~29日までの4日間、東日本被災地訪問に参加した。今回の被災地訪問では、保団連会長・住江先生が、私たち兵庫県保険医協会の28回目の訪問に初めて同行された。つぶさに兵庫県保険医協会の結束力と被災3県協会との連携と交流の深さに驚かれ、今後の東日本被災地への復興支援運動に弾みがついたといえる。            

憲法25条における「生存権」の重みを実体験し、常に憲法理念のもと、兵庫県保険医協会として医療運動を実践しているが、今回の被災地訪問の一番の目的に、憲法を守り抜く立場を鮮明に解き明かしていくことを念頭に置いた。
しかしながら被災地では、「受け入れていただく」「関わらせていただく」「学ばさせていただく」という気持ちが常に必要で、継続した訪問活動がどのように展開させなければならないかを考えていかなければならない。下記報告は、前半の2日間である。

■岩手県野田村
今回の被災地訪問では、2つのグループに分かれて、視察及び訪問を行った。私の参加したグループでは、4月26日青森県八戸市に現地集合し、広川理事を団長に即座に結団式を行い、決意表明のごあいさつがあり本格的に被災地訪問が始まった。
26日の初日は、広川先生から青森県保険医協会の紹介があり、原発に対する住民運動の実態を学んだ。明くる日27日。午前6時50分に八戸市を出発。南下して岩手県に入り、広川先生から岩手県保険医協会の紹介があり、現地の復興支援を学んだ。具体的には、まず最初に野田村役場を表敬訪問し、行政の立場から復旧・復興支援の具体的政策を、小屋畑勝久教育次長からお聞きした。
野田村は、昨年NHKの朝の連続ドラマの「あまちゃん」でも一部紹介された。野田村では、三陸鉄道の早期復旧再開、応急仮設住宅から公営復興住宅への居住区移設充実、医療施設の公営にて再開など衣食住の充実が震災約2年で行われており、被災地の中では急速に復興の進んだ市町村である。平成の大合併に参加しなかったことが、復旧・復興が進んだ要因と、教育次長は結んだ。
市町村合併をしなかったことから約4900名の住民が震災前から声かけ運動が進み、都会のような隣近所の交流がないわけでなく、一人一人の責任がコミュニティーを形成していった過程が推測される。
私たちが野田村を訪問したあと、安倍総理大臣が野田村を視察し、野田村を例に政府の被災地政策が進んでいると発表した。一部分の復興成功例を取り、被災地全域の復興が進んでいるかのようなコメントは、やめていただきたいと思った。
次に南下し、田野畑村に入り、江戸時代に多発した飢饉の際、住民団結による一揆の歴史を学んだが、今の時代のように、署名運動の大切さ、住民の度重なる嘆願書提出、住民による住民のための命を守る運動の基本を学んだ。

■岩手県田野畑村
岩手県には原子力発電所が建設されていない。しかしながら政府案では岩手県にも建設計画があった中、事前に建設反対運動を発展させた開墾村に居住して、医療の立場から運動主導をされた保健師の96歳・岩見ヒサさんのご自宅を訪問した。
貧困の戦時下の国民生活から医療の充実を行い、開墾して理想の村をつくる苦悩、子育て支援の大切さ、社会保障の充実こそが開墾していく場合には必要であり、家族制度の在り方などの総合的思考が、岩手県に原子力発電所建設をストップに導いたのではないかと察しつつ、約2時間お聞きしたが、96歳とは思えない語り口。そして女性の社会進出にも言及され、胸を強く打たれた。社会資本の充実は、今の福祉の原点となり、フォーマル、インフォーマルの整備が、介護の充実につながるという、介護保険法成立にも関与している貴重な体験談を聞く機会となった。開墾村の歴史を知ることで、被災地となる現在、生きる喜びも重ねて学んだ。

■岩手県陸前高田市
こうした学びの中で、陸前高田市や気仙沼市の津波被害と復旧・復興支援体制を見ると、兵庫県保険医協会の医療訪問の活動が、継続的に計画される理由が自然と噛み砕かれていく。
陸前高田市では、ベルトコンベアによる盛り土政策や奇跡の一本松が、日本中で有名となる中、被災者の皆さんが、全国からの支援金で建設された、「朝日のあたる家」を訪問した。
知的障碍者の方々、発達障碍者の方々が、地域の方々と一体化して自立支援組織化され住民の憩いの場所となり、健常者と精神的に悩みのある方々、被災以後の心の悩みを共に分かち合う組織及び施設が、「朝日のあたる家」である。継続した兵庫県保険医協会の訪問により、いつの間にか初対面の私にも温かい目を向けていただいた。
「朝日のあたる家」では、音楽を通しての交流も行われている。兵庫県保険医協会も、音楽交流訪問をしており、幅広い活動こそが、被災地の方々と心が一つになれることを確認した。

■宮城県気仙沼市
このようにして、岩手県をあとにして宮城県に入り、まずは広川先生から宮城県保険医協会の紹介があり、次に訪問させていただいた気仙沼市では地元医師会長・森田潔先生との懇談、さらに気仙沼市での地元ボランティア、仮設住宅自治会・自治会長、ボランティア医師、管理栄養士の方々を交えての懇談会で、気仙沼市の復興の現実の隠れた問題点が浮き彫りとなる。
例えば、地元の住民の懇願とは違う県知事や県の被災政策。個人情報保護法の為に、住民自治が機能しない重大事項、仮設住宅を分散化したために、仮設住宅同士の問題などである。計画的な復興のため、新しい町つくりは必要不可欠であるが、気仙沼市のような津波被害の大きな町では、敢えて遺産として建造物を残して、建造物と共存しつつ再生の議論も必要でないかと個人的に感じた。

森田医院を訪問







気仙沼市内での懇談











■訪問前半を通じて
今回の被災地視察と医療訪問で、明白となったのは、仮設住宅の分散化による住民の心理の分散化、プライバシーの保護の名のもと、政府や都道府県単位の行政の対応の遅さ。特に仮設住宅の劣悪な住居から起きる健康被害は、震災関連死の原因ではないかと思われる。
完全に憲法25条の生存権を無視した、劣悪な仮設住宅から早期の公営住宅転居を進めなければならない。
今回の訪問で感じたキーワードは、「分断」である。家族の分断、住民の分断、職場の分断、教育の分断、医療福祉の分断、行政の分断など。これらは、目に見えない部分が多く、高齢化する家族崩壊や高齢化率30%を超える超高齢化市町村の現状を、さらに悪化させて心労の疲弊につながっていく。
これは、被災地に限ったことではなく、全国的に潜在する問題である。そして兵庫県保険医協会として、開業医の権利や生活の保障を主張する中では、エゴに取られないよう、市民や国民を巻き込んだ市民運動の重要性を訴えつつ、他府県でありながらも東日本被災地では、阪神淡路大震災を経験した兵庫県保険医協会ならではの医療運動の中に、被災地医療支援策も練り、盛り込み、全国的な社会保障制度充実を強く継続して訴えていかなければならない。
兵庫県保険医協会、個々の会員の意見集約をしつつ、被災地訪問を通しての住民との連携の重要性を学びつつ、マスコミの報道しない部分にも着目しなければならない。全国10万人の会員を抱える保険医協会ならではの被災地医療支援策も熟慮断行しなければならない。
人は窮地に立たされた時に、振り返って見つめる人たちに会釈を忘れることさえ有り得る。歴史上のキリシタンの踏み絵のような政府政策にも挑んでいかなければならない。
まだまだ被災地訪問では語り尽くせないことばかりであり、前半の2日間だけでもまだ語り尽くせない。後半の2日間も大きな体験となった。
訪問先で合流した福島県保険医協会・菅原浩哉事務局長、京都府歯科保険医協会・平田高士理事・浜辺勝美事務局長、宮城協会・北村龍男理事長・鈴木和彦事務局長、保団連・住江憲勇会長への感謝の念は言うまでもない。
日常の地元地域医療充実に微力ながら尽力しつつも、訪問にも継続して参加させていただきたい。

2014年4月26~29日東日本大震災被災地訪問(後)

兵庫県保険医協会の被災地訪問に、昨年の11月に引き続いて参加した。貴重な経験を通して、被災地の現状から、いかにして復興対策を医療運動に転換すべきかを考える日々となった。前半2日間の参加記に引き続いて、後半2日間の参加記を綴らせていただく。

■福島県へ
4月28日は、岩手県や宮城県とは全く異なる福島県に入った。岩手県や宮城県は、大震災による津波被害による復興支援対策が急務である。特に劣悪な仮設住宅から公営住宅への移転が急がれるが、福島県では大震災による津波被害だけでなく、世界最大規模の福島第一原発事故による生活再建が急がれる。ところが、東京電力の無能さ、政府の情報公開をしない姿勢でなおかつ秘密保持体制。放射線被曝という目に見えない怪しい悪魔との戦いが目に付く。

■雲雀ヶ丘病院
福島県南相馬市・雲雀ヶ丘病院を訪問すると、昨年11月に面会してくださった副院長・堀有伸先生と再会出来て嬉しく感じた。保団連会長・住江憲勇先生、京都歯科保険医協会・平田高士理事、浜辺事務局長、兵庫協会から藤田事務局長と楠課長と合流した。福島県保険医協会事務局長、菅原様とも合流した。
堀先生から病院長、2人の常勤医師、鎌田看護師長を紹介された。雲雀ヶ丘病院では、保団連住江会長から、「現地を訪問して、現地の方々と共感して、共有した全てを全国に必ず発信していく」と、心強いご挨拶をしていただいた。この病院は、精神科の専門病院であるが、堀先生のお話では、原発事故によるPTSDの患者さんは見られない。三世代同居だった多くの多人数家族が分断され、核家族化された影響による高齢者の認知症患者さんが圧倒的に増えたとの解説をしていただいた。支援者の支援の必要性を訴えられた。つまり、医師看護師は、患者さんの医療支援を行っているが、医師看護師不足による、医療従事者が疲弊しない政策を訴えられた。
政府が介入するならば、必ず継続性ある安心安全な対応及び政策を取っていただきたいとの熱い現実をお聞きした。
昨年訪問した時から堀先生が、たった半年間で変わられた。東大病院や東大研究所から、南相馬市に、原発事故以後に飛び込んで来られた堀先生が、半年前、本当に東大病院を辞めて南相馬市に来て良かったのだろうか、哲学を専門に研究を継続しておけば良かったのではないかという迷いの吹っ切れておられる姿が印象的だった。堀先生のような全てを放り出して、原発事故以後に敢えて被災地に飛び込んでいかれる医師に、憧憬の念が強くなった。


雲雀ヶ丘病院で堀先生からお話を伺った













■大町病院
次に訪問した南相馬市・総合私立病院・大町病院では、猪又義光院長先生と藤原珠世看護部長が対応をしてくださった。猪又院長先生は、南相馬市から病院を無くさない、そして地域に根付く医療をという、原発事故以後も変わらぬ医療方針で、必死に患者さんと向き合う姿が印象的だった。老人保健施設を、南相馬市に必ずつくるという壮大な夢も持ち続けておられる。  
藤原看護部長は、看護師不足解消のため、毎日病棟とあらゆる対策のため奔走されている。南相馬市は、福島第一原発から20キロ圏内の避難地域も抱えている。避難区域の方々は、仮設住宅から今後、公営住宅に移住される。
しかしながら病院の医師看護師不足が顕著だと医療の質が落ちかねない。政府は、社会保障改悪を断行しているが、原発事故は人災であり、本気で福島県の実情を改善する気持ちがあるのかと思ってしまう。猪又院長先生は、兵庫協会のように、処方箋調剤薬局の重要性、管理薬剤師の方々との協力も訴えられた。
大町病院では、南相馬市内に住ながら原発事故後の住民の分断を研究している元高校教師で、現在詩人の若松丈太郎様を交えて詩を朗読しながら議論を展開した。原発事故は政府による人災で、ありのままの事実を情報公開しながら、全国に真実を発信していく責任が、地元住民として、地元行政として、政府としてあり、相互交流の必要性を意見交換したことは、貴重な体験となった。
福島県でもキーワードは、「分断」である。家族の分断、自治会の分断、教育の分断、職場の分断、地域コミュニティーの分断、などは被災地に共通している。後半初日は、南相馬市の病院を訪問して、保団連会長・住江先生のご挨拶が重みを持ち、兵庫県保険医協会の継続性ある支援体制に対して驚かれていた。
大町病院で懇談したみなさんと














■飯舘村
4月29日。飯舘村を、いいの診療所・松本純先生が案内してくださった。飯舘村の復旧・復興の遠いかげりを感じた。飯舘村の現実問題に、どうしようもない苛立ちを覚えた。放射線線量が高く、住民はいつ自宅に戻れるか、全く予想もつかない。飯舘村は、全国的にも救済の声が高い村である。自然の美しい村である。原発対策を考えるのは、医師歯科医師も、国民の命を守る職業人として、政策を立案し、政府に訴えていかなければならない。その前に、確実に事実を全国に発信していく必要性も高い。
飯舘村を松本純先生(右)に案内していただいた















■被災地訪問を通じて
今回の被災地訪問に参加して、兵庫県保険医協会の結束力が被災地の方々の閉ざされた心を、少しずつ溶かしているように思う。兵庫県民ならば心を開こうとされる被災地の人たちの姿が目立った。
けれども、被災地に入った限りは、私たちも必死で、本気で、体当たり。継続した事業であるからこそ、見えてくる真実がある。保険医協会会員は、全国に10万人いる。みんなが被災地医療の現況を知り、共有し、発展展開していくことで、潜在的な問題も顕在化していく。
福島県では、福島県保険医協会事務局長・菅原様に2日間大変お世話になった。福島県保険医協会と兵庫県保険医協会の信頼関係も強くなっていくと確信した。保団連・住江会長が、兵庫県保険医協会の真剣そのものを、目の当たりにされたことは、今後必ず実を結ぶと信じて止まない。

■宮城県亘理町・鳥の海歯科診療所
私たちのグループは、合流したグループと飯舘村で分かれ再度北上、宮城県仙台市に入り、仙台市や亘理町の防潮堤を見学し、亘理町の鳥の海歯科診療所を訪問した。所長の上原忍先生と、宮城県保険医協会理事長の北村龍男先生・鈴木事務局長と懇談させていただいた。
鳥の海診療所は仮設診療所なのに、歯科診療所として最高最新の設備にびっくりした。技工室の充実にも愕然とした。歯科医師の上原先生の歯科医療の充実に賭ける夢や希望を心底感じた。
宮城協会理事長、北村先生のぬくもり、鈴木事務局長のご配慮にも感謝している。
鳥の海歯科診療所で上原先生(後列中)と














■さいごに
岩手県、宮城県、福島県の被災3県保険医協会に共通して、2014年3月11日、震災3年の日に兵庫県保険医協会が贈った哀悼及びエールのメッセージを喜んでくださったことを、お会いして身に染みて感じた。
私は、昨年に引き続いて被災地訪問に参加させていただき、兵庫県保険医協会には深く感謝している。
被災地医療に携わっておられる先生方は、全国の医師歯科医師の代表として、命がけで被災地医療に従事されている。私は、必ず兵庫県民として、兵庫県保険医協会会員として、引き続いて被災地の生活再建に向けて、被災地の皆さまと共に、立ち向かって行きたいと思う。
かけがえのない尊い命を共に感じて‥……。

兵庫県赤穂郡上郡町 歯科医師 白岩一心

現地レポート51(1)

東日本大震災 現地レポート51(1)
現状を知り、思い新たに

 兵庫協会は4月27日〜29日、東日本大震災被災地である岩手県野田村・田野畑村・陸前高田市・宮古市、宮城県気仙沼市・亘理町、福島県南相馬市・いわき市・飯舘村を訪問。兵庫協会から川西敏雄副理事長、広川恵一・白岩一心両理事、松岡泰夫評議員が、保団連から住江憲勇会長、京都歯科協会から平田高士理事・浜辺勝美事務局長が参加した。被災地では、福島協会の松本純副理事長・菅原浩哉事務局長、宮城協会の北村龍男理事長・鈴木和彦事務局長に案内いただいた。参加した松岡先生のレポートを掲載する。

現地の方々の心境知る
長田区  松岡 泰夫

 26日の夜遅く、医師2人、歯科医師2人、同行事務局2人が八戸で合流し、27日早朝に野田村へ向かいました。視察用のレンタカーの車内で簡単に結団式を済ませました。村役場では、小屋畑勝久教育次長に震災当時の様子や復興状況の説明を受けました。ここは津波に何とか持ちこたえ、その後の「救援の司令塔」としての機能を果たせたようです。5千人弱の小さな村故に、「顔の見える関係」が日ごろから築けており、連絡が密にとれ、村民の要求が早く実現しやすく、仮設住宅からの恒久住宅への移転も70%完了しているとのことでした。ほかの町村に比べ生活復興が非常に進んでいると感じました。
野田村役場前で小屋畑教育次長と

















 次に田野畑村民俗資料館に寄り、圧政の続く盛岡藩に反旗を翻した「三閉伊(さんへい) 農民一揆」について学習しました。行政が主体となり「一揆」の学習をさせていることに本当に驚きましたが、ただ決して幕藩支配体制を覆すことを目的としていないところが日本的だと感じました。しかし、東北人の我慢強く、粘り強い気質だからできるのだろうなと勝手に納得しました。
田野畑民俗資料館

















 その後、元「開拓保健婦」の岩見ヒサさん(96歳)を訪問しました。岩手地方の開拓団は苦労も多く、特に妊婦や子育て中のご婦人たちに負担が大きかったようで、医学衛生面での彼女の指導は、かなり効果があったと思われます。
 大阪生まれのヒサさんは「短歌」を通じて知り合った「胸を患っている」と自ら告げた男性と、その一途な愛ゆえに結婚。しかし、その夫を戦後すぐに病で失い、さらに一粒種の可愛い長男とも、白血病で死別してしまいました。生きる気力を失っているときに、ふと「他人の幸福のために自分が生きること」、「生かされることの大切さ」に気付いたとのことです。岩手の山村の自然の美しさに魅了され、亡き夫の親戚にあたるやさしいお坊さんの岩見対山さんと結婚され、開拓農村で活躍されたとのことでした。
 地域の女たちだけでお産をしていた環境で、経験ある助産婦であるヒサさんへの信頼感は増すばかりだったことは想像に難くなく、戦後すぐは回虫症が蔓延しており、持参していた「特効薬サントニン」を少なめに使ったところ、たちまち名保健婦として名声を誇るほどになったとのことでした。
 ヒサさんは、昭和30年代に「原発誘致」の話が持ち上がったときに、「原発反対」を説く広瀬隆さんの本を読んで、愛すべき郷土に「危険な原発」は不要と反対したとのことでした。当時、村の予算が5億円で、35億円のお金が降って湧いてくるとの電力会社等の「甘言」があったようで、男性陣はもろ手を挙げて賛成されたようです。彼らに原発の危険性や、一度事故を起こしてしまうと取り返しがつかないことなどをじっくりと語り、もしくは広瀬さんの本を無償で送り読んでもらったようで、結局岩手には原発が作られませんでした。
 ヒサさんは、高齢ですがとてもチャーミングで、表情豊かに、時には悲しそうに、時には満足げにお話しくださりました。彼女と交流ができ、参加したかいがありました。
岩見さんをかこんで

















 南下して、陸前高田市の地域交流施設「朝日のあたる家」で笑顔の可愛い行本清香さんと交流しました。津波で押し流され、何もなくなった更地に建てられており、地域活性化の拠点としてはあまりに小さいかもしれませんが、その志は輝いておられました。被災地域で何とか皆が集える共同スペースづくりに努力されていることに共感・感動しました。
朝日のあたる家で行本さんと懇談

















 本当に充実した東北応援視察でした。診療所の代診が見つかっておれば福島まで行けたのにと悔やむことしきりです...。