2011年5月28日土曜日

現地レポート36 三田市・小寺修先生より


2011年5月3日~5日 東日本大震災被災者支援

                                           小寺歯科医院 小寺 修

 この度は、未曾有の大震災において、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災されたすべての皆様に心よりお見舞い申し上げます。


 4月14日の三田での支部幹事会において、三田市から、仙台若林区に災害派遣された保健婦の鹿嶽様と西中様、そして兵庫県保険医協会から派遣された中津先生のお話をお伺いして、「行かねばならない。」との強い思いが、私の心にフツフツと湧いて参りました。
保険医協会にお電話を差し上げて、5月3日から5日に被災地支援に行きたいとお願いしたところ、日程もさし迫っていたにも関わりませず、各方面に調整頂きまして、この度の災害派遣を実現して頂きました事務局に心より御礼申し上げます。

 5月3日、川西先生、井尻先生、そしてなんと徳島支部から単身参加された紅一点、都築先生、事務局の黒木さんと岡林さん、そして、小寺の計6名が、7:30伊丹に集合して、8:15発のJALにて仙台へ。
仙台空港着陸前の機窓から、空港周辺が津波で、何もかも無くなってしまった、生々しい大地が一面に広がっているのが、望まれました。
とうとう被災地にやって来たんだと云う、不安と闘争心の入り交じった思いが、湧いて参りました。
空港到着後、タクシーにて仙台市内のリッチモンドホテルに、事前に送っておいた機材をピックアップし、コンビニでおむすびを買って、車内で食べながら、そして途中文具店を見つけ、カルテ複写用に、クリップボードとカーボン紙を購入し、東松島市の矢本保健相談センターに。
保健相談センターでは、保団連宮城協会副理事長の井上先生と保健師の桜井さんが待って居て下さいました。


お二人に指示して頂き、3日から三日間の東松島市矢本保健相談センターを拠点に東松島市と石巻市の避難所巡りが、始まりました。
川西先生をリーダーに、二人一組で行動することにしました。
第一日目は、川西先生/都築先生組と井尻先生/小寺組にて、矢本東市民センターに参りました。天気が良かったので、お家の片付けに帰られており、実際には、4名の被災者にお会い出来ました。
最初は警戒されましたが、川西先生に上手にお話を初めて頂き、徐々に心を開いて頂く事が出来ました。
我々のチームは、92歳のおばあちゃんと、34歳のお孫さんの男性の家族で、おばあちゃんは上下総義歯で、六甲歯研にお借りした、充電式モーターとポイント類で調整しました。そして義歯洗浄剤と義歯用ブラシと粘膜用スポンジブラシをお渡ししました。
お孫さんは、震災以来お風呂に入ってないそうです。うがい薬や歯ブラシと糸ようじをお渡しして、お二人に口腔衛生のお話をしました。


その後、保健センターの桜井さんに報告に上がりました。
仙台で一台だけ残っていた6人乗りのレンタカーが、塩釡の日本レンタカーにあるとの事でしたので、塩釡へ向かう事に。
矢本駅で本塩釡駅までの切符を買いましたが、 まだJR仙石線が不通の為、東塩釡駅まで代替えバスで、そこから電車で本塩釡駅にやっと到着しました。地元の皆様は何から何まで、ご苦労されておられるのを身を以て体験致しました。
レンタカー受け取りの待ち時間に、地元の八百屋さんに薦めて頂いた居酒屋「ひなた」で地元の魚と宮城の地酒で復興を願って乾杯しました。
復興地酒「日高見」最高に旨かった。

 第2日目(4日)は、9:30に東松島市矢本保健相談センターに集合し、宮城協会理事の五十嵐先生にご案内頂いて、井尻先生/都築先生組と井上先生/小寺組にて、関ノ内地区センターに向かいました、その前の矢本運動公園では、仮設住宅が100戸ほど建設中でした。この日も天気が良く、ほとんどの被災者が、お家の片付けに帰っておられましたが、帰ってこられた女性は、あまりのひどさに、やる気を無くしました。と仰っておられました。
ここでは、井尻先生チームが動揺歯の咬合調整と投薬にて対応しました。


井上チームは口腔衛生用品を主任さんにお渡ししました。
次は、石巻市の青葉中学に行きました。ここは、自衛隊がしっかり入っており、料理車両や仮設のトイレとお風呂が設営されていました。


しかしながら、午後から別の歯科医師のグループが入るとの事でしたので、寄って来て下さった方、2・3人にうがい薬など口腔衛生用品をお渡しして次の釡小に向かいました。
ここも1,5mの潮を冠ったそうです。水道は来ていますが、電気はまだ来てい無いそうです。
ここでは、歯ブラシは足りているとの事でしたので、まず管理されている市職員さんに、スポンジブラシやうがい薬や入歯洗浄剤をお渡し致しました。


その後体育館左右二組に分かれて、回りました。なかなか心を開いて貰えませんでしたが、神戸から来ましたと、井上先生が上手にお話して下さり、だんだんと心を開いて、お話して頂けるようになりました。あまり押売的にいくよりも、お話をお伺いするのが良いのかなーと感じました。


水道はこの3つの蛇口で全員が歯磨きも手洗いもされているそうです。
ただ衛生には、非常に気を使われているようです。
ほとんどのコンビニが津波で閉鎖されているなか、やっと開いてる店を見つけて、おむすびやお茶を買って、五十嵐先生にご案内頂いて石巻港を見下ろせる日和山公園で、変わり果てた石巻を見下ろしながら昼食をとりました。


午後からは、石巻工業港から500mにある、釡会館に向かいました。
ここは、本当に厳しい状況で、何もかもが、津波に破壊されていました。
釡会館は、海側に飼料工場があり、その飼料と潮と油と排水が混ざったヘドロを冠っており、何とも云えない悪臭が漂っていました。思わずマスクをしました。この会館は1階は完全に津波に巻き込まれ、今も全く使えない状況で、2階が避難所になっていました。


ここでは、2人の義歯のティッシュコンディショニングをしました。
井尻先生のライト付き2.5倍ヘッドルーペは特に、私の釣り具屋で買って来たヘッドライトも非常に役立ちました。
釡会館の前の崩れたお墓の片付けをされていた男性にうがい薬をお渡ししたところ、ヘドロが乾燥して粉が舞い喉がやられてしまったそうで、非常に感謝されました。家族にも欲しいとの事でしたので、沢山お渡ししました。



その後水没した、大曲地区を通って、五十嵐先生の東松島市鳴瀬歯科診療所にお邪魔しました。診療所は、海から3kmも離れているにも関わらず、津波の潮を(川西、井尻先生が手で示されている所まで)1.5m冠り、ヘドロを被り、チェアーは全てオシャカになり、床も剥いで、何もかもほおり出されておられました。この状態でも、絶対に元通りに診療するんだと、強い意志を持っておられました。先生の不屈の精神に感服致しました。



五十嵐先生の勧めで、野蒜地区を経由して仙台に戻りました。
野蒜地区は4m以上の津波に襲われ、本当に悲惨でした。


 第3日目(5日)は、川西先生/井尻先生組と都築先生/小寺組でまず、小松文化会館に向かいました。
ところがこの日は、身元確認された地元の方のお葬式があり、会館には3人のみでした。
川西チームは。義歯のティッシュコンディショニングを行い、都築チームは、認知症のお母さんとお嫁さんのペアを診ました。
お母さんは、上下総義歯で調子が良いとの事でしたので、義歯を洗浄して、スポンジブラシでの口腔清掃のお話をしました。お嫁さんには、歯ブラシとうがい薬をお渡ししました。


次は、昨日通った野蒜地区の避難所の中下地区センターで、5人家族で家ごと津波に流された母娘の口腔健診をしました。お母さんは持続的な治療をなるべく早く受けるべきと思われましたが、 かかりつけの歯科医院も流されて、先生は亡くなられたそうです。
午後から、五十嵐先生の診療所に、京都府歯科医師会から無償、無期限で借与された検診車の見学に伺いました。配りきれなかった衛生用品や、使いきれなかった歯科機材と、武中先生と岡本先生に頂いた薬をお渡ししました。
その後、保健相談センターの桜井様に報告にお伺いして、帰路につきました。


今回3日間で、東松島市と石巻市の7箇所の避難所を巡り、歯科医師4名で、28名の被災者のお口を見せて頂く事が出来ました。
天気が良くお家の片付けやお葬式などで避難所には、すべての方がおられた訳では有りませんでしたので、診察出来たのは、実際に避難されている方の一部のみでしたが、その分一人一人時間をかけてお話を伺う事が出来た事は、非常に良かったと感じました。

今回の被災者支援に赴くに際し、中津先生よりアドヴァイスを受けていた事は、非常に役立ちました。我々も次に支援に行かれる先生に向けて、気づいた事を列記致します。
1)飛行機で現地に入りましたが、それでも1日目と3日目の活動は、半日になってしまいますので、少なくとの今回の様に3日は必要だと思います。
2)仙台空港から各被災地までは距離も有りますし、物資も沢山有りますので、ワゴンタイプのレンタカーを事前に確保いておくのが良いと思います。
3)カルテの1号用紙のコピー100枚強(裏は白紙でもOK、事前にバインダー用に2穴あけておく)、クリップボード、複写用カーボン紙、2穴バインダー、筆記用具。
4)手鏡:患者さんの口腔ケア指導時にご自身の口を見てもらう為。
5)ザルとボール(デンチャー洗浄、排唾用)
6)充電式モーター(ストレート・コントラハンドピース、5倍速コント
ラ)電気の来ている所も有りますので、電源用延長コード。
7)歯牙切削用バー、デンチャー調節用のバー・ポイント
8)ウエットティッシュ、ゴミ袋(スーパーのポリ袋ぐらいの大きさ)
9)エアダスター(可燃性は機乗前に没収されますので、仙台で購入すべし)(仙台東部道路 仙台港北ICの仙台よりの45号線南側に大きな文具屋が有ります。)
10)ティッシュコンディショナー、デザインナイフ、曲の金冠バサミ、咬合紙、(リベース材を持って行きましたが、使いませんでした。)
11)ライト付き拡大鏡、ヘッドライト
12)ゴム手袋、マスク、白衣、
13)うがい薬(アズノール等の粉末が良い)入歯洗浄剤、入歯ケース、スポンジブラシ、入歯用ブラシ。
14)靴は脱ぎ履きしやすいもの(避難所はすべて靴脱ぎます)、スリッパ

そして、今回支援に赴いて、感じた事を列記致します。
1)支援にあたっては、今回事務局にして頂いた様に、地元の社団連と保健センターとの事前の打ち合わせが必須だと実感しました。
2)義歯修理など、実際に治療する事も大切ですが、それ以上に、被災者の言葉に耳を傾け、お話を伺いながら、ケアして行く事こそが、一番大切だと感じました。
3)歯科医療も口腔ケアも行き届いてない被災地がまだまだ有る様に感じました。自治体自体が機能していない所も有るでしょうから、地元の医師、歯科医師、医療関係者との間に立つ機関としての保険医協会の役割は非常に大きいのではないかと、感じました。
4)被災されているのは、医師、歯科医師などの医療機関も同様ですから、その先生方にも、お役に立てる仕組みを構築すべきだと思います。
5)支援者はその日限りですが、被災者はつづく訳ですし、復興してもそうですから、カルテなり、地域連携パスなりの記録を本人と保険医協会と保健センターが持っておく様な、仕組みを構築すべきだと考えます。
6)被災された医療機関支援のため、中古の医療機器を全国から保険医協会を通じて、お譲りする仕組みの構築。その為には、10年なりの期間を設け、被災地に関しては現在のPL法の対象外にするような 特別措置法の立法を国会と政府に働きかけなければならないと、考えます。

 今回の支援に際し、アドヴァイスを頂きました中津先生、鹿嶽様、西中様。お薬を託していただきました武中先生、岡本先生。協賛品を提供して頂きました(KK)モリタ神戸支店様、歯科商店のササキ様、ミヤワキ様、大河様。充電式モーターとバーセットを貸して頂きました六甲歯研様。現地でお世話して頂きました宮城協会の井上先生、五十嵐先生、東松島市保健相談センターの桜井様。3日間お世話頂きました黒木様、岡林様。そして3日間ご一緒して頂きました川西先生、井尻先生、都築先生に心より感謝を申し上げます。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 33号

*前号に続き、宮城協会に入った事務局の51819日の行動を報告する。

宮城県E先生「復興は産業優先。医療機関が抜けている」

行動日(5月18日)
行動地域(仙台市宮城野区、石巻市)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数 2件(面談 1件、不在等 1件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊  0件)
【訪問の概要】
E先生-医科-(石巻市の診療所が全半壊、昨日仙台市青葉区の自宅を訪問したが不在。電話連絡で診療所の片付けに行っていらっしゃるとのことで石巻市の診療所を訪問)
<被害状況>「診療所兼自宅の1階診療所部分が全壊。内視鏡、レントゲン等機器も全滅。1階の天井まで水が来たので、その後ぼろぼろと天井が落ちてきている。開業11年目で、機械もちょうど入れ替えたところだった。
 地震当日は、直後に従業員を帰し、高いところへ避難するよう指示。自身は母親とともに家に残った。北上川からあふれた津波が徐々に周囲に押し寄せてきて、水かさが増していった。川上に向かって避難する車が渋滞を作っていたが、川上からも水が押し寄せてきて車は流されてしまった。そのうち階段も2階まで残り2、3段のところまで水がせまってきたので、母親をロフトに避難させた。突然知らない人が二人ベランダから入ってきたので、えらく早く救助が来たかと思ったが、車がたまたまうちの家に流れ着いて、そこから脱出してきた人だった。結局そこで水は止まった。その後第二波、第三波と津波が来るたび、家がぎしぎしと揺れて、火事も見えていた。
 はじめの1週間は、冷蔵庫の中身でしのいだ。しかし飲み水がなくて大変困った。外に出られるようになって裏の山の沢水を汲みに行った。3日間水が引かなかったが、4日目からは港小学校の診療支援に入った。避難所も当初は極度に飲み水・食糧が不足していて、一日二口分くらいしか水がなかった。支援に入ったことで、水を少しもらうことができたが、そのような状況なので申し訳なかった。1週間後でも一人一日おにぎり一つだった。」と甚大な被害の状況を語っていただいた。
<今後の見通し>「はじめは再開しようと思いヘドロを掻き出していた。同級生や助かった患者さんからも再開して欲しいという要望がある。しかし、新しい都市計画がどうなるのか。診療所前の国道から川よりは住居が建てられないと聞いている。人が住まないとなると診療圏がなくなってしまう。患者さんもたくさん亡くなった。昨日、宮城県のガスが復旧して支援組織の解散式があったが、ここはまだガスが復旧していない。結局港の近くは再建対象ではないということか。私はここで育った。私もがんばらなくちゃと思うが、今の状況を客観的に考えると、ここでの再建は99%無理だと思うようになっている。当初は、その日毎にがんばろうと思うことと、無理だと思うことが変わり、夜中に目が覚めてそのことを考えて眠れなくなっていた。従業員は一時解雇とした。再開するときには声をかけると言ったものの・・・。
 しかし、いまだ瓦礫に取り囲まれ、満潮時には周囲は冠水し、長靴でも歩けない。医療機関なので優先的に撤去してもらえないかと行政に陳情もしたが、道路の復旧が優先だとして、要望としてお聞きしますという程度。いままで市に対して健診や予防注射など協力してきたが、結局そのことは考慮されない。行政の受付もよそからの応援隊で、これまで繋がりがある健診担当部署と、瓦礫対応の部署が違うからだろうか。
 病院でもない診療所は、結局個人商店の一つとして考えられている。医師会もクールだ。被災者支援は呼びかけるが、被災会員を助けようという機運はない。
 瓦礫と水を毎日見ているともう嫌になる。こんなところにどうやって年寄りが歩いてくるのか。診療所を直して再開しても収支は合わないでしょう。会計士もいままでと同じ体制では無理と言っている。
 復興は産業優先で、医療機関が抜けている。結局ここは無医地区になる。はかなく消えるしかないのか。個人商店でもこれまで地域医療を担ってきたのに」と語られた先生と石巻市の瓦礫の山の現状を目の当たりにして言葉がない。
<協会への要望>「休業保障の保険料は、そのまま引き去られ続けるのか。口座に入金がない中で不安だ。また、天災での休業は対象にならないと聞いて、使えればずいぶんと助かるのにと思う」と話されていた。

行動日(5月19日)
行動地域(仙台市宮城野区)
訪問者名(村上(愛知)、栗城(保団連))
訪問結果 訪問数 1件(面談 1件、不在等  件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊  0件、その他  0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
T先生-歯科-(多賀城市の診療所が全半壊、仙台市宮城野区の自宅を訪問)
<被害状況>多賀城市のジャスコ内で診療していて、被災。本人、家族、従業員はみんな無事。
<今後の見通し>ジャスコの再開が不明なので、そのまま再開する目途がつかない。他所での診療再開を考えて探した。中野栄駅前に3年前から空いている歯科医院(後藤歯科)があり、銀行から融資もしてもらえることになった。6月を目処に診療を再開する。
<協会への要望>取りあえず、銀行から融資を受けられたが、無利子の融資などがあれば、助かる。
 「6月に診療再開」とうれしそうに語られた先生の笑顔が印象的だった。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 32号

516日から19日にかけて3人の事務局が宮城協会会員支援に入った。16日と17日の2日間の報告を行う。

宮城:「もうこうなったら心機一転でやるしかない」

 5月16日から19日まで、今回の大震災で全半壊に遭われた宮城協会の被災会員の最終訪問行動のため、村上(愛知)、樋下(京都)、栗城(保団連)の各氏3名が宮城協会入りした。
 5月16日午後3時に集合し、打合せを済ませ、亘理郡亘理町の被災会員を村上(愛知)、樋下(京都)チームが訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月17日は、午前9時から仙台市青葉区、若林区、太白区 泉区の被災会員12人を村上(愛知)、樋下(京都)チームと宮城協会の事務局の方の協力もいただき、青井(宮城)、栗城(保団連)チームの2チームで訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月18日は、仙台市宮城野区の被災会員の自宅と昨日訪問した仙台市青葉区のご自宅がお留守だった被災会員が石巻市の診療所の瓦礫の後片付けに行っていらっしゃるとの電話で、村上(愛知)、樋下(京都)チームが石巻市の診療所を訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月19日は、今回訪問する予定名簿の最後の被災会員で昨日お留守だった仙台市宮城野区の会員と連絡が取れたので村上(愛知)、栗城(保団連)チームで自宅を訪問し、お見舞金をお渡しした。
 今回の最終訪問行動では、14人の被災会員や奥様に直接お会いし、被災の状況、診療再開の見込みや現状、政府への要望などお聞きした。
 以下に1617日の概要を報告する。
◆行動日(5月16日)
行動地域(亘理郡亘理町)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数  1件(面談 1件、不在等  0件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
M先生-医科-(仙台市青葉区の診療所は被災なし、自宅(亘理町内)を訪問)
<被災状況>津波が自宅一階に流入、全半壊状況。Ipodで自宅の様子を画像で見せていただいた。ログハウスの階段がはずれ、ピアノとともに壊れていた。現在、津波被害地域の再建計画が未定のため今後への見通しは立たず、アパートを借りている状況。
従業員2人の自宅が津波で被害を受けた。
<診療の状況>停電、断水にともない透析が不可能になった。12日は薬でしのいで13日に消防(応援に来ていた愛知の消防)から患者受け入れ可能な病院がある旨連絡があった。14日から本格的に患者を移送し、機材、スタッフも送ることで透析治療を継続できた。スタッフの人件費は持ち出し、3、4日で終わったので何とかなった。その後、電気が復旧し、水は給水車が手配でき、一週間後には自院で透析を再開できた。再開後の変化として、避難の影響で透析患者数が90人から80人に減少した。今は、夜間の透析は取りやめている。今は医薬品の供給には問題ない。
<要望>医療全体の連携、連絡体制の構築が必要。患者の移動の調整は大変。非常時に対応できるよう自家発電施設の必要性がある。30Aの発電機を借りてやってみたが、まったく能力不足で機械類を動かすことはできなかった。業者に調べてもらったら500Aの能力が必要だといわれた。高額な施設になるので個人では難しい。公的な補助があると助かる、と語っておられた。
◆行動日(5月17日)
行動地域(仙台市青葉区、若林区、太白区 泉区)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数 9件(面談 8件、不在等 1件)
被災状況(全半壊・流失 9件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 8件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
N先生-医科-(石巻市の診療所が全半壊、自宅(仙台市青葉区)を訪問)
ご自宅で奥様からお話を伺う。「石巻の診療所は津波被害2メートルで全壊。すべてひっくり返って泥をかぶっている。当初診療所まで往復5時間かかった。今はようやく1時間ちょっとで行くことができるようになった。ボランティアの方にもがんばってもらって、ようやく1階が見通せるようになった。地震直後は、自家発電が動いたので、なんとか診療所で出産できた。5分後に津波が来た。スタッフが10数人残ってくれたので手術ができた。患者さんは4人だった。
 ちょっとしたことで生死が分かれてしまった。亡くなられた方は気の毒としか言いようがない。スタッフはすぐに解雇せざるを得なかった。えっ、という感じだったが、被害の大きさから納得してくれているのではないか。車がみんな流された。またスタッフ一人は家が流された。今後の見通しと聞かれても、まだ建てちゃいけないということで再開はペンディング。お国次第である。とりあえずバイトでしのごうかと考えている」と悲痛な思いを語られた。
H先生-歯科-(仙台市泉区の診療所が全半壊、診療所を訪問)
被害状況をご本人と奥様から伺った。「診療所は地震でまるで爆弾を落とされたような被害で全壊。もとが田んぼだったので地盤が弱かったのか。家主から1ヵ月以内に出て行くように言われている。地震発生時は、休憩中で患者はおらず、奥様とスタッフの3人。幸いけがもしなかった。患者は近くの先生に場所を借りて継続して診ることができた。あと二人残っている」と語られた。
 今後の見通しでは、「開業してまだ3年目で借金も2000万円残っている。次を始めないといけない。融資が必要になるが、以前事故をしているので保証協会がダメというかもしれない。そうなると国民金融公庫しかないか。とりあえず運送屋に機材を預けようと思っている。次の場所はまだこれから。市場調査もしないといけない。もう、心機一転やるしかないね」と懸念と意欲の複雑な思いを語られた。