2014年7月31日木曜日

東日本大震災 現地レポート52

第29次・被災地訪問参加記
兵庫県保険医協会理事 歯科医師 赤穂郡上郡町 白岩一心

 2014年7月19日(土)~7月21日(月)。兵庫県保険医協会は、第29次・東日本大震災被災地訪問を行った。
 日本国憲法25条・生存権、憲法11条・基本的人権尊重、憲法13条・幸福追求権などの憲法理念に基づいて、東日本大震災が風化されないように、福島原発事故が政府によって、歪められないように、被災地、現地にお伺いすることによって、全国に情報発信したり、問題点を浮き彫りにして、国会請願で直接国会議員にも訴えている。

 今回の訪問では、「被災者の皆さまの心のケア~被災地での心のケアシステムの現状を学ぶ」ことをテーマに掲げて訪問した。訪問場所は、宮城県仙台市と石巻市、女川町で、参加者は、加藤擁一副理事長、藤田事務局長、楠事務局課長、そして私、白岩が、兵庫協会代表として現地に行かせていただいた。

 7月19日、宮城県仙台市に現地集合し、2泊3日の被災地訪問であったが、得られるものは計り知れなく、兵庫協会の財産となると同時に、被災地で対応してくださった現地の方々に対して感謝の念は絶大なものである。

 初日19日(土)仙台市に現地集合して、スケジュール確認と今回の訪問目的を明確化し、資料の確認をした。翌日20日(日)午前7時55分に、レンタカーにて出発した。

■「からころステーション」(石巻市)で懇談、女川町内へ

 まず向かったのは、津波被害の大きかった石巻市の被災者の皆さまの「心のケア」が、震災3年を経過して、どのようにして行われているかを学ぶため、「震災こころのケア・ネットワークみやぎ・からころステーション」を訪問した。
 仙台市を出発して石巻市に到着するまで車中からは、多数の震災でお亡くなりなったと思われる真新しい墓地が見られた。震災直後、石巻市に現地入りされた加藤副理事長が、「がれきこそ無くなったが町ごと消えたようです‥…」とつぶやかれたことが心に響く。
 石巻市「からころステーション」とは、「体と心のケアステーション」を意味していることを到着してから学ぶが、「からころ」が、第29次被災地訪問の最終テーマになるとは思いも寄らなかった。
「からころステーション」では、事務局・高柳伸康様が、震災翌月4月下旬から現在までの経緯を詳細に説明してくださった。お話をお聞きする中で、政府の震災復興対策、社会保障政策が何ひとつ進んでいないことが明白になった。
 けれども、からころステーションでは、ハローワークとの連携、社会福祉協議会との連携、仮設住宅訪問、来所相談室の設定、乳幼児期検診への心理士派遣、保健師の派遣サポート、医師による心のセミナーなどを事業展開、対応の素早さ、先見性を強く感じた。
 そして自ら被災者にもかかわらず、被災者の方々に寄り添う姿が鮮明であった。ニーズに合った支援、定点地域のケア活動、も充実している。このような支援が、政府主導で行われていくべきで、社会に広く訴えていかなければならない。
「おじころ」という言葉も印象深い。単身独居の男性の心のケアを指している。男性の単身独居ほど、アプローチが難しく、把握も難しい。アルコール依存症の問題も多い。
「ベビころ」は、赤ちゃんと子育てお母さんのケアにも対応されている。三日目に引き続いていく流れの中で、子どもたちの支援構築に、科学実験や子ども視線の参加型イベントの定期的開催も大切なケアである。

 今後の課題として、住宅格差問題や生活格差問題への対策、被災者本人の希望でなくても介入しなければならない場合の対策、そして支援者自身の疲労、医療費免除打ち切りに対する今後の現実的課題が挙げられると締めくくられた。

 安心な生活には、長期的展望と支援体制の確立、復興住宅が出来ないため、仙台市への人口流出が大きいことも学んだ。高柳様のご説明のあと、医師・原敬造先生と懇談した。

 懇談後、精神保健福祉士、社会福祉士の曳地芳浩様に、からころステーションの自動車にて、石巻市と女川町を案内していただいた。この曳地芳浩様は、26歳で、社会人3年目でありながら、東日本大震災の復興支援対策を真剣に見つめて、故郷石巻市に対する愛着心、仕事に対する集中力、判断力、決断力、将来的展望に優れた人材である。
現地での出会いの中で、最も尊敬出来る皆さまのおひとりである。兵庫協会参加者全員一致した人物像である。

 案内していただいた女川町では、津波25㍍の高台の病院の一階全滅状況拝見が心に残る。女川町は、原発の町であるが、原発マネーの影響か、役場や保健センター、病院が高台に立派にそびえ立つ。けれども原発問題は住民の間では禁句のイメージを感じた。女川町のリアス式海岸も案内していただいた。

 石巻市大川小学校も案内していただいたが、悲しみが心に焼き付いて離れない。大津波に飲まれて、児童70名が死亡、4名が行方不明となり、全国的にも有名な被災地となってしまった。慰霊碑には線香が絶えなく、献花も多数供えてある。子どもを失った保護者たちは、子どもたちが逃げるはずだった北上川堤防に、ひまわりの種を植え、自分の子どもを育てるのと同じ気持ちで育てているお話も忘れられない。
 石巻市と女川町を約6時間訪問させていただいた。あまりにも惨状が強すぎて、今後の訪問の重要性をさらに感じた。再訪問の約束とスタッフ皆さまのご活躍を祈りながら石巻市をあとにして、仙台市に戻った。

■宮城協会・井上副理事長と懇談

 夕方、宮城県保険医協会副理事長・井上博之先生と懇談した。井上博之先生は、松島町で歯科医師として医療に従事されておられる。検屍では、カルテの重要性、レントゲン写真の重要性、口腔内写真の重要性をお聞きした。
 大学で学んだ法医学や法医歯学よりも生々しく、悲しみも背負っておられ、お話をお聞きするのさえ、つらくなってしまった。歯科医師として、災害時でも関われることを強調されたことが嬉しい。
 歯科医師は、災害に関係出来ないという見解の人もおられる。医師、看護師、薬剤師、歯科医師、歯科技工士、歯科衛生士のチーム医療が、災害時には必要と言われた。兵庫協会の医科歯科薬科一体運動も、讃えてくださった。震災を通じて、被災地の保険医協会との親交が厚く築かれる。これこそ兵庫県保険医協会ならではの活動だと思った。
 継続事業展開には、出会いと別れが付き物であるが、阪神淡路大震災を経験した兵庫協会だからこそ出来る事業だと思う。宮城県保険医協会と井上博之先生にも深い感謝の気持ちでいっぱいである。2日目を無事に終えた。

■仙台レインボーハウスを訪問

 3日目、21日(月)。午前9時から震災遺児、震災関連遺児の支援をしている、民間任意団体「あしなが育英会・仙台レインボーハウス」を訪問した。東日本大震災で、保護者を亡くした遺児たちの心のケアに取り組んでいる、レインボーハウスは、仙台と石巻、岩手県陸前高田の3カ所にある。
 あしなが育英会とは、教育支援のイメージが強いが、心のケア事業の二本立てで活動をされている。仙台レインボーハウス・若宮紀章様に、施設案内と懇談をさせていただいた。
 一階には体育館のような多目的ホール。遺体安置所や避難所のイメージを拭い去るような局面の天井、ぬくもりある設計と機材。新築でなく、元は整形外科病院のリフォームだとお聞きした。遺児のお世話をするボランティア養成講座も行われている。
 3歳くらいから高校生までの遺児の心のケアをするための施設設計工夫が至る所に見られる。明るい基調とした各お部屋、トイレ、談話室、お風呂場、などの詳細な説明をしていただいた。
 震災7日目から直接遺児の皆さまに直接支援活動に入れたのは任意団体がゆえの活動のお話には、保険医協会と通ずるものがあると思った。遺児の保護者が、祖父母であったり、叔父叔母であったり、悲しい現実をお聞きした。
「火山の部屋」と命名される部屋にはサンドバッグが吊り下げてあり、遺児の皆さんの心のはけ口となっている紹介があった。不登校児やひきこもり、高校生退学児童の対応もされている。遺児同士の関係が強くなったり、年上の子が、年下の子の面倒を見たりすることも教えていただいた。血縁関係の強い東日本では、家族の分断による心のケアの必要性をお聞きした。
 一番の問題は、あしなが育英会に相談したり、レインボーハウスに来れない遺児たちの心のケアが課題だと若宮紀章様は強調される。

 あしなが育英会の活動は、地域を超えて、全国的に支援者が広がっているが、現場でのボランティアの人数には足らない現状があると言われる。仮設住宅の特に多い石巻市レインボーハウス、岩手県陸前高田市のレインボーハウスは、仙台レインボーハウスよりも遺児支援活動が急務と聞く。
 あしなが育英会訪問を終えて、仙台駅から新幹線にて帰神した。車中も震災復興支援や被災地訪問の反省点などを話し合った。

■医療従事者の役割、人間にとって大切なこと

 医療従事者は、やはり震災被害者の子どもたち、特に親兄弟姉妹を亡くした遺児たちの心のケアを学ぶ必要性は高いと思われる。未来を背負う子どもたちこそ、今後の心のケアが大切だと思う。
 一人一人の心のケアのアプローチには、からころステーションと、あしなが育英会では違うけれども、最終テーマは、幸福な生活再建であり、情報を全国に伝達して、みんなで分かち合う精神だと思う。
 あらゆる体験を2泊3日で体験させてもらったが、伝承していかなければ、被災者の皆さまと同じ土俵で心を分かち合うことは出来ない。心のケアは、切れ目無く完成完全がないけれども、私たちに出来ることは、現地に足を運んで関わらせていただいて、学ばさせていただいて、そして問題点を浮き彫りにして、今後につなげていくことだと思う。

 第29次・被災地訪問のテーマ「被災地の心のケア」は、全国各地にも通ずる課題も見えた。政府の社会保障政策が、経済力を優先した成長戦略の名目で潰されることにも原因があると思う。被災地訪問を通じて、いかに心が人間には大切かを学び取る今回の訪問となったことを報告する。
 是非とも今後も被災地訪問事業に参加させていただきたいと思う。そして微力ながら非力ながらも、出会いを大切にして行きたいと願う。
 第29次・被災地訪問計画に携わってくれた、兵庫県保険医協会事務局の皆さまには、深く感謝していることを最後に申し述べたい。

2014年7月23日水曜日

東日本大震災から3年
被災地インタビューその②

見えない分断を越えて
福島県南相馬市・大町病院 猪又義光院長、藤原珠世看護部長

 保団連は4月26日から29日にかけて、兵庫・京都歯科協会とともに青森・岩手・宮城・福島協会の協力も得て東北被災地訪問を行った。前回掲載した福島県南相馬市の雲雀ヶ丘病院・堀有伸副院長のインタビューに続き、今回は、看護師不足や在宅医療体制の未整備と向き合いながら、同市の地域医療を支える大町病院・猪又義光院長と藤原珠世看護部長への保団連・住江憲勇会長のインタビューを掲載する(文責は編集部)。

■医療を必要とする人 いかに多いか

住江 震災から3年がたちました。この間、筆舌に尽くしがたいさまざまなことがあったことと思います。

猪又 この3年間、保団連・兵庫協会が被災地や当院を訪問し続けていただいていることに感謝します。全国からの物心両面の応援に、いつも勇気づけられています。もし南海トラフ地震が起きたら、今度は私たちが支援する番ですね。
 3年という時間が経過した気がせず、奇異な感じがしています。原発事故後の3月21日に、全入院患者126人を他の地域へ搬送しました。その頃には地域の住民もほとんどいなくなっていましたが、今振り返ると、大震災・原発事故直後の混乱の中でも「ここに留まっていたい」という気持ちが自分にはあったのだと思います。南相馬に残り医療を必要とする人々に対して、「医療機関がなくなったらどうする」との思いに強くかられ、「私の仕事は医療を提供すること。できることだけやろう」と、翌月の4月4日に外来診療を再開しました。

住江 震災・原発事故からわずかな時間での再開ですね。驚かされます。

猪又 再開できた大きな要因は、常勤医師が戻ってきてくれたことです。外来を中断している間、1日1回は常勤医に連絡をとっていました。診療再開の意思を伝えると、全員が快く「わかりました。すぐ行きます」と言ってくれたのです。
 親しくしている商店街の方が必死になって、門前の調剤薬局一軒一軒に「大町病院が4月4日から再開するぞ」と連絡し、薬剤師に戻ってきてもらったことも大きかったですね。

住江 医療者、地域の方に支えられて再スタートできたわけですね。

猪又 外来診療を再開し、医療を必要としている人がいかに大勢いるかを知りました。外傷の人も含め、たくさんの患者が待合室にあふれ、門前薬局には車や人の長蛇の列ができました。当院だけでなく、他の医療機関から処方箋をもらった患者も、大町病院の再開を聞きつけ門前薬局に駆け込んできたのでしょう。当時、県の地域医療課からの通知で「入院は5床、72時間まで」という規制があり、現場を考えない非常に形式的な措置がとられていました。しかし「責任は俺がとるから」と、手術や入院など、必要な人には必要な医療を提供するよう努めました。なるべく日常診療に近づけていこうと職員に話し、医師・看護師、スタッフらも皆、目の前の診療に徹してくれました。
 病院が医療を提供することは当然ですが、今は、治療内容など医療の質をより一層高めていくことが大事だと思っています。

■原発事故補償の差がスタッフ間に影落とす

住江 患者さんや地域住民の方々の健康状態はいかがですか。

猪又 受診者は県外から来ている除染作業員が多く、毎晩酒盛りをして肝硬変を患う人がいます。また、高血圧症でも糖尿病でも、重症者が増えている印象です。食事の影響も大きいと思います。
 在宅療養も困難になっています。入院してきたおじいちゃん、おばあちゃんが回復して自宅に戻られても、すぐに悪化してまた病院に戻ってこられます。震災後、住環境の変化などもあり、在宅で面倒をみる余裕が家族の方になくなっているのです。

藤原 強制的な退院・避難などで多くの患者が医療的に保護されず、仮設住宅入居後も精神的、内科的な疾患を悪化させています。在宅医療・地域医療を支える本格的なチームワークが求められていますが、訪問看護師、訪問看護ステーションも不足しています。地域医療を支えるスタッフをいかに集めるかが常に課題です。
 当院においても、もともと100人いた看護師が80人くらいまでは戻ってくれていますが、不足は続いている状態です。来年は何人入ってくれるだろうかと考えると先が不安になります。避難先で子どもの学校も始まって生活が定着し、南相馬に戻りにくくなっています。加えて、震災・原発事故後から地域に残り頑張ってきたスタッフも、3年が経過して相当疲れが出ています。

住江 看護師の皆さんが戻ってこられるような環境づくりも、大事ですね。

藤原 ええ。それには学校など生活基盤を整えていくことが必要です。そうしないと、看護師を含め若い世代の人たちが南相馬に戻ってこられません。
 それに、原発事故が当院の看護師を含め職員間にも大きく影を落としており、住んでいる地区によって元の家に戻れる人と戻れない人、窓口負担が免除されている人とされてない人など、3年たっても分断が起きています。住民に医療を提供しなければならないという思いで一緒に仕事をしていますが、福島第一原発の廃炉や放射線の影響について展望が見えないなかで、同じ気持ちで前に進んでいくことが困難になり、いろいろな心の葛藤があるのが現実です。 
 看護師間の気持ちの分断を乗り越え、どう心をまとめていけるか、今年の課題だと感じています。「病院全体が地域医療を支える立場で動こう」と院長が方針を出しているので、そこに向かって看護師としてどう医療を提供するのか、本来の医療従事者としての魂に響くものを病院内でつくり出していきたいと思っています。

■問われる国・県の役割

住江 生活再建の将来展望を示さず、しかも被災者の間に分断を持ち込むようなことは許されません。 
 3年前の震災直後に被災地へ行ったとき、ある被災者から「阪神・淡路大震災では、復興にどれくらい時間がかかったのですか」と聞かれました。長い期間がかかると答えて落胆させることもできないし、かといって無責任に期待を抱かせることもできない。何とも言いようのない気持ちにさせられました。そういう方々が震災・原発事故から立ち直っていくのを後押しすることこそが、県政や国政の役割のはずです。しかし実際に国がしていることは、原発政策でも被災者の気持ちを踏みにじってばかりです。

猪又 先ほどの入院ルールも同様ですが、震災後、県や国は被災者の実態を顧みず、何かと規制するときだけ出てくるのも現場の者としては妙な感覚を抱きました。

藤原 放射線の影響で福島に「見えないものによる分断」がある現状は、全国に伝えていかなければとも感じています。

住江 私たち保団連・各協会も被災地訪問を通じて、被災地の現状を全国に伝え続けたいと思います。本日はありがとうございました。




■猪又義光(いのまた・よしみつ)
大町病院院長。専門は消化器科。1944年福島県生まれ。東京慈恵会医科大学卒。医学博士。日本消化器病学会専門医。日本消化器内視鏡学会専門医。

■藤原珠世(ふじはら・たまよ)
 大町病院看護部長。1958年福島県浪江町生まれ。87年より前身医療法人の猪又病院に勤務。2005年より現職

■大町病院
 1877年(明治10年)に開設した前身の医療法人慈誠会・猪又病院時代を含め、約130年の歴史を持つ。2004年に猪又病院を引き継ぎ、医療法人社団青空会・大町病院として診療開始。震災時は一般病床104床、療養病床84床。14年7月現在は一般80床、療養60床。常勤医11人。全国各地からボランティア看護師などを受け入れている。福島第一原発から25キロに位置する。

(全国保険医団体連合会発行 全国保険医新聞 2014年7月25日付掲載)

2014年7月15日火曜日

東日本大震災から3年
被災地インタビューその①

住民の不安に寄り添う

福島県南相馬市・雲雀ヶ丘病院 堀有伸副院長


 保団連は4月26日から29日にかけて、兵庫・京都歯科協会とともに青森・岩手・宮城・福島協会の協力も得て東北被災地訪問を行った。福島県南相馬市で医療活動を続けている雲雀ヶ丘病院・堀有伸副院長と、同市の大町病院・猪又義光院長らに、保団連の住江憲勇会長が話を聞いた。今回は、精神科医として被災者の「三つの不安」に向き合う堀副院長のインタビューを紹介する。

■被災地における「三つの不安」

住江 東北被災地のなかでも原発事故による影響で、震災直後から現在に至るまで雲雀ヶ丘病院ではさまざまな苦労があったことと思います。大震災から3年以上たった現在の状況をお聞かせください。

 当院は福島第一原発から北24キロ、福島県浜通りの原発以北で唯一稼働できる精神科病院です。20~30キロ圏内は事故直後は屋内退避指示区域に、その後4月22日から同年9月30日まで緊急時避難準備区域になり、当院も全入院患者を他の地域へ転院させました。原発事故後は地域の高齢化が進みましたが、高齢者施設やヘルパーが不足しているため、南相馬市内で施設に入所できる人はほとんどいません。
 被災地の住民は口には出しませんが、今なおさまざまな強い不安を感じて生活されています。私は被災者の「三つの不安」に対するアプローチが、この地域で精神医療を考えるヒントになると考えています。
 一つは、「現実問題に由来する不安」です。仮設住宅で安心して暮らせない、仕事に復帰できない、生活が困難などの現実の問題は、実際に具体的問題を解決するか、諦めて現実を受け入れることでその不安から解放されるかもしれませんが、精神医療では解決できません。私たち精神科医は、地域社会の復旧・復興を傍らで応援し、お手伝いさせていただくというスタンスが大切です。
 二つ目は、「神経症的な不安」です。原発事故による低線量被曝の影響や、先の見えない廃炉作業などへの過度に悲観的な考え方によるもので、一番見逃されがちです。精神医療が関わるべきかどうか微妙なケースもありますが、望ましいのはカウンセラーなどが寄り添って悩みを聞き、問題解決に付き添うことです。
 最後に、「精神病的不安」です。不安が一定の水準を超え、うつ病や統合失調症などの精神病的症状が強く出ているときは、薬物療法や入院医療など、医学的な治療・管理が必要になります。私たちが病院で中心的に行っていることです。

■アルコール依存症や認知症の進行が深刻

住江 精神医療を必要としている方にはどのような特徴がありますか。

 知的障害が基盤にあって、避難生活に耐えられず行動異常になり入院してくる方は、震災後、明らかに増えています。ただ、当院が入院を再開してから最初は、予想よりも入院患者が少なく、入院適応になる気分障害やうつ病の患者は増えていないように感じました。統合失調症の入院患者数は震災前より減った印象です。
 このことは、必ずしもポジティブにとらえず慎重に解釈したい。一つは、統合失調症や躁うつ病の好発年齢である20~50歳代の人口が地域から流出したことが大きいといえます。また、当院が1年入院を中止していた間に他地域の病院に入院したのかもしれません。一方で、本来はリスクの高い人が震災直後から軽躁的にがんばり続け、疲労が蓄積している可能性があります。実際、脳血管障害や高血圧の人は増えており、ストレスを抱えて休みたい人、休むべき人はたくさんいます。

住江 大震災と原発事故という過酷な体験を経て被災地に留まり暮らしている方々が、さまざまなストレスにさらされ心身ともに疲弊しているであろうことは、20年前の阪神・淡路大震災の経験からも想像に難くありません。阪神・淡路では仮設住宅の独居男性を中心に、心身の疲労や孤独からアルコール依存に陥ることが深刻になりました。

 南相馬市でも、仮設住宅でアルコール依存の人が潜在的に増えているようです。また、恒常的に入院依頼があるのが認知症の患者さんで、数は増えています。原発事故の影響による住環境・人間関係・生活習慣の喪失など、認知症悪化のリスクファクターが南相馬市では明らかにそろっています。深刻なのは、孫や子どもが放射線から逃れるため他県に引っ越したことをきっかけに、抑うつ的になり認知症が一気に進行するケースです。

■不安を抱えられる地域社会に

住江 住環境の整備・改善は最優先課題だと思いますが、阪神・淡路と比べて災害復興公営住宅の整備が東北3県では進まず、依然として多くの方々が仮設住宅で生活していると聞きます。

 阪神・淡路のときの調査で、自宅が全壊・半壊・一部損壊だった方を比較すると、PTSD(外傷後ストレス障害)の発生率に明確な有意差が出ています。PTSDは生活が安定してくると自然寛解しやすいとも言われており、まずは被災者の生活再建が最優先課題です。
 住環境の問題も含め、先ほどの「三つの不安」を地域社会・コミュニティーの中で抱えきれないと、「ここに留まる限り不安は解消されない」と感じ外へ出ていかざるを得なくなります。もちろん、地域を出て暮らすことは必ずしも悪い選択ではありません。ですが、私たちとしては、地域に残り一生懸命被災地で働き生活している人たちの、不安を抱えることのできる地域にするために、貢献したいと思っています。
 同じ目線で関わりを促進しながら基本的な信頼関係をつくり、被災者の心の安定・回復を図ることを目指しています。住民と病院スタッフによる朝のラジオ体操など、できることから取り組んでいます。

住江 地域の不安を抱えるという点で、精神医療を提供する雲雀ヶ丘病院の存在は大きいですね。

 時代・地域を問わず、統合失調症のような精神疾患は人口の約1%の割合で発生すると言われています。地域で生じる不安の底を支える精神科病院があることは、住民が地域で暮らしていく上での安心・安全につながり、とても重要だと思います。

住江 医療費の窓口負担免除・軽減を原発被災者だけでなく、より幅広い被災者に適用すれば、安心して医療機関にかかることができ、平常時の医療ニーズの充足も望めます。被災地医療に奮闘されている堀先生の発信は、私たちにとっても極めて貴重です。保団連も、訪問活動を継続して被災地の状況を全国に伝え続けていきます。
 本日はありがとうございました。


■堀 有伸(ほり・ありのぶ)
雲雀ヶ丘病院副院長。精神科医。1972年東京都生まれ。97年東京大学医学部卒。2001年同附属病院精神神経科助手。08年帝京大学医学部附属病院精神神経科助手。12年福島県立医科大学災害医療支援講座助手(特任助教)。同年4月より雲雀ヶ丘病院勤務

■雲雀ヶ丘病院
1956年開設。大震災発生時は4病棟254床で約190人の患者が入院。震災で全入院患者を県内外の他院へ転院させた後、3カ月間休院。2011年6月下旬から外来を、翌年1月17日から入院を再開。現在は急性期病棟と認知症病棟の各60床・2病棟。福島県立医大災害医療支援講座からの派遣医師も含めた4人の常勤医と、週末や当直の非常勤医師らがいる。震災直後の患者の転院などに奔走した、県精神病院協会会長でもある熊倉徹雄氏が今年4月より院長に就任。熊倉院長を先頭に、精神医療の提供を通じて地域の復旧・復興に取り組んでいる。

(全国保険医団体連合会発行 全国保険医新聞 2014年7月15日付掲載)