2011年9月12日月曜日

現地レポート38 西宮市・広川恵一先生より

いわき湯本<ほっと一息コンサート>・<健康相談>と
仙台・宮城協会事務所にて<鳥の海歯科医院>上原忍歯科医師との懇談

兵庫県保険医協会 西宮芦屋支部
広川内科クリニック 広川 恵一

 今回の目的

     
  • いわき・湯本での被災地コンサートと健康相談(健康と医療を語る会)の実施
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  • この経験を今後の被災地でのコンサート・健康と医療を語る会につなぐ
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  • 亘理・鳥の海歯科医院の上原歯科医師に企画内容を説明し被災状況のお話を伺う
 
 

 8月20日・21日はいわき湯本での福島協会の協力を得て<ほっと一息コンサート><健康相談>のとりくみと翌日宮城協会事務局での亘理・鳥の海歯科医院の上原忍歯科医師との懇談を行いました。

 参加は兵庫協会から清水映二研究部長と黒木直明次長。福島協会から木村守和理事・緑川靖彦医師、菅原事務局長、保団連から取材に工藤事務局員。

 私は午前の診療をスタッフの協力を得て早々に終えて、午後1時前に新大阪駅で奏者の劉揚夫妻に合流し現地に向かいました。湯本駅では女将が黒木次長と一緒に車で迎えに来てくれました。

 劉揚は阪神淡路大震災では中国人留学生の民族音楽集団<長城楽団>で各所の避難所・仮設住宅でのボランティア演奏を続け、その後も協会西宮芦屋支部で震災1年・10年・15年メモリアルで長きにわたって協力してくれています。

50人が参加し二胡の演奏に心を和ませた
 <ほっと一息コンサート>は午後7時から8時半まで行われました。この日は地域の盆踊りと重なってしまい参加者は避難生活をしている人20数名を中心に50名。このネーミングは青森協会の<ほっと一息プロジェクト>から借用したものです。


 受入はいわき・湯本<新つた>で原発事故現場から49kmで事故現場から国内の温泉地としては一番近いところにあり、緊急時避難準備区域に指定されているおもに広野町からの人々の避難所、原発関連・仮設住宅関係の人たちの受け入れ施設となっています。旅館協同組合の28軒ある旅館が避難所・震災関連の宿泊施設となり休館状態で営業再開の将来の見通しがもてない状態が続いています。地域の人々はあとで触れるように十分な情報がない中で被曝の不安を大きくもって生活されています。このたび会場を快く提供していただき受け入れてくれました。

 <新つた>は野口雨情の常宿宿また美空ひばりもときどき利用していたということで、雨情のメドレーや美空ひばりの<川の流れのように>は参加者だけでなく旅館の女将・ご主人・スタッフの喜んでもらえるところになり、ご主人がおばあさんから聞いた雨情の話やひばりの思い出など聞かせてもらいました。



健康相談では被災地の深刻な不安が寄せられた
  <健康相談>では別室にコーナーを設け、血圧の測定や発作性頻拍の相談などがありました。同施設で避難していて、母親が老衰で亡くなられ、その日、葬儀があった(そういうこともあってその日<新つた>は朝からとてもあわただしい日となっていました)60歳前後の息子さん夫婦が演奏会に来られていて、女将からそれを聞き、私がお悔やみの声をかけたところ相談されました。車の運転の仕事をしていたが津波で会社がなくなり失業中。かかりつけの医師から胸の下側に丸い影が見つかったのでCTを撮るようにいわれているが怖くて行けないということ。木村医師はかかりつけの医師をよく知っていて安心して先生のお話しの通りするようわかりやすく説明してくれました。

 もう一人の40才代の女性は子どもたち二人が離れたところの学校に行っているのだけれどいまの状況で戻っておいでと行ってもいいものだろうかという質問がありました。何よりも正しい情報が示されていない事からの不安です。すべての人たちがもっている不安で湯本にも線量計が自主的に設置されモニターされています。
 原発事故責任をとらせること、正しい情報が責任もって提供されること、健康管理が国の責任で行われることが大切と考えられます。具体的な対象や内容は早々に詳細に決定される必要があります。福島はじめ広範な被災地域には世界に情報の発信と共有をはかり国と自治体の地域住民の健康管理と治療の完全責任を果たさせる役割があると思われました。

 演奏会・健康相談が終わって、午後9時から夕食をとりながら当日を振り返りながら奏者も交え福島協会の先生方と話し合いました。日常診療では在宅医療・緩和医療・病院から診療所への病診連携など難しさなどどう解決していくかそれぞれの経験や思いを語り合いながら、今回の津波被害と原発被害について話がすすみました。午後10時半には木村先生・緑川先生は翌日の研究会の講師などあり戻られ、あと5人での話が続きました。菅原事務局長が協会に勤務した1983年に当時の桐島会長の発言が協会活動のあり方の基準になっているという言葉にうれしく思い話が弾みました。

 翌日は午前6時に朝食、7時過ぎに菅原事務局長の運転で福島に向けて出発しました。劉揚夫妻については女将が午前中、市内とそれぞれちょうど1ヶ月前から再開が果たせた<いわき石炭化石館・ほるる>・<アクアマリンふくしま>に案内してくれました。今後阪神淡路大震災でボランティアワークしてきた人たちをはじめ多くのアーチスト達の被災地でのイベントがさらにひろがることと思います。車中ではわれわれは菅原事務局長から福島の状況・課題について詳しくうかがうことができ同じく今後の交流の拡がりの可能性を感じることができました。

 午前9時40分には宮城協会に到着。日曜日にもかかわらず野路事務局長・事務局の方が準備してくれていました。ちょうど10時に上原先生がこられお話しを伺いました。上原先生には10月30日の兵庫県保険医協会・日常診療経験交流会に前日から来ていただくことになっておりその企画内容の打ち合わせと被災状況と現在の状況についてうかがうことが目的でした。

 上原先生の医院は海岸から1kmのところにあり3月11日地震のあと、津波がくるとの警報で患者さん・スタッフを帰宅させたあと、2階で後片付けをしていると、あっという間に2階の高さまでの津波の直撃を受け、1階の診察器具・諸機器・パソコン・カルテ・書類はあっという間に押し流されてしまい、人や車が流されていくのが目に入り一時は覚悟したとのことですが、1階部分は鉄骨で建てていたので奇跡的に助かることができたとのことでした。
 津波は7km内陸まで到達し、水が退かず翌日漁船の人のゴムボートで中学校の3階に避難し、その翌日自衛隊のヘリコプターで隣の岩沼市に脱出し、そこから歩いて25km離れた仙台の娘さんのお家にたどり着かれたとのことです。そのあとも地区歯科医師会・会長の役割で安否確認や死体検案に参加されています。
 幸いなことにご家族もスタッフのみなさんも無事でしたが診療所は全壊判定を受け、これまで蓄積してきた研究の記録も流されてしまい、今後の診療再開をさまざまに考えられながら、生かされたという思いの中で被災地の人々のために尽くしたいという気持が自然にわき上がり、別の地に仮設診療所を建て9月7日から診療を再開されることにされました。
 上原先生と1時間半ばかりお話ししてお別れしてから、私自身これまで避難所を二回にわたって訪問した亘理に向かいました。東部自動車道からみる海岸部はまだ土地は黒っぽく枯れて茶色になった草が残り一部に損壊した車がまだ散見されましたが新しく緑もひろがりをみせ5ヶ月の時の流れを感じさせてくれました。汽水胡の鳥の海の周辺は瓦礫が山積みとなっており、近くの上原先生の医院とその周辺をみせていただきましたが津波の激しさを今も残しています。

 亘理から近くにある仙台空港から帰路につきました。この度も被災地で静かに被災地に向き合っている医師達や多くの人々に出会いこれからの日本全体の災害対策に心を寄せ合っていく思いをつよく持つことができ、兵庫協会の震災対策のとりくみに少しでも役立つことができればと思った次第です。