2012年5月19日土曜日

現地レポート41 長光由紀先生より


 協会薬科会員・長光由紀先生(伊丹市・ウイング調剤薬局 管理薬剤師)から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
 同行した廣川秋子氏(西宮市・広川内科クリニック・看護師)の訪問記は現地レポート42を参照いただきたい。

2011年3月11日 東日本大震災そして福島原発事故
被災地を訪ねて・・2012年3月20日21日


 震災直後から兵庫県保険医協会の活動として被災地にかかわり現地の状況を伝えて下さった広川恵一医師の個人的な被災地訪問に今回同行し、板倉弘明薬剤師、廣川秋子看護師とともに、岩手県、宮城県、福島県の被災地を訪ねました。
 雪の積もる花巻空港から3月20日午前10時前レンタカーで出発。岩手県大槌町を目指しJR釜石遠野線と併走する国道283号線を進みました。その後遠野市から六角牛山(1293m)を頂く雪の峠道を板倉薬剤師の運転で雪ぞりに乗っているかのように下り、栗林小学校付近で初めての仮設住宅群を車窓に見て釜石市へ。県道35号線を進み大槌町へ入りました。
 川沿いの道から太平洋側へ。映像でしか見ていなかった津波で流された三陸海岸。多くの方々が生活を営まれていた町並みは消えてしまい、まだまだがれきの残る広い空間となってしまった海までの景色。言葉が出ません。阪神・淡路大震災の時は「復興」という兆しが見えていた一年目。一年が経った東北では、まだまだとても厳しい状態で被害にあった場所での家の再建などは難しいのだと感じました。
 午前11時40分ころ昨年10月開催の兵庫県保険医協会日常診療経験交流会にお招きした植田先生の旧医院あたりへ到着しました。22mもの高さの津波が押し寄せた地域のガレキの多くは片付けられていましたが、阪神・淡路大震災の時のようにアスファルトの舗装道がむなしく区画を割っているだけの復興とは程遠い状況でした。続けて高台の小槌地区に開かれた仮設の植田診療所を訪問。植田先生は墓参で外出されておられ、お会いできなかったのですが地域の患者さん達に必要とされている診療所は地元の方々の好意と支えで開かれたとのことでした。横にはきちんと仮設の調剤薬局も建ち、在宅訪問のための薬局の車も止まっていました。これからもこの地が先生方の地域のための医療拠点となるようでした。
 午後0時45分大槌町を出て、錆びた三陸鉄道の線路を見ながら国道196号線を陸前高田市へ向かいました。移動時間が長いので時間節約のため昼食は道の駅「さんりく」で調達した簡単なものを車中ですませました。午後2時過ぎに被災した県立高田病院に到着。パワーショベル車が3台だけ頭をたれて止まっていて人影は見当たりません。5階建ての病院建物はそのままの状態で、近くの5階建ての職員寮も4階まで津波に襲われた跡がくっきりと見えました。患者さんを守った屋上の機械室。寒さに耐えながら助けを待たれた屋上。震災の日にここで亡くなられた患者さん、職員のことを思うと建物のそばで涙が出そうでした。その後山あいに建てられ、ようやく病棟も稼働し始めた仮設の県立高田病院へ。コンパクトながら診察室が並び、受付・処方箋お渡し口・薬局へのFAX無料送信コーナーのそろった待合室。小道をはさんだ山沿いには門前薬局も2軒並んでいました。奥様を津波で亡くされながらも病院の医療チームを守り、地域のための診療を続けられた石木院長先生の気迫が伝わってきました。
 その日は福島県いわて湯本温泉で泊まるため東北自動車道より磐越自動車道へ。福島第一原発に一番近い29軒のホテル、旅館がある日本三大古泉として由緒ある温泉郷です。東日本大震災の影響で湯質が変わったり建物の被害があったとはいえ一番大きいのは風評被害で、お客様は来なくなり原発工事関係者が泊られるのみとなっています。その中で古く「シャボン玉」等の童謡で有名な野口雨情が定宿としていた「新つた」は震災時より広野町をはじめとして多くの被災者の方々を受け入れ避難所となっていました。福島保険医協会と兵庫県保険医協会は協力してその玄関ホールで健康相談を行い劉揚さんによる二胡コンサートを被災者の方々に楽しんでいただいた縁があったので今回宿泊させていただきました。訪問直前(3月17日)にリニューアルオープンされた「新つた」は、唯一の旅館として一般のお客様の受け入れを再開することを決め食事にも工夫を加え、逆境に立ち向かおうとされていました。到着時間を決めることができなかった為、夕食は原発事故被災の浪江町より避難されてきた人が手作りではじめた「浪江そば」のお店へ。案内して下さった「新つた」の女将さんの苦しい胸の内は温泉郷全体の声なき声を代表するもので地震被害だけでなく原発事故の地域へ及ぼす今後の影響の重大さを物語るものでした。特に他のホテル・旅館はまだ原発工事関係者の受け入れでなんとか維持されているところ、一般客への営業再開を果たした女将さんの一番つらい点の一つだと感じました。
 翌21日 女将さんと別れを惜しみつつ、市内の常盤会病院訪問へ。震災時には透析患者さんをいち早く新潟県の病院へ搬送(「新つた」も依頼を受け搬送時の布団を提供された)して、水不足の危機を逃れ、事なきを得たそうです。今回訪れるとりっぱなPET透析センターができていて、患者さん達が多く受診され地域の支えとなっていると感じました。原発事故の影響がなければ温泉地として賑わっていた町、いわき湯本。どうなっていくのでしょうか。JR湯本駅近くの化石館(残念ながら月1回の休館日でした)の前には恐竜像が立っていて石炭を過去のものとして原子力発電に向いてしまった人類を笑っているかのように見えました。
 その後 原発事故の警戒区域にかかるため国道6号線が通れたら30分ほどで行ける距離を、わざわざ東北高速道路経由で大きく迂回し3時間近くもかけて大町病院のある磐梯山を望む南相馬市へ入りました。途中放射線の影響をさけて全村避難をしている飯館村を通過。沿道の家々の窓のカーテンが全て閉められ、人っ子一人見かけない村はのどかな高原風景の中、物悲しいものでした。途中では村を守っている警官とポニーを一頭見かけただけでした。この地に再び村民の方々は戻ってくることが出来るのでしょうか。
 ようやく到着した大町病院ではお忙しい中、猪又院長と藤原看護部長から震災時の病院の様子、その後のボランティアの皆さんの活躍についてプレゼンテーションをしていただきました。原発事故の影響で避難された多くの方々には看護師さんも含まれ、現在震災前の約半分の人員で業務を行われているそうです。震災翌月に業務を再開すると猪又院長が決断されたおりには、全ての物資の流通が滞っている状況でした。患者さんへの薬の提供にあたり、以前より連携されていた地域の薬剤師と協議され医薬品確保の為の卸業者さんの流通も考えて7日分ずつ院外処方箋を発行するということで再開されたそうです。しかし同地区の他の病院がそれぞれの門前薬局が震災の影響で閉店したままだったのに、同じ日に28日分処方の院外処方箋発行をはじめたため大町病院前の薬局に処方箋が集中し、全ての患者さんに薬を渡すのに深夜までかかるという大変なことになってしまったというお話をうかがいました。それをきっかけとして地域全体の薬局薬剤師との交流がより深まり、現在も地域の住民もまじえ色々な行事を開催しているということでした。医療の地域貢献には全ての医療に携わる職種の方々の協力なくしては成し遂げられないということを実感しました。そして地域の患者さんではない住民との交流も盛んに行われ、支えていただく体制を作っていく大町病院の底力を見せていただきました。
実は南相馬市の沿岸部は津波でも被災しています。大町病院の介護施設「ヨッシーランド」は入所者の内36名の方々が亡くなり現在も1名の看護師が行方不明だそうです。まだ建物がそのままで中を見せてもらいました。付近は砂浜のようになってしまい 風が吹き荒れ砂塵が舞っていて窓ガラスのなくなった窓からカーテンがむなしくバタバタと手を出しているようにはためいていました。多くの花束が今もたむけられ、わずかな違いで運命を分けた自然の威力に言葉がありませんでした。
 「相馬野馬追」祭りが開かれる時にはその沿道が多くの観客で埋まっていたという国道を仙台へ。途中の店で聞くところによると今までは地元産の牛乳使用ということで人気だったアイスクリームに北海道産牛乳使用と掲げないと売れないと嘆かれていました。たとえ放射線の数値が下がったとしても原発事故による地元の方々の苦しみは癒えないままです。途中盛り土の上に作られた自動車道の右と左では全く違う世界が広がります。海側は津波に襲われた水浸しの世界、山側はのどかな田園風景。非情な運命はなんと表現すればよいのでしょうか。この盛り土が偶然防波堤となったのでした。仙台空港では返却に寄ったレンタカー営業所のスタッフがつぶやかれました。「自然はすごい、潮水につかったのに仙台空港のまわりに今年も緑の雑草が生えてくる。」と。地球の上では短い人類の歴史、もっと長く生き抜いてきた生命である植物にはかないません。
 今回駆け足での被災地訪問でしたが、今後の人生を塗り替えるほど激しく気持ちを揺さぶられました。人間としてこれまで以上に強く生きていき、発揮できていない力を精一杯振りしぼらなければならないと実感しました。また医療者として多くの方々と手を取り合い、弱い立場の方々に手を差しのべることを長く続けるよう努力していきたいものです。
 最後に この機会を与えて下さった広川先生、全行程を運転して下さった板倉先生、ずっと一緒にいて下さった廣川秋子さん、ありがとうございました。