2012年5月24日木曜日
現地レポート42 廣川秋子氏(看護師)より
西宮市・広川内科クリニック看護師の廣川秋子氏から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
同行した長光由紀先生(協会薬科会員 伊丹市・ウイング調剤薬局)の訪問記は現地レポート41を参照いただきたい。
東日本大震災から1年
福島県南相馬市大町病院を訪れ看護師として感じたこと
2012年3月21日、福島県南相馬市の大町病院を訪れた。大町病院は、前年に起こった東日本大震災と原発事故により、一時活動停止を余儀なくされるも同年4月4日いち早く診療を再開した病院である。猪又病院長、藤原看護部長より復興への軌跡というテーマで、震災後一年の経過を聞かせていただいた。
大町病院はもともと188床を有していたが、2012年3月現在稼働しているのは3分の1の60床ほどである。その理由の一つには看護師が不足している実態がある。震災に関連する事象により不本意にも現地を離れなければならなかった看護師もいる。病院が稼働を始めたあと、看護部長はそういった看護師を訪問し復職を呼びかけたそうである。現実的に復職が困難な看護師もいたが、直接看護部長が足を運んだということからは、震災によってこれまで一緒に働いてきた関係が絶たれるものではないのだという強い結びつきを感じることができた。一方で、当初原発から30㎞という地点でその影響もわからない状況下、復職を呼びかけること自体に大きな葛藤があったことも強く感じる。
現在看護師募集をかけている大町病院では、正規雇用の看護師だけでなく、短時間勤務・短日勤務の看護師も積極的に受け入れている。そこには切実な看護師数の不足とともに、柔軟な病院側の受け入れ態勢がある様子がわかる。震災直後より医師や看護師、地域住民、ボランティアなど多くの人が出入りし、病院が主体となって力を合わせてやってきたことが人を受け入れる態勢作りと自信になっているように感じられた。
藤原看護部長はこの一年のエピソードを多くの人の写真や名前とともに話して聞かせてくれた。それぞれに疲弊した中で支え合って乗り越えてきた当時の状況と、これまでに築かれてきた他医療機関との連携と震災以降の新たなつながりをもって、看護師を含む様々な職種で各地から応援があり、またその経験や呼びかけが情報発信され応援の輪が広がっていく様子がまざまざと伝わってきた。津波の爪痕が1年経ても残る周辺状況からは震災以降の変化が感じられにくい一方で、この一年で病院が機能を回復してきた過程と、暮らしの中で刻々と変化してきた状況や思いを痛感することとなった。
震災直後より患者移送に関しての手配や関連機関への応援要請、また病院再開への決断などにおいて、院長がトップダウンで現場を指揮されたことも、即断即決で物事を進めていかなければならない中で、トップが強く方針を打ち出すことが関わる多数の人間を結束させ同じ方向に導く基盤となっていたように感じる。そのリーダーシップがあったことは、個々の状況判断が求められる中でも、病院機能の回復という大きな目標の中でスタッフを孤立させずにそれぞれに役割と責任を与えることになったと思う。その役割を支持されることは、現場の看護師にとって周囲の状況が変化しても目の前の事象に集中して取り組むための土台となったのではないだろうか。
震災によって既存の仕組みが破綻した状況下で、生命と生活を最優先に奮闘した大町病院は地域の病院としてその存在を示した。看護師は混乱の中で試行錯誤しながら臨機応変に目の前の事象に取り組み、その経験の積み重ねで柔軟な看護を作り上げてきた。多様な看護師の受け入れ態勢からみえる自信もこの経験によって裏打ちされたものだと感じる。大町病院はまさに実践を通して看護師が獲得した知恵や経験が生かされてきた現場であると感じた。今回の大町病院訪問を通して、看護は実践の中で獲得されていくものなのだと実感するとともに、その体験を伝えていくことも看護師としての役割であると気づいたことは大きな学びであった。
この度貴重な時間をいただき震災一年の軌跡を聞かせてくださった猪又病院長、藤原看護部長に感謝いたします。