2013年1月29日火曜日

現地レポート44 12/22~24被災地訪問参加記1

 昨年12月22日から24日にかけて、協会の川西敏雄副理事長、広川恵一理事、伊賀幹二理事らが岩手、宮城、福島の被災3県を訪問した。22日は岩手県立高田病院の石木幹人院長、被災地支援に取り組み続けている青森県保険医協会の大竹進会長らと懇談。被災した高田病院の現状と、青森協会の大間原発建設反対への取り組みなどを交流した。23日は岩手県大槌町の植田医院、県立高田病院、宮城県気仙沼市の赤岩牧沢テニスコート仮設住宅、福島県南相馬市の大町病院を訪問。現地で奮闘する医療関係者やボランティアらから話をうかがった。伊賀理事と川西副理事長のレポートを掲載する。

参加記(1) 自分の目で確かめた被災地の現状
西宮市  伊賀 幹二

 3・11原発事故後の福島の状態を新聞やテレビで見聞きすることは多い。原子力問題を考えると、どうしても福島やその他の被災地の状況がどうであるかをこの目で見たいと思うようになった。
 私の関与するメーリングリストなどでいろいろと知り合いのつてをさぐった。しかし、土地勘がない私が一人で福島に行っても「広すぎて何もわからない」のでは、との否定的な意見を多くいただいた。どうしようかと思案しているときに、保険医協会が震災地を訪問する計画があることを知った。福島限定ではなかったが、「渡りに船」とはこのことですぐにお願いした。テレビでみたあの風景は、自分の目で見ればどんなだろうか? 実際に見てみるとどんなことを感じるだろうか?
 12月22日夕方に伊丹空港から花巻空港へ、翌日は車で釜石市、大槌町を通って、陸前高田市、気仙沼市を訪れた。気仙沼では仮設住宅をケアしている人たちと懇談し、5人のメンバーのうち私は、23日の夜に西宮に帰った。

岩手県立高田病院の石木幹人院長(右2人目)、
青森協会の大竹進会長(同3人目)らと懇談(22日、盛岡市内)

 22日の夜には青森協会の大竹会長と、被災した県立高田病院の石木院長と会談した。津波の当日、高田病院が孤立したのはテレビで知っていた。しかし、実際にそれを体験した人から、当時の話をうかがい、また翌日に現場を見せていただいて、テレビとはまったく違ったものを感じた。
 被災直後、病院は多くのボランティアを受け入れた。いや、彼らに来てもらわなければ病院運営はできなかったという方が正確かもしれない。しかし、ボランティアに来られたほとんどの人は、いろいろなことを教わり何物にも代えがたい貴重な経験をさせてもらったと言われ、一方、ボランティアを受け入れた病院側の人たちも、ボランティアの方から学べたことも多かったとのことであった。彼らとの懇談の中で、卒後の地域医療研修枠として被災地の地域医療研修を1カ月義務にすべきではないかという話におよんだ。
 翌日に、すべてが破壊された町を見ると、石木先生の、被災地の人はまったく希望を持てなくなっているという話も納得できた。コンクリートの基礎のみ残している広大な古代遺跡のようにみえた。例外的に残っていた鉄筋コンクリートの建物でも、1〜2階は完全に破壊されていた。訪問した町はすべて同様であり、例外なく破壊されたことを理解できた。涙が出そうになった。
 地元で餅を作っていた両親が津波で死亡された後に、その娘さんに「がんばってまた作れ」といってもできない。餅米を、餅つき道具を準備して、そしてお客さんを紹介して初めて一歩前に進める。希望をどうやって持ってもらうかという話もあった。
 広々とした土地をどう再生させるかはリーダーシップを持った行政の青写真なしには不可能である。私たちは、日本人として、同じ人間として、東北の状況を自分の目で見たり、東北の産業の顧客になることで彼らの背中を少しは押せるかもしれない。
 西宮に帰ってからテレビで放送されている東北の番組に、訪問する前とまったく違った感情を持って見ている自分に気がついた。



参加記(2) 仮設所から垣間見える日本福祉の未成熟
中央区・歯科  川西 敏雄


 3日間の詳細は伊賀理事の記事に委ね、このレポートは2点に絞り込みます。

(1)赤岩牧沢市営テニスコート仮設住宅(宮城県気仙沼)

赤岩牧沢テニスコート仮設住宅で古屋聡先生や
ボランティアの人たちと懇談(23日、気仙沼市内)
気仙沼市自体が、過去から地域的に岩手県と宮城県との行政の狭間にあったという経緯が、今回の訪問で判明した。同行した井上博之宮城県保険医協会副会長ですら数十年ぶりの訪問であることから、ご本人も地元ながら認識を新たにされていた。その流れの中で、当仮設住宅も自治体の狭間での苦労を味わっていた。
 当日の施設側のメンバーは、ボランティアの村上充氏、住民で民生委員をつとめる小野道子氏、訪問看護師の菊池優子氏、山梨市立牧丘病院院長の古屋聡先生。
 特に民生・児童委員である小野氏は、せきを切ったように現状を語られた。仮設建屋自体が寒冷地用でなく、結露のため室内はカビだらけであり、同じく便器も水道管も寒さ(マイナス15℃になる時もあるとか)で破損し、おまけにその修理費は自腹であること。高齢者が多く亡くなった際に身寄りがないため、葬祭費など委員が自費負担しており、自分も年金生活でさすがに金銭的にはもたないこと。精神的な安心が欲しい...などなど。
 以上のような窮状を救うのが自治体であり国の責務であるが、今日までも住民のためという立場で動いているとはいえなかった国の福祉行政の問題が、ここに凝縮していると感じられた。

(2)福島第一原子力発電所帰還困難区域

 去年(12年)4月、同発電所災害対策本部は汚染地区を3区域に見直した。今回は旧警戒区域20㎞付近の地域、特に浪江町の海岸線を中心に訪問した。
 道路の整備・がれきの処理・破損した防波堤の仮修復など最低限の対応はされていたが、多くの家屋が全壊・半壊のまま放置され、復旧すらままならない状態であった。
 しかし同地区での空気線量は0・1μシーベルト毎時と決して異常に高いわけでなく、放射能汚染の複雑さ、そしてその対策の難しさを改めて認識できた。

まとめ

 「被災者はその地域での対応を、自分たちで考えることが筋である」という考え方はあるが、兵庫県保険医協会は東日本大震災発生以降、迅速かつ強力に今日まで支援活動を続けてきた。協会第948回理事会(2011年12月2日)は、「東日本大震災被災者並びに福島原発被災者の医療費負担免除を復興終了まで延長し、対象を抜本的に拡大すること」という理事会声明を発している。
 今回、広川団長は、地元・宮城協会の井上副会長に同行いただくという卓抜したアイディアを用意していた。ボランティアに手慣れておられ、さすがと感心させられた。
 最後に南相馬市大町病院・猪俣義光院長の言でまとめる。
 〝政治よ もっと迅速にもっと大胆に〟