阪神・淡路大震災―東日本大震災
被災地訪問と今後の課題(上)
理事 広川 恵一
1995年1月17日 阪神・淡路大震災
震災から19年後の1月17日、知人から当時の日記・記録が届けられた。
書いた本人もそれをあとでみることになり、初めてそんなこともあったのかと驚いたとのこと。この日は、意識せずともあらためて語り合い伝え合い風化させず語り継いでいく一日である。
2011年に西宮・芦屋支部で行った「阪神・淡路大震災15周年の集い」での関西学院大学の室崎益輝教授、県災害医療センターの鵜飼卓顧問、日本福祉大学の金持伸子教授による講演記録と、当時のボランティアの寄稿とをあわせて、16年目のメモリアルにあわせて『被災地での生活と医療と看護~阪神・淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ~避けられる死をなくすために~』を出版した。
その2カ月後に東日本大震災・大津波・原発事故が起こり、出版社からも、震災支援の一環として1000部増刷いただいた。
阪神・淡路から引き出される課題
この本の中にも示されているように、多くの言葉が被災地の中で語られた。
「(ボランティアがニーズがないと断られるような現状に対して)『ニーズがない』ということはニーズを見いだす力がないということ」、(ボランティアの医師に「何故被災地に来るのか?」との問いに)「次は私ところですから」、「被災地の全国からの『支援』は被災地(の人々)によって『支援』される」、「異常なときには通常通りしようとすることが異常(たとえば災害時に診察で保険証を求めることなど)」「被災地医療は日常診療の延長線」など。
ここにはそれぞれ被災地を訪問するカギが見いだされる。
たとえば、その一つ、「被災地医療は日常診療の延長線」は、被災地医療を見つめる中で日常診療のあり方がみえてくる。
もともと医療過疎地・診療科目偏在があり高齢者比率の高い被災地にあって、その医療課題はどの地域にあっても社会・社会保障のあり方と診療のあり方を考える上で共有する課題である。
また「次は私ところですから」は東京・中村洋一医師の言葉であるが、一言ながら相手の気遣いを和らげ、お互い共同のとりくみとして、絶えず災害に心して望むという課題意識・心意気が伝わってくる。
2011年3月11日 東日本大震災・大津波・原発事故
被災地の課題は、時間の経過とそれぞれの地域の状況・被災内容によって変化する。
協会からの、私の被災地訪問は、東日本大震災震災・大津波・原発事故から10日目に始まる。
池内春樹兵庫協会理事長からの依頼をいただき、大阪府保険医協同組合の協力を得て薬剤を選定し、保団連からそれを届けるべく、宮城協会に訪問を行った。山形空港を経由して現地では和歌山協会の小野田幸男理事・上野佳男事務局長と合流し、ともに混乱を極めた避難所の訪問。帰路は、事務局の横山、足立の各氏と3人で車での神戸(西宮)までの移動であった。
あれから2年10カ月。被災地の生活の場は避難所から仮設住宅へと場所を移しているが、その仮設住宅も先が見えない。
大槌町も陸前高田市は多少の盛り土は始まったが、地元の人たちに聞くとまったく変わっていない。防潮堤をという声も聞かれるが、仮設に住む人たちは、それよりも何よりも、「一刻も早く安心して住める家を」という気持ちが強い。三陸鉄道再開を願う声もあれば、54号線など高台を走る安全な輸送ルートを求める声もある。
原発事故周辺地・ホットスポットではどうしようもない現実と不安があり、日々生活が脅かされる現実がある。「遠方に出ている子どもたちに帰ってこいと言っていいのでしょうか」という相談がある。
また、それを世界史的事件に立ち会ったととらえて、正確にデータをとり、自分たちの生活やこれからの日本や世界に役立て残そうという動きも聞く。
地域・人をつなぎ、学ばせていただく被災地訪問
訪問では「受け入れていただく」「学ばせていただく」「関わらせていただく」。お互いの関係は双方向性であり、「支援」という概念はない。
訪問日は休日が主となるが、現地の方々には貴重な時間であり、たとえ「今日はボランティアの日ですから」とか「日直ですから」と言われても、それを心すること、平日でも同じことで、貴重な時間をとっていただいていること、その思いをきちんと持つことが大切なことである。
これまでに訪問してきた医療機関、ボランティア組織、(旧)避難所と仮設住宅のある地域は、北から宮古、大槌、大船渡、陸前高田、気仙沼、千厩、藤沢町、東松島、仙台、亘理、南相馬、そしていわき・湯本である。
訪問先では受け入れていただいたことに礼を尽くして、何度でも訪問し、そして新たに訪問先を加えることを心がけている。
被災地協会とは、事前に保団連、各協会に連絡して同行・協力、企画の際には共催の依頼を行い、事務局だけでなく私からも直接相談や連絡を行うようにしている。
移動の安全のため、公共交通機関をできるだけ使い(冬期は凍結・積雪のため内陸部の花巻~盛岡~宮古・大槌・陸前高田間)、沿岸部の移動はレンタカーで事務局スタッフによる運転で安全を心がけるようにし、一台に乗れる人数としている(12月の訪問でははじめて2台での移動)。
参加メンバーは訪問ごとに交代しながら継続し、新たに参加してもらうよう工夫している。今後は責任者の交代と各地域ごと交代しながらの担当が必要となる。
企画として、医療相談を行い、地域からのニーズで西宮・芦屋支部に関わりある演奏家によるコンサートを開いた。「いま仮設にはそのような時間が大切で、いろんな人たちを連れてきてくれるのでとてもありがたいです」と地元の方々からそのような言葉をいただく。
一回の訪問での走行距離は400~500キロメートルで空港でも待ち時間があり、移動中がお互いの情報の補完、感想やまとめの時間となる。
12月の訪問時には、22日は午前6時20分に盛岡宿舎を出て、午後10時に気仙沼の宿舎に入るまで、宮古の後藤泌尿器科皮膚科医院・河南仮設住宅・高浜仮設住宅、大船渡の越喜来甫嶺地区仮設住宅、陸前高田の朝日のあたる家・子ども図書館、気仙沼の五右衛門ヶ原運動場仮設住宅・赤岩牧沢テニスコート仮設住宅と、8カ所を訪問。まとめを行いながら移動を行った。
(下につづく)