2017年11月6日月曜日

声なき声を届ける仕事

 2017917日から18日の間、東日本大震災被災地訪問事業に参加させていただいた。初日は宮城県気仙沼市にある仮設住宅の「水梨コミュニティー住宅集会所」を訪問して、現状をお聞きした。そこで高齢者の医療サポートをボランティアで震災以降続けている村上充さんとお会いし、気仙沼市の医療の現状を傾聴した。気仙沼市は医療圏が広く地域高齢者の受診控えが問題となっている。村上さんはいわゆるこれらのサイレントマイノリティに光をあて、無償で高齢者の診療の付き添い事業等を行なっている。気仙沼には基幹病院が市民病院しかない。このため診療が必要な気仙沼の高齢者は国民が自分の判断で自由に医療機関を選択できるフリーアクセス権が行使できない状況にある。
 国は震災医療対策として補正予算を組み、第1次補正予算として、医療・介護・障害福祉の利用料負担・保険料軽減措置に1142億円、仮設診療所等の整備に14億円、医療施設等の災害復旧に906億円、保健衛生施設等の災害復旧に13億円、社会福祉施設等の災害復旧に815億円、 福祉医療機構による医療施設・社会福祉施設等に対する融資に100億円が計上された。これらの災害支援政策はポプレーションアプローチとしては間違っていないが、サイレントマイノリティには、その政策は届かない。このギャップを埋めるのは、草の根運動である市民活動になる。
 2011311日に震災が発生した当時、筆者が関西労災病院勤務時代に労働者福祉機構より災害派遣医療チームの一員として仙台市の若林地区に派遣され、避難所の公衆衛生管理を行ったことがあった。震災直後の避難所は一般市民により管理され、行政の力は届いていなかった。未曾有の震災においても、日本にはコンティンジェンシー・プラン(不測の事態に備えた計画)が用意されていない。震災の復興においては、その多くが市民の無償の行為によって支えられている。復興の主体は政策ではなく、人の絆である。村上さんの活動はそう訴えているようだった。
 その後夕食を共にしたファミリーレストランにて塩釜市や気仙沼市で活動する、「ライフワークサポート響」代表の阿部泰幸さんと懇談した。災害復興住宅における住民同士のいさかい、社会福祉協議会の内部問題など、実地に活動をしている者にしか知り得ない貴重な経験を教授いただいた。災害支援の本質は声なき者の声をいかに行政に届けるかにある。阿部さんはその一点に活動を絞っている。行政が拾えない様々な陳情が阿部さんのところにやってくる。仮設住宅や復興住宅には問題が山積している。阿部さんは住民の訴え一つひとつを丁寧に傾聴して、関連機関と協力して解決方法を模索している。
 横浜市から定期的に被災地の在宅訪問診療をしている岩井亮先生にもお会いした。現状の医療制度では例え善意であっても、被災地で医療行為を行うのは困難を要する。多くの批判に晒されていても、孤立した高齢者に継続した支援を行なっている臨床医の姿勢と、それを陰に支えている気仙沼の医師会の現状に感銘を受けた。
 翌日18日は、福島県保険医協会理事長・松本純先生と事務局長・井桁さんに、福島県飯館村を案内していただいた。訪れたのは大久保金一さん(1940 年生まれの77歳)の自宅である。 1947 年に飯舘村に家族とともに入植し、以来 2011 年の 東日本大震災まで母親とともに同地区で生活していた。福島第一原子力発電所事故発生後、年老いた母コトさんを連れて避難地区の自宅に戻ることになる。汚染された避難地区において、様々な方とのかかわりから大久保さんは「マキバノハナゾノ計画」を立てる。桜やバラの苗木を植えれば、何年か後には一面に山間に咲き乱れることだろう。そう大久保さんは考えた。大久保さん宅には海外の取材クルーや大学の研究機関がよく訪れる。汚染された土地に住み続ける姿に、訪れたものは何を投影しているのだろうか。

 奉仕とは、報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう。震災支援における人々の取り組みは奉仕の枠組みを超えた「助け合い」「お互い様」地域の共同体意識から発生している。キリスト教に端を発する「慈善」(charity)という考え方とは異なる。震災に対する東北の方の無常観、共同体意識から発する「助け合い」の精神、これらの清廉な思想を震災支援の現場からは学ぶことができる。派遣させていただいた保険医協会に感謝を申し上げたい。

【西宮市・医師 林功】

2017年9月26日火曜日

2017年9月の被災地訪問

2017916日~18日。兵庫協会の継続事業である、東日本大震災被災地訪問事業に参加した。被災地の方々と、今までに築かれた交流の新たなる発展と課題を見つけ出すという目的が、出発前から課せられていた。
個人的には、毎日懸命に地域社会で、歯科医師として、他職種の方々と連携して、医療・介護・福祉に従事していることを、被災地訪問で生かすことができるかどうかを、自問自答しながら参加した。日常生活のありのままの、自分が、被災地でも同じ課題に遭遇するのでないかと予感しながらの3日間であった。
 初日の16日(土)。八戸市に集合して、3日間の事前の行程の確認と、参加する目的意識の確認、今までの事業の経過と問題点を、広川先生が説明された。
17日(日)、午前6時30分に、八戸駅を出発して海岸沿いに南下した。最初に訪問したのは岩手県田野畑村にある宝福寺。2年前の2015年9月19日にご逝去された、開拓保健師、岩見ヒサさんの3回忌に、偲ぶ会が執り行われており、お参りをした。岩見ヒサさんは、同村に持ち上がった原発招致の反対運動を先導された。多額の補償金にも揺れることなく、終始一貫原発招致に反対を貫いた人生を、村で全うされた。3年前の訪問した時に、直接お話をお聞きしたが、お亡くなりになり、ヒサさんの一貫した生涯は、やはりすごく偉大な功績だったんだと、思いを新たにした。
 田野畑村を後にして、宮古市、三陸海風を経営する山口様から、今年の不漁の実情をお聞きした。漁業の不振は、岩手県や宮城県でも、深刻な状況が今年の特徴であるという。
 次に、宮城県気仙沼市では、仮設住宅の「水梨コミュニティー住宅集会所」を訪問して、現状をお聞きした。横浜市から定期的に訪問して、入居者の健康を見守る、緩和ケア専門医師、岩井亮先生ともお会いした。さらに、仮設住宅の入居者の自立支援をサポートする、医療施設や介護現場と市役所等の公的相談場所との架け橋で、兵庫協会との交流も5年目を迎える村上充さんとお会いし、塩釜市や気仙沼市で活動する、「ライフワークサポート響」代表の阿部泰幸さんと懇談した。
阪神・淡路大震災後の見落とされた、報道されない現実と似通った詳細な、お話には、今後の問題が山積みだった。現代の日本中に潜在する問題が、明らかに、被災地では、強く顕在化してきていることに気付いた。
 3日目の18日(月)は、福島県保険医協会理事長・松本純先生と事務局長・井桁さんが、福島県飯館村を案内してくださった。
3日間を通して、被災地の状況は、どんどん真実が報道されなくなる傾向にあり、兵庫協会や保団連や、被災3県の保険医協会が、今後も交流を深めつつ、記録を、文章と写真や懇談の内容を公開して、世界中に発信していかなければならない。
絶対に他人ごとで済まない。そして、今後の課題を、医療運動対策として、政府や自治体に請願していくことも必要不可欠である。
しかしながら、冷静に着目すると、これらの問題は、全国規模で顕在化している問題で、医療運動にしやすいのではないか?むしろ、さらに深刻化し、潜在化して見落とされる問題だけは被災地を訪問しないと全然分からないこと、問題が多すぎることを学んだ。今後も、必ずあらゆる場所で伝えていかなければならない。節目節目でのシンポジウムを開催することも必要と思う。
特に、松本純先生は、兵庫県の活動記録にも、目を向けてくださるので、定期的に、兵庫協会にも来ていただいて、講演もお願いしたい。兵庫協会独自の被災地の物産展の定期開催継続も、今まで以上に効果的でかつ被災地との交流が身近となる。
あと3年半で、東日本大震災は被災10年を迎える。全ての記録を、書物にすることも、政府への直訴には有効と思う。被災者の苦しみを公開して、交流を発信するだけでは、上から目線で、人権を共有しているとはいえない。開業医の団体だからこそ、全国民に知っていただき、医療運動対策として、どんな政府であろうが、訴えていくことが可能となる。被災10年には、大きな事業を、被災3県と保団連と兵庫協会が先導して、実現していくことで、後世に受け継いでいかれるものと強く信じてやまない。
それには、毎日の地元で、懸命に歯科医療に従事して、他職種連携の医療・介護にも、積極的に参加したいと思う。地元で、医療貢献することが、被災地医療貢献につながり、根深い問題点を顕在化させて、医療運動に変えることができると信じている。さっそく、明日からと言わず、今日から輝ける医療従事者になりたいと感じた。被災地訪問に参加の機会があるならば、地元医療と両立させて、必ず参加したいと心に誓った。参加の機会をくださった兵庫協会には、常に感謝の気持ちを持ち続けていることを、最後に申し伝えたい。

【赤穂郡・歯科 白岩 一心】

第38次東日本大震災被災地訪問レポート

 兵庫県保険医協会は916日~18日の3日間、岩手県・宮城県・福島県の被災地を訪問した。広川恵一顧問、白岩一心理事、林功先生と、兵庫協会事務局4人、保団連事務1人が参加した。
 東日本大震災発生から6年半を経ての現在の課題を見出すと共に、日常診療経研交流会やプレ震災企画、そして東日本大震災10年のつどいに向けて、被災地の方々との繋がりを維持・発展させることを目的に訪問した。

岩手県田野畑村・宝福寺。故岩見ヒサさんの仏前にお参りし、親族を訪問した

岩手県宮古市の三陸海風代表取締役山口さんに、ウニ養殖の取り組みや課題について伺った

気仙沼市の医療・生活の現状や課題について、医療コーディネータの村上さんや、ライフワークサポート響の阿部さんから伺った

福島県飯舘村小宮で、薔薇や桜、水仙を育てる大久保金一さんを訪問。近くには花畑を見通せる高台もある。

福島県川俣町にある、草野、飯樋、臼石の3小学校の合同仮設校舎





2017年3月24日金曜日

第37次東日本大震災被災地訪問レポート

 兵庫県保険医協会は3月19日~20日の2日間、岩手県・宮城県・福島県の被災地を訪問、広川恵一顧問、松岡泰夫評議員、村上博評議員が参加した。声楽家のバイマー・ヤンジン氏が同行し、2か所でミニコンサートを開催した。
 大地震・津波・原発災害から6年を経ての地域の暮らし・健康の課題を学び今後に役立て、情報発信を行うこと、それらを通してこれまでの被災地で関わらせていただいた方々との関係をよりしっかりしたものとすること、ミニコンサートを通じて地域の人々との交流を深め課題を見出す機会とすることを目的に訪問した。

岩手県田野畑村・宝福寺で故岩見ヒサさんの親族を訪問した(3/19)

岩手県宮古市の三陸海風でカキ小屋などを営む山口さんに水産業の復興の現状と課題について伺った(3/19)

岩手県陸前高田市の子ども図書館「ちいさいおうち」で近況を伺った(3/19)

岩手県陸前高田の光照寺では高澤公省住職から、犠牲者を弔うために建立した慰霊館の前でお話を伺った(3/19)


岩手県陸前高田市・普門寺で熊谷光洋住職から被災直後からこれまでの状況などについて伺った(3/19)

宮城県気仙沼市・南郷復興住宅では、村上先生が笑いを取り入れた体操で参加者と交流した(3/19)
南郷復興住宅ではチベット出身の声楽家バイマー・ヤンジンさんのミニコンサートを開催、最後は「ふるさと」を参加者とともに歌った。軽妙なトークと合わせ和やかなコンサートとなった(3/19)

気仙沼市の医療・生活の現状や課題について、医療コーディネーターの村上さんや民生委員の小野さん、自治会の役員の方からお聞きし懇談した(3/19)

福島県南相馬市の大町病院で猪又院長・藤原看護部長・生田看護師、詩人の若松氏と懇談、現在の医療状況やこれからの展望などについてお伺いした(3/20)

福島県内の常磐自動車道沿いの帰還困難区域には、山積みにされた除染後のフレコンバッグにシートがかけられている土地が至る所に見られた(3/20)


福島県楢葉町・法鏡寺の早川住職から福島第一原発事故による避難指示が解除された現状についてお聞きした(3/20)

法鏡寺では、彼岸のお参りの方や早川住職のお話を聞くためお堂に集まった方がヤンジンさんのミニコンサートを楽しんだ(3/20)

震災直後に避難者へ宿泊先を提供した福島県いわき市の旅館新つたにて近況を伺った(3/20)

2017年3月15日水曜日

【談話】東日本大震災6年

【談話】東日本大震災6年

暮らしの復興をこそ優先すべき

兵庫県保険医協会理事長 西山 裕康


 地震、津波、原発事故により、死者1万5894人、行方不明者2561人を出した東日本大震災から6年が経過しました。自死や孤独死を含め、震災関連死者数は3500人を超えて増え続け、いまだに災害は進行中と言えます。
 暮らしの基盤である住居を奪われ、依然として約13万人が応急仮設住宅や避難先で不自由な生活を強いられ、時には不条理な扱いを受けている状況は、速やかに改善しなくてはなりません。
 しかし、災害復興住宅建設や高台集団移転、住民生活の再建・復興は遅れに遅れています。特に、放射能汚染により故郷を追われた福島からの県外「自主避難者」の家賃免除打ち切りは、看過できません。福島県では、約半数の県民が「元のような暮らしができるのは、今から20年より先」と答えています。
 協会は、東日本大震災後、被災地への訪問活動、健診やコンサート開催などを継続し、兵庫県内では福島県外避難者の健診事業に協力し続けています。
 また、阪神・淡路大震災から22年を経た現在も、借り上げ復興公営住宅からの入居者の追い出し問題や、災害援護資金の返済免除問題に取り組んでいます。
 どのような災害であれ、その復興施策では、インフラ投資、新産業育成などといった「創造的復興」ではなく、失われた被災者の健康、生活、仕事の再建が最優先されるべきです。
 これからも「人間の復興」を求め、すべての被災者の最後の一人まで、その命と健康を守り、暮らしと生活の再建に努力していきたいと考えています。
 皆さまのご理解とご協力をお願いします。

2016年9月28日水曜日

第36次東日本大震災現地レポート

 兵庫県保険医協会は9月18日~19日の2日間、岩手県・宮城県・福島県の被災地を訪問、広川恵一顧問、松岡泰夫評議員が参加した。
 台風16号災害について状況を伺い、お見舞いをするとともに、現在の被災地の医療・生活を中心とした課題を明らかにすることを目的とし、各地でお話を伺った。

岩手県岩泉町・龍泉洞付近の駐車場はえぐられ、下流域まで浸水域が広がっていた(9/18)

岩手県宮古市の津波で被災した土地で工夫しながら生業の再建を進めている山口さんから近況を伺った(9/18)

岩手県陸前高田市の子ども図書館「ちいさいおうち」で近況を伺った。わらべうたの会などさまざまなイベントなども開きながら活動を継続している。(9/18)

宮城県気仙沼市で医療コーディネーターの村上さん、保健師の山川さん、看護師の及川さんから被災者の住まいや生活の状況などのお話を伺った。(9/18)

福島県楢葉町で宝鏡寺住職の早川篤雄さんから、福島第一原発事故に対する思い、避難者や、避難区域が解除され地元へ帰還した人々が置かれている現状についてお伺いした。(9/19)

2016年7月29日金曜日

第35次 東日本大震災被災地訪問・現地レポート

兵庫県保険医協会は7月16~17日の2日間、宮城県・岩手県の被災地を訪問、広川恵一顧問、林功先生が参加した。
現在の医療課題を中心に被災地の現状を明らかにすることを目的とし、各地でお話を伺った。


医療コーディネーターの村上さんや被災者の生活再建を支える〈ライフワークサポート響〉の阿部さんらと懇談し、仮設住宅での生活の現状や気仙沼市における医療課題、まちづくりにおける問題点などのお話を伺った(7月16日、宮城県気仙沼市)

岩手県陸前高田市で震災半年後から子どものために活動を継続している図書館「ちいさいおうち」(7月17日)

「ちいさいおうち」では、現在利用している子どもたちの様子や、運営などについてお話を伺った(7月17日)

岩手県宮古市で、地元の生業の再建に尽力する菅原さん、山口さんらと懇談した(7月17日)


2016年4月8日金曜日

東日本大震災被災地訪問(2016年1月9日〜11日)

仮設―復興住宅―高台移転
求められるコミュニティーづくり


西宮市・広川内科クリニック  広川 恵一


 協会は1月9日から11日にかけて、宮城県、岩手県の被災地を訪問。広川恵一顧問、林功先生が参加した。この訪問は東日本大震災被災地の現状を知り、現地の方々と交流することを目的に継続しているもの。震災から5年を迎える被災地で、仮設住宅から災害復興住宅へ入居された方や、高台移転した住居で生業を再開する予定の被災者から現状を伺い、課題を学んだ。広川顧問の報告を掲載する。


震災5年目の被災地へ
 今回の訪問の目的は震災5年を迎える被災地の医療課題をうかがうこと、復興住宅・借り上げ復興住宅の課題について現地の方々と交流することでした。
 訪問先は宮城県気仙沼市の赤岩牧沢仮設住宅、南郷復興住宅、本吉地区高台移転住宅、民生委員の小野道子氏、岩手県一関市千厩町の訪問看護センター所長・医療支援ボランティアの菊地優子氏(ともに2013年日常診療経験交流会震災プレ企画講師)および同藤沢町の〈ちくちく工房〉。
 このたびも気仙沼市民ボランティアの村上充氏、新たに〈東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター〉の金田基氏(15年日常診療経験交流会震災プレ企画講師の金田早苗氏のご主人)、〈ライフワークサポート響〉の阿部泰幸氏の協力を得ました。参加は西宮・芦屋支部の林功医師と私、事務局は小川昭、楠真次郎、山下友宙の三氏。


ここは自分たちが生きるところ―そしてそれぞれの課題

 これまで訪問先はおもに仮設住宅・医療施設でしたが、震災5年となると訪問先も仮設―復興住宅―高台移転自立再建と変化がみられます。
 仮設住宅では少しずつ人が減り(被災3県仮設空室率4割、独居死5年で188人)、ボランティアが訪問しても「もういい」との返事で、焦りからあきらめが感じられるケースも増えてきたとのことです。まだ学校の校庭に仮設が残るところもあり、「撤去」「集約化」が課題となる一方「転居」も難しいものがあります。一方、仮設の雪かきやイベントでは、転居した人たちが家のことをおいてでも集まるコミュニティーもできています。
 復興住宅では人は来ないで書類が放り込まれるだけで、「(仮設の時と比べ)寂しくなったね」との声を聞きました。コミュニティーづくりやそのきっかけが切に求められています。
気仙沼市南郷復興住宅

 南三陸の高台移転は計画に時間がかかったことから予定通りに人々が参加できず、商店街の再建やもとの職業継続は難しく、閑散としていました。車で市立本吉病院まで10 分、気仙沼市立病院まで40分、志津川病院まで1時間要します。
気仙沼市本吉地区の高台移転住宅でお話をうかがった

 ボランティアの方々から、公共事業の防潮堤は耐用年数が数十年なのに、千年に一度の大津波に備え何兆円という膨大なお金を使って漁業も景観も損なうなら意味がない、それよりも住宅と浜から高台へ車も人もすぐに駆け上がれる道路がほしいという声を聞きました。
 被災地では医療機関・医師不足で、医療費窓口負担免除の縮小〜打ち切りは、いのち・暮らしに直結します。医療への期待は大きく、安心して受診できるための対応が不可欠です。
 南三陸で家も仕事場も流された縫製工場の3人が仮設にミシンを持ち込んではじめた〈ちくちく工房〉は、被災地のさまざまな企画を作品でサポートして人々を励ましていました。
 仮設―復興住宅―高台移転、それぞれ「ここは自分たちが生きるところなのだ」という思いをもとに、そのとりくみを進めていくことに尽きると思いました。



被災地の歴史から学ぶ
 一関を経て帰路につきました。ここでは杉田玄白と深くかかわりがある医師建部清庵が1755年、飢饉対策に「民間備荒録」を発行し、飢饉には住民と藩が協力して〈粥小屋〉をつくり餓死を防いだという記録があります。その弟子が蘭方医・蘭学者の大槻玄沢。
 その孫が国語学者の大槻文彦で、彼が宮城県尋常中学校校長の時の教え子が大正デモクラシー・社会活動家で知られる吉野作造です。被災地の歴史には学ぶべき多くのものを感じます。

2016年4月1日金曜日

第34次 東日本大震災被災地訪問・現地レポート

兵庫県保険医協会は3月20~21日の2日間、宮城県・岩手県の被災地を訪問、広川恵一顧問が参加した。
現在の医療課題や住まいの問題など被災地の現状を明らかにすることを目的とし、各地でお話を伺った。

岩手県宮古市で生業の再建に取り組む菅原さん、山口さんらと懇談(3月20日)

岩手県大船渡市の仮設住宅で現在の生活の様子などを伺った(3月20日)

宮城県気仙沼市で医療コーディネーターの村上さん、被災者の生活再建を支える<ライフワークサポート響>の阿部さんから、医療課題や生活の課題について伺った(
月20日)

2016年3月15日火曜日

東日本大震災から5年

2016.03.15
暮らし・心の復興を
兵庫県保険医協会理事長 西山 裕康

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から、5年が経つ。
 今なお17万人以上が避難生活を余儀なくされ、兵庫県でも856人が故郷を離れて生活を送っている。岩手・宮城・福島の3県で5万8000人がプレハブの仮設住宅で暮らし、仮設住宅が5年で姿を消した阪神・淡路大震災と比べると、生活の基盤である住まいの再建は遅れている。転居が進むにつれ、仮設住宅に残された社会的弱者、特に単身高齢者のコミュニティー崩壊が進み、孤独死の増加といったような問題も発生している。
 福島からの県外避難者は今でも4万人を超え、福島第一原発の廃炉や汚染地域の除染もままならないなか、電力各社と国は賠償の縮小を画策し、全国各地で原発再稼働を進めている。
 インフラなどの「外身」ではなく、住居・暮らしと心といった「中身」の復興に重きが置かれた政策が求められる。
 兵庫協会は、阪神・淡路大震災の経験を生かそうと、東日本大震災後、仮設住宅などへの訪問活動、健診やコンサートをつづけてきた。県内では兵庫県民主医療機関連合会と協力して、避難者への健診も継続している。
 私を含め、現地に赴けなかった会員がほとんどであろう。ただ、阪神・淡路大震災を経験した人は、その窮状を理解し、共有することができるだろう。また、たとえ自身が被害を受けていなくても、日々の診療の中で、患者さんの病気だけでなく、生活環境を含め、その悩みや苦しみに寄り添うことの多い開業医は、想像する力や思いやりの心を持ち合わせているはずである。それは医師の本質、責任といってもいいかもしれない。
 日々前に進まざるを得ない被災者たちに寄り添い、私たちは何ができるのか。まだ何も行動したことのない会員も、できることはあるはずである。被災地への寄付、生産物の購入、被災地への旅行...少しでもいいから始めてみよう。そして長く続けよう。
 被災者から目を背けずに、現状を知り、想像し、忘れないことが大事である。

2016年1月23日土曜日

第33次 東日本大震災被災地訪問活動メモ・感想

協会事務局・小川 昭



1月9日から11日の3日間、広川恵一協会顧問、林功先生とともに、兵庫県保険医協会第33次被災地訪問活動として、間もなく被災5年を迎える宮城県気仙沼市に向かい、東日本大震災復旧・復興みやぎ県民センター金田基さん、ライフワークサポート響の阿部泰幸さん、ケアサポート村上充さんらから、被災者自身の内部から復興へむかう力を引き出すという意味での「自立」をサポートしてゆく姿に学んだ。

被災者のサポートを現場で支える人々が異口同音に強調するのは、外部から上から目線で「支援」するのでは、たくましい生活力の再建、自己回復力を力づけることにはならないということ。被災者が直面する暮らしの中で刻一刻と変化しながら現れる具体的ニーズに向き合ったサポートこそ、「被災者に寄り添う」ことであろうと感じ、ボランティアの方と被災者が罹災後に気づきあげてきた信頼感の強さに触れるにつけ、「人を救うのは人」「人と人のつながり、ネットワークこそが命を、暮らしを守ること」につながる、と心に浸みた。

南郷住宅(災害公営住宅/復興住宅)の鈴木さんからは、311の生々しい津波被災体験と、避難所での生活困窮、上京していた息子さんとの連絡の困難、昨年末にやっと入居できた復興住宅での暮らしぶり、家計の状況と医療窓口負担減免などの支援の必要性について伺うことができた。

赤岩・牧沢テニスコート仮設住宅の小野さん、本吉・小泉地区のモリヤ(守屋)さんから教えていただいたのは、復興住宅建設や防災集団移転が時間との闘いでもある点。巨大防潮堤建設やショックドクトリンといわれる復興事業に名を借りた大型開発行政が、生活に密着した住宅や道路などのインフラ整備が遅れる原因になっている。111日付河北新報1面に特集されているように、復興住宅でも集団高台移転でも当初の希望者が待ち切れずに別の生活再建を選び、皮肉なことに「空き」が発生していることはその象徴といえる。加えて、東北地方の医師不足による不安定な診療体制、被災者の長くつづく経済的困窮は、医療費免除の継続や拡充を喫緊のものにしている。いずれもが、大切な問題提起であった。

2016年1月14日木曜日

東日本大震災被災地 現地レポート

兵庫県保険医協会は1月9日から11日、岩手県・宮城県の被災地を訪問、広川恵一顧問、林功先生が参加した。
被災地の現在の課題を住民の視点からとらえることを目的とし、復興住宅や防災集団移転先の住宅を訪問し、お話を伺った。
気仙沼市内でワークライフサポート・響の阿部さん、医療コーディネーターの村上さんらと懇談、
被災者の置かれている現状について意見交換した。

気仙沼市・南郷住宅を訪問、入居者の方から現状を伺った。

気仙沼市・赤岩牧沢テニスコート仮設住宅で民生委員・小野さんと懇談、行政の実態などをお聞きした。

気仙沼市本吉町の防災集団移転先で理髪店を再建する方からお話を伺った。

岩手県一関市藤沢町・ちくちく工房で近況を伺った。

2015年11月5日木曜日

東日本大震災被災地 訪問記

被災地の復興に公的支援を
理事 白岩 一心


協会は9月20日〜22日に東日本大震災被災地訪問を実施。白岩一心理事、松岡泰夫評議員、広川恵一顧問、林功先生が、宮城県気仙沼市、岩手県一関市、福島県飯舘村・南相馬市の仮設住宅や医療機関などを訪問した。白岩理事のレポートを紹介する。


 気仙沼市の仮設住宅で、自治会長・民生委員の小野道子さん、医療福祉ボランティアの村上充さんと懇談した。劣悪な仮設住宅の現状をうかがい、仮設住宅の住民の間で復興公営住宅への移行をどうするかという問題などがあると知った。
 また、復興公営住宅で、津波で汚染され、塩分を含んだ土地を整備しないまま、その上に建設したのではないかと思われる事例があると知った。
 住民は、慢性疾患を抱えていても、病院までの交通の便が悪く、交通費や医療費負担が不安で、なかなか受診されない。私の町では、病院に通えない方々のためにタクシー券を配布している。行政が被災者を把握しきれていないのでないかと思う。被災者の方々の孤立、家族の分断、行き届かない行政の医療福祉対策にもどかしさを感じた。
 株式会社「きくちまさこ」代表で、訪問看護ステーションを設立した菊地優子さんとも懇談した。365日休むことなく、重症患者さんに訪問看護を行う熱い思いと行動力に、驚いた。
 気仙沼市の漁業では、漁獲量は震災前に戻っていると報道されるが、実際は他府県の漁船が入港していて、気仙沼市の漁業組合の収入は、震災前の20%に落ち込んだままである。マンパワーだけではなかなか生活復興は難しい。政府の公的支援と対策が必要だ。
 しかし、国政選挙が実施されてもなかなか投票率が上がらない。法治国家で、議院内閣制をとる日本では、まずは投票率を上げ、住民が声を上げることが必要と感じた。マスコミは「震災を忘れない」と繰り返しているが、現在、被災地で起こっている問題はなかなか報道しない。
 3日目は福島県飯舘村と南相馬市を訪問。飯舘村には、除染作業で出た汚染物が、袋に包まれ、各地で山積みのまま。永遠に続くと思ってしまう除染作業。田畑の農業の復興はもう途絶えてしまうのでないかと危惧してしまう。
 南相馬市にある大町病院を今回も訪問させていただいた。2年前に訪問した時、病院長・猪又義光先生にうかがった「調剤薬局、薬剤師がいなかったら病院の再建はなかった」という言葉がよみがえる。兵庫協会では、9月12日に開催した講演会「災害と薬剤師」で、猪又先生の言葉を紹介したところ、現役薬剤師の方々や薬学部学生に、薬剤師の役割に確信を持てたと受け入れていただいた。猪又先生にこのことを伝えると、深く喜んでいただいた。
 南相馬市では市民病院に脳血管専門の科が新設されるらしく、看護師不足が深刻という。しかし、逆境を乗り越えて、患者さんの健康のために「質の高い医療提供」をめざす、猪又先生や藤原珠世看護部長の姿勢は、兵庫の地域医療にも結びつくものだと思った。
 これまで何度か被災地を訪問してきたが、今回初めて聞くことも多かった。今まで我慢されていた思いが表れはじめたのでないかと思われる。これからが正念場だと思う。主権在民、基本的人権尊重の憲法理念のもとに、兵庫協会が関われることは何かを再検討して、議論を重ねて、改めて被災地に向かいたいと思う。

2015年9月24日木曜日

東日本大震災 現地レポート

兵庫県保険医協会は9月21日から22日、岩手県・宮城県・福島県の被災地を訪問、白岩一心理事、広川恵一顧問、松岡泰夫評議員、林功先生が参加した。
現在の生活・健康課題を中心に、今後の協力課題を明らかにするため、仮設住宅や医療機関などでお話を伺った。

宮城県気仙沼市の赤岩牧沢テニスコート仮設住宅で、民生委員の小野道子さん(前列左から1人目)、医療コーディネーターの村上充さん(後列左から2人目)、同仮設住宅自治会長(同3人目)にお話を伺った。住まいの問題が中心課題となっており、仮設の集約化に伴う引っ越し費用の問題、津波被害を受けた土地の換地処分における住民の軋轢、災害復興住宅で、引き渡し時に畳一面にカビが生えていたことなど、実態をお聞きした。
福島県飯舘村の農地には除染後の廃棄物が幾重にも積み重ねられていた。

福島県南相馬市の大町病院にて猪又義光院長(奥左)、藤原珠世看護部長(奥右)からお話を伺った。災害時の初動のあり方や、日常的にスポットで全国からの看護師の応援を継続して受けていること、病院内で看護の質の向上に取り組んでいることなど、現状をお話いただいた。猪又院長は、医療人としての使命感が原動力となっていると語った。

2015年7月29日水曜日

東日本大震災 現地レポート

 兵庫協会は7月15日、東日本大震災被災地である福島県飯舘村・南相馬市を訪問。広川恵一顧問が参加し、住民や医療関係者から現状について伺った。

飯舘村では除染後の廃棄物が至る所で山積みされていた


南相馬市・大町病院にて現状と課題をお話しいただいた
(左から)藤原珠世さん、広川恵一兵庫協会顧問、若松丈太郎さん、生田チサトさん

東日本大震災被災地支援・地域交流 被災地物産展を開催

 兵庫県保険医協会西宮・芦屋支部は7月25日、東日本大震災被災地への支援と地域交流のための物産品販売・展示会を広川内科クリニックで開催した。
 岩手県宮古市の「復興プロジェクト かけあしの会」からは岩手県田老町漁協わかめや、アワビなどの物産品販売とともに、ホタテ焼きなどの実演販売を行った。岩手県藤沢「ちくちく工房」からはバッグなどを販売した。

ホタテ焼きの実演販売

物産品も好評を博した

西宮市借り上げ復興住宅問題についてビデオ上映

 

2015年3月15日日曜日

東日本大震災から4年 まちなみと住民の生活再建を

東日本大震災から4年
まちなみと住民の生活再建を
兵庫県保険医協会理事長 池内 春樹

 今年は阪神・淡路大震災から20年、東日本大震災から4年の節目の年である。
 阪神・淡路大震災では、「借り上げ復興住宅から20年の契約期間が経ったから退去してほしい」と自治体から要求され、高齢になった被災者はせっかくできた地域の絆がなくなるので困っている。
 東日本大震災では8万3千棟もの仮設住宅がいまだに使われている。住宅地の少ない三陸地方の特殊性はあるにしても、政府が率先して自治体と協力し、復興住宅を速やかにつくるべきだ。阪神・淡路大震災でも経験したが、劣悪な住宅環境では高血圧、糖尿病、高脂血症など、ストレスによる病気の新たな発症や増悪が3人に1人に起こっている。
 兵庫協会では、東日本大震災発生直後から、今まで30回以上にわたって「被災者に元気を」との願いで、被災地訪問を続けている。
 東日本大震災のもう一つの問題が原発事故だ。被ばくを恐れて兵庫県に避難されている家族がおられる。避難者健診も、兵庫県民主医療機関連合会と協力して行っている。原発の速やかな廃炉と除染が求められる。
 震災関連死を増やさないためにも、まず生活の基盤である住宅の復興が必要だ。また、生活再建のためには仕事が必要だ。仕事や住宅がないため、被災県からの人口流出が続いている。
 復興予算で長大で巨大な防波堤を造るのでなく、子どもたちの未来のために、地域のまちなみと住民の生活を再建してほしい。これこそが、阪神・淡路大震災を経験した兵庫県民としての願いである。創造的復興ではない、「人間の復興」を求めて、連帯のメッセージとしたい。

2015年2月25日水曜日

原発事故・県内避難者に健康診断

健康不安・悩み受け止める

 福島第一原発事故による県内への避難者に寄り添い、その健康管理に寄与しようと、避難者を対象とした健康診断が、2月11日に姫路医療生協共立病院で開催され、福島県などから避難してきた15家族40人が受診した。協会の森岡芳雄理事、辻一城理事が小児科の診察を行い、山中忍理事がスタッフとともに、初の眼科検診を実施した。

 避難者健診は、兵庫県民主医療機関連合会(民医連)が半年に一度、実施しているもので、今回で4回目。民医連からの協力要請を受け、協会役員が毎回、診察に参加している。
 県西部での開催は初で、姫路市やたつの市に居住の家族が多数受診した。受診者の半数以上が小児のため、レクリエーションコーナーを設ける、健診をスタンプラリー形式にする、避難者の方同士が交流できるような場を設けるなどの工夫がされた。健診内容は、問診、身長体重計測、診察、血液検査、心電図、検尿、甲状腺エコー、眼科検診。
 健診終了後は、受診者に将来にわたって自分の健康管理に役立ててもらえるよう、「私の健康記録ファイル」を渡している。3月上旬頃に結果を送付し、4月上旬には結果相談会が予定されている。
 終了後のスタッフの感想交流では、「受診者に被曝による健康への不安が強いのを感じた」「健診は無事終わったが、これからの結果の判定と返しが大切」などの声が出された。

2015年1月25日日曜日

阪神・淡路大震災20年 神戸と西宮でメモリアル企画

阪神・淡路から東日本・原発事故へ――
語り合い経験つなげる

 協会は、震災20年となる1月17日、神戸でメモリアルシンポジウム「巨大災害と人権保障」、西宮で「20年の集い 阪神・淡路大震災―東日本大震災―原発事故」を開催。あわせて400人が参加し、企画を通じて震災からの20年を振り返った。
 神戸会場では、ライターの古川美穂氏、住江憲勇保団連会長、武村義人兵庫協会副理事長、ひょうご福祉ネットワークの正津房子氏の4氏が講演。「創造的復興」の名のもと震災に乗じて「大資本が食い物にする」被災地の実態、協会・保団連の粘り強い運動によって公的保障を勝ち取ってきたこと、高齢化が進む復興住宅入居者の窮状、被災者に寄り添った復興の大切さが語られた。
 西宮会場では、「震災経験を語り継ぐ・風化させない・新たなつながりを拡げる」ことを目的に、阪神・淡路および東日本大震災についての報告や、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生と映画監督の鎌仲ひとみ氏の特別講演・対談、被災地の医療・社会保障を考えるパネルディスカッション、心肺蘇生実習コーナー、震災の記録展示、被災地の物産品展など、さまざまな企画が行われた。

西宮会場「20年の集い」
東日本・原発事故と結びつけ人権と社会保障を考える

 協会と協会西宮・芦屋支部が、西宮市役所東館で開催した「20年の集い 阪神・淡路大震災―東日本大震災―原発事故」には、医師・市民ら340人が参加した。
 京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生と映画監督の鎌仲ひとみ氏が、原発事故に対する電力会社・政府やマスメディアの責任問題、市民一人ひとりが原発をなくすために行動することの大切さなどついて対談した。
 西宮市・広川内科クリニック院長の広川恵一先生が、阪神・淡路大震災における開業医師と保険医協会の取り組み、ボランティア・看護師の役割などにつ
いて、福島県南相馬市・大町病院院長の猪又義光先生と看護部長の藤原珠世氏が、東日本大震災において医療拠点病院として果たした役割と、復興に向け多職種で協力した震災後の取り組みについて、それぞれ報告した。
「被災地の医療・社会保障を考えるパネルディスカッション」では、青森市・大竹整形外科院長の大竹進先生、元岩手県立高田病院院長の石木幹人先生、岩手県立高田病院臨床心理士の行本清香氏、元宮城県気仙沼市立本吉病院院長の川島実先生、松島医療生協松島海岸診療所歯科の井上博之先生、福島医療生協いいの診療所所長の松本純先生が、東日本大震災がもたらした被害・人格権侵害や被災者の健康状態、復興に向けた取り組みなどについてそれぞれの立場から発言。
 東京都中野区・中村診療所院長の中村洋一先生は、阪神・淡路大震災ボランティアの経験から作成した「災害時医療対策マニュアル」や「中野区医師会災害対策本部」の取り組みについて報告した。
 兵庫県災害医療センター顧問の鵜飼卓先生は、阪神・淡路大震災以後の災害医療体制の改善点と今後の課題について、日本福祉大学名誉教授の金持伸子先生は、公営住宅における高齢化問題などについて報告した。
 心肺蘇生実習コーナーでは、西宮市・ユニコの森・村上こどもクリニックの村上博先生、西宮市・あしだこども診療所の芦田乃介先生とスタッフが、市民に懇切丁寧な実習を行った。
 講演の合間には二胡奏者の劉揚氏が「南相馬市民の歌」などを演奏した。

2014年12月11日木曜日

阪神・淡路大震災20年 看護ボランティア・生田チサトさんの手記

保団連・保険医協会の支援を受けてスタートした私の被災地看護は南相馬市の大町病院へとつながった。
被災地復興支援:未来に向かって続く支援

兵庫県保険医協会西宮支部緊急対策本部
看護ボランティア 生田チサト

Ⅰ 心の復興:過去の悲しみのメモリートラックからの解放

 2014年9月7日昼前、生田神社に9月21日の国際平和デイのイヴェント会場を下見に出かけた。神社を参拝したのは、19年前の震災で本殿の屋根がすっかり原形のままで落下していたのを目にしたときであった。当時、耳新しいアフリカの喜望峰で採培されるエネルギーの高い活性酸素除去作用のお茶:ルイボスティと瓦1枚分ほどの気持ちを差し上げた。それまでは上流社会の飲みもであったがアパルトヘイト後一般の市民の手にも入るようになったお茶である。疲労した体と心をいやす助けになればと持参した。そのお返しにお礼の品を頂き恐縮して神社を後にしたのを思い出した。あの大変な最中どんな状況にあろうとお訪れた者に謝意を示される行為に対し、いのち(人と心)を支える神社の使命とその存在の意味を学んだのだった。神社の本殿につながる道に敷かれた毛氈は青空の下、朱色が美しく映えていた。若い巫女さんに「あの屋根が震災時に落下した屋根ですか?」と尋ねたところ巫女さんは、「ちょっと聞いてきます」と言って後ろを振り返り先輩らしい巫女さんに尋ねた後、しっかりと“そうです”と答えて下さった。その本殿で結婚式が始まり、震災を知らない若い世代のエネルギーの動きを感じた。同時にあの時の喧騒とした中にも凛として復旧に忙しくしておられた宮司さんを思い出し、私の中で過去と今が交錯した。時の流れを感じ、復興とは何だろう?と自分に問いかけた。答えが出ないままに三宮駅まで歩いていると当時の空気や情景がまざまざと蘇ってきた。高いビルが曲った鉄骨をあらわにして痛々しい姿を晒していた。あの時の町はどこにいったのだろうか、今この通りを人は歩き仕事をし、暮らしている。その当時のように若者がいる。その町の姿には何の新しさもなく映画のセットが入れ返ったかのように映った。三宮ステーションホテルの当時の姿や倒れかけている高速道路などなど幾度となく訪ねたがこの日ほど震災当時の壊れた街の情景がよみがえったことはなかった。自分のメモリートラックの中に被災地の状況が色濃く残っていることにも気づいた。人々のメモリートラックに被災体験がない時代になってつまり世代交代が起きて復興というのだろうか?・そんなバカな!それならメモリートラックが薄れていくことなのだろうか、そのことを忘れること、考えなくなることなどとあれこれ考えを巡らした。

 ある意味では世界中が第2次世界大戦の復興の途中にあるとも考えられる。戦後の未解決の問題も多くある。大戦におけるそのメモリートラックは今でも繰り返し思い出されている。途切れることなくどこかで戦争や感染症による人々の暮らしと健康の破壊はおき続けている。なんと悲しみの深い時代に世界は生きているのだろう。全ての人々が悲しみを超えて復興の道:健康と平和な暮らしへの努力を続けていると言えないだろうか。
 私自身は、福島の南相馬市福島第一原発から25km圏内の地域にある大町病院の復興支援を続けて3年目になる。人口は減少し、商店街は懸命に開店している店と、閉じたままいつ開店するとも知れずに空き家としてたたずんでいる店がある。状況は大きくは変わっていない。子供たちの数が増えたことが目立つ。その中にあって道路が新しく整備が進んでいるのは復興の兆しとして目に見える。学生たちが登下校時に新しく整備された道を歩いている姿は未来への希望のシンボルとして映る。美しい街への新しい街づくりである。除染作業も進んでいる。飯館村の除染作業はショベルカーで掘り起こされた土を、放射能を遮蔽する黒の専用のビニール袋に入れて眼前に広がる広い田畑のあちこちに並べられている。日本のこの場所で根気と忍耐のいる作業が続けられていることを多分多くの人は知らないだろう。
 住めるところへと人々は移住し暮らしている。メモリートラックには悲しみの影が色濃く残っていながらも懸命に生きている。他の安全に住める土地を選択した人々はその土地で生きようとしている。
 心の復興とは、生き続けるところから未来が現れ悲しみのメモリートラックは少しずつ薄く明るくなっていく。生きること、生き続けるところにいつもあるであろうと自分なりに結論付けてみた。その時を生きるための処方箋は、夢と希望である。被災地での医療の存続はその夢と希望をつないでいくというミッションを内包しているのではないだろうか。
 人類はいつの時代もいつの時も人生の復興への道を歩き続ける存在なのではなかろうか。生きること、それは人びとが夢と希望を決して手離さしていないという証しではないだろうか。

一通の電話で被災後20年を迎えることを知る
その夜のこと、西宮の広川恵一先生から電話で「震災20周年記念を予定している」と伺った。そう、その日は震災後20年を迎えようとしている三宮の街を歩いていたことに気づかされた。町の新しさと活気を感じなかったのは、自分のメモリートラックからの影響かもしれない。ここに住む被災体験をされた人たちのメモリートラックにも記憶が残っているのだろう。

 もしそうだとしたら今生きている喜びに影を落としているだろう。

この度の20周年の集まりに参加させて頂こうと思った。
20年前の方々にお会いできるのはなんと素晴らしいことだろう!
生きてきた喜びを分かち合う良い時を過ごしたいと思った。
20周年をよく計画してくださったと感謝している。メモリートラックが生きている喜びのメモリーに塗り替えられるよう心から願う。

Ⅱ 復興支援の道 阪神淡路大震災被災地医療は東北大震災への支援の序章

阪神淡路大震災の経験を携えて医療者による医療連携復興訪問が始まる
 大震災といわれた阪神淡路大震災(1995年1月17日5時46分)に発生した5日目東京保険医協会の支援で被災地看護訪問に参加させていただいた。全ての人のすべてのかかわりは生活再建の一言に集約されていた。看護師にとってはナイチンゲールの看護の基礎を理解し展開する時であった。
 そこでは、それぞれの国、職種の役割を理解しつつ繋がりあっていくコミニュケーションの力が問われた。互いの協力と連携が人々の生命力の消耗を最小限度にし、地域の復興の力を左右するという貴重な学びと体験であった。
 しかし当時の政府や行政の体制は、受け入れる心と力と技を展開することができなかった。①体験がなかったこと②官民の間の意識の壁③ボランティアスピリットの土壌が開拓されていなかったこと④市役所の建物が影響を受け機能がストップしたこと⑤市役所の人たちの多くが被災していたこと⑥災害対策における国の整備ができていなかったことなどが考えられる。
 それを補ったのが、ボランティア元年と称されるほどの全国から多種多様な手であった。
 困難な状況にある人々に支援の手を差し伸べるという人間本来の命を尊ぶ心が全国から被災地に集結した。その体験が東北大震災への支援の速やかな対応、他国の受け入れと自衛隊の10万人の支援など阪神淡路大震災の当時より迅速であった。ボランティアコーディネーターの存在と役割の発揮とその拠点も速やかに立ち上がった。と見ることが出来る。被災後、復興に財政的支援と災害時の補償に関する制度などに奔走されていた兵庫県保険医協会の努力が実っている。阪神淡路大震災の被災と復興への取り組みが、世界でも初めての地震、津波、原発崩壊の三重苦の試練への助走であり、そのための準備であったと当時誰が考えたであろう。
 阪神淡路大震災から14年目を迎え、兵庫県保険医協会では「阪神・淡路大震災の経験を語り継ぐ被災地での生活と医療と看護」出版に取り組んでいた。
 本の発行(2011年2月17日)そのよろこびもつかの間2011年3月11日午後2時46分に日本東北大震災が発生した。
 その自然災害のスケールは、阪神淡路大震災をはるかに超えていた。この著書が今回の大災害の助けにどれほどなるだろう?と考えた。本の出版は被災地医療連携復興訪問に踏み出す力になったと思う。その必要性のために創れた本であると認識している。
 現在も兵庫県保険医協会の医師、歯科医師、事務職がチームを組んで、東北大震災の被災地の医療機関を訪問し被災地の現状を伺い、他の被災地域の医療現場の情報交換や意見交換を通して交流が続けられている。それを私は医療者による医療連携復興訪問と名付けている。他府県の医療者との交流は現場で復興のプロセスを生きる院長を始め看護部長のエネルギーの変換や充足と一息感につながっているのではないだろうか。被災地への医療チームの訪問は被災地医療を支える一つの在り方ではないだろうか。短時間のミーティングであるが相互交流で支えあう医療のネットワークであると、幾度かその場に同席させて頂いて感じている。

地震、津波、原発崩壊、福島第1原発から25km圏内の一地点で地域医療の拠点として取り組む大町病院に赴任
復興支援はコミニュケーションと自己変革の学び
 被災地の状況を目にしながらも即戦力としては、体力的に無理があり、震災後9ヶ月目の12月8日に南相馬市の大町病院に非常勤看護師として赴任した。
 被災地の医療機関を巡っておられる保団連と兵庫県保険医協会の広川医師チームに、「どこかナースを求めている病院を探してください」とお願いして繋がったのが南相馬市の大町病院であった。当時68歳であったが、猫の手もほしい状況は察知できたので保険医団体連合会の事務局長の取次をいただき応募した。東京保険医協会員でいらっしゃる中野区で地域医療の先鞭を切って訪問診療と被災時の医療対応の仕組み図くりに活躍されているかっての上司、中村洋一郎医師から復興支援金10万円と“復興支援は長期的視野に立って”とのメッセージを頂いて現地へ赴いた。その一部で自転車を購入し病院に寄贈した。私も含めて皆で使わせていただいている。
 私にとっての被災地看護は約20年前東京中野区の中村診療所で訪問看護時代に“被災地に行きませんか”と声をかけていただいたのを切掛けにスタートした。約16年のインターバルを置いて福島の南相馬市の大町病院で再び始まった。
 赴任した大町病院は、復旧の時を経て地域医療の復興に向けて努力の真最中だった。地域の暮らしと健康を支える病院の人材と物理的機能とシステムの再構築であった。それは地域の生活再建(いのちと暮らしを支える)を意味していた。
 被災より3年と6カ月(1277日)経過した今、院長の努力によって関係大学の協力をえて診療部門は専門医の導入が進み、内視鏡センターが誕生し、地域のニーズに応えつつある。日本消化器内視鏡学会専門医制度による指導施設認定病院に指定された。内視鏡技師の認定を受けた5人のナースを含む外来担当ナースがチームを組んで患者さんを支えている。被災地域医療おこしの大きな一歩と言えよう。
 又、病院内においては内装が明るく設備が新しく便利さと感染防止を考慮した仕組みに整いつつある。
 看護部門の努力も見逃せない。全国から支援を望むナースたちの個々の才能と支援への思いを受け入チームを編成している。そして看護がより良いケアへと前進している。そこには復興過程における様々な問題や葛藤を克服する看護師、看護助手、介護福祉士たちの努力がある。

看護チームの再編成:院外からの支援ナースを迎え文化の違いを超えて受け入れる力
 大町病院では他県からの支援ナースがチームの一員としてともに臨床看護の最前線をカバーしてきた。今も他府県から就職した人、他1カ月に2週間あるいは10日から数日間、定期的に支援をしているナースによってチーム編成されている。国の医療機関:国立障害者リハビリセンター病院から看護師長が先鞭を切り3週間交代で約20名の看護師が交代で60週間を支援した。彼らは閉鎖した1ユニットの病棟機能を回復し、患者さんの受け容れを可能にした。彼らの支援は病院全体の復興を支えた。
 生活文化の違い、看護観の違いの中でお互いがら支えあっていく姿は、受け容れる心の広さを持つ福島の文化にその基を見ることができる。支援ナースを思いやること専門職としての看護への責任を果たすためにコミニケーションの努力が双方に必要である。現状のあり方を受け容れること、新しさを受け容れることに難しさがある。それらを克服しながら前進している。その努力の途中で支援から撤退する人、継続する人、新たに支援に来る人と、復興現場に生きるナースたちのコミニュケーションを図る努力は今も続いている。そこには他者の変革ではなく自己変革する力が求められている。
 私自身の支援も間もなく4年目を迎えようとしているが、“復興支援甘くはない”とはっとする時があった。配属された看護チームの希望に焦点を当て、自分の考えを押し付けない。自分の看護の目線で観ないことに注意を払っているが、それでも自分の考えの傾向やこだわりが邪魔をすることがある。その時にはコミニュケーションが成立しない。自分の考えから自由にいることが課題となる。その結果他者の思いや考えが伝わってくる。何をすればよいかが見えてくる。それは自己の変革と成長の過程でもある。復興支援は過去に道をつけ、現在を未来に繋げることなのかもしれない。自分が変わる勇気、自己への信頼と忍耐の力を磨きつつ、自己がより成長していくことに喜びが必要である。この年になってこれほどの自分かと情けなくなったこともある。自分を見て、成長していくこと。そこに復興支援の魅力がある。復興支援に臨む者自身が目的を見失しなうことなく、又、看護を磨き、関係を磨き、実践する喜びを持ち続けて行きたいと思う。
医師の手、看護師の手、介護士の手、病院を支えるあらゆる職種の手、従来の手、新しい手が一つに繋がり域域医療を支える病院に向かって復興の道はまだまだ続く。

*コミニュケーションとは、関わり合い、かかわり合うこと、理解し合うこと、通じ合うという意味で用いている。

全国保険医団体連合会並びに保険医協会の皆様へ
 今後も被災地の医療に心を添えていただき、復興の歩みを続ける被災地に医療者による医療連携復興訪問の継続を願っています。大町病院の明るく、楽しくエネルギーを回復するようなカラーに塗り替えられた病室もお訪ねください。

生田チサト
 1995年1月21日保団連と東京保険医協会の支援を得て西宮市の兵庫県保険医協会緊急対策本部西宮市の広川内科クリニックの看護ボランティアとして参加1年間月に1回の被災地訪問を続ける。2011年12月8日(東北大震災9か月目)に非常勤看護師として被災地看護支援に赴く。月2週間~10日間高山と南相馬を往復しながら4年目を迎えようとしている。現在、足浴ケアの実施と研究的な取り組みを行っている。

資料:内閣府の阪神淡路大震災と東日本大震災の比較の資料を添付させていただきました。『平成23年版防災白書』より