2014年2月5日水曜日

特集・現地レポート49

特集 阪神・淡路大震災――東日本大震災 
被災地訪問と今後の課題(下)
広川 恵一 理事


 協会が、東日本大震災以後につづけている被災地訪問に関する報告の後半を掲載する。

11月と12月の被災地訪問

(上からのつづき)
 11月22・23日の被災地訪問は、亘理―南相馬―いわき・湯本。参加者は、川西敏雄副理事長、白岩一心理事、中西透評議員の各歯科医師と広川、事務局は黒木、楠の各氏。
 亘理・阿武隈川の下流では、護岸工事で再建を果たせた店が、立ち退き移転を求められ、昨年末で無期限休業に入った。
 南相馬市の精神科の堀有伸医師は「PTSDは言われるようにはみられず、むしろ広い家で3世帯7~8人で暮らしていて、仮設住宅に移られた高齢者の認知症が問題になってきていると感じる」とのこと。
 同市内の大町病院では病床再開と共に患者受け入れがすすみ、スタッフの外部研修と全国からの短期受け入れをすすめていること。
 いわき・湯本では他の旅館とともに、長らく広野町からの人々の避難所として機能した「新つた」を訪問。女将の若松佐代子氏から、事故地から29キロメートルにある温泉地の今後についての思いをうかがった。もとの歴史ある温泉地として、観光に栄えることを願うばかりである。
 12月21・23日は、盛岡―宮古―大船渡―陸前高田―気仙沼―千厩・藤沢町の訪問。兵庫協会からの参加者・広川、事務局・藤田、楠、山下4名に、青森協会から大竹進会長含め3名、岩手協会から小山田榮二副会長と畠山事務局長の2名、宮城協会から北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長の3名が現地参加。鳥取協会から家原猛理事(保団連財政部)、保団連から工藤、丸山事務局員の2名が通しで参加。地元協会の参加は被災地の人々にとってとても勇気づけられる。
 われわれの取り組みとして、地元の人々と医療機関をつなぎ、また医療連携に役立つことが今後も重要である。健康問題ではとりわけ高血圧、循環器系の疾患、精神疾患・認知症、そして放射線障害が予想され、その手立てに、地域住民・医療機関・協会・専門団体・ボランティア組織と手を携えてあたることが課題となると考える。
 地元医療関係では、陸前高田病院前院長の石木幹人医師、宮古・後藤泌尿器科・皮膚科(透析施設)の後藤康文医師、気仙沼では医療支援で地元ボランティアの村上充氏、山梨県・牧丘病院院長の古屋聡医師ほか、今回も多くの地元の方々、地元協会の方々に協力いただいた。
 後藤医師からは「阪神・淡路大震災から学びました」と、発電機を医院の屋上に設置し、水タンクを分割して確保したことから津波の際には200人の住民の避難所となり、それで透析をはじめ診療を継続でき、200人の住民の避難所を提供できたことをうかがった。
 移動の車中で昼食を簡便に済ますことを考えていたところ、予想もせず、大船渡では仮設集会所で昼食を用意していただいた。
 五右衛門ヶ原運動場仮設では、後に述べるお話をうかがい、赤岩牧沢テニスコート仮設では、集会所で夕食を用意していただいており3時間にわたる懇談が行われた。
 多くの参加があることは、人間関係が豊かにひろがり、にぎわいもあり情報も豊かになり、何よりもそれぞれの役割が顕在化してきて、とても人間的である。


 
地域の歴史知る大切さ

 一関市藤沢町の雇用促進住宅(仮設扱い)に入居され3人で小さな工房を立ち上げた方の「…津波は私の家も職場も流してしまったが、私の魂とこの腕(技術)は流せなかった…」は心に残ったひと言である。
 このように訪問先も次第に増え、継続する中であらたな学びがある。
 南相馬の建築会社の社長からうかがった話―南相馬には富山県からの支援物資が多かった。
 それは天明の飢饉(1783~84年)で人口が3分の1となった相馬中村藩に、富山の真宗(一向宗)が、親鸞聖人の旧跡参りと通行手形を入手して、前田藩の禁制(戻れば死罪)を破って移住してきたもの(薬売りが情報の中心となったらしい)。真宗は間引きが許されず人口が増えていたこと、また前田藩はその移動を見て見ぬふりをしていたらしい。もちろん風習が違うことから、長らくの間、地元の人とはぎくしゃくした関係が続いたこともあったらしい。
 また、亘理ではイチゴ農家が塩害で壊滅。亘理の亘理伊達氏が、戊辰戦争の敗戦処理で北海道に1870年、2700人で移住し伊達市をつくったことから、亘理町とは姉妹都市で、伊達市がイチゴ農家に声をかけ、誘致して栽培に成功している。
 歴史を知ることは大切で、単に現在の行政の区切りでは割り切れないものがあることも感じる。
 

窓口負担免除措置再開求める住民

 窓口医療費負担免除措置は、14年度末まですべての市長村国保の窓口負担免除としている岩手県、原発事故避難指示区域以外も含め免除されている福島県と違って、宮城県では財政難を理由に13年4月1日から打ち切りが行われ、25万人の被災者が3割負担(70才以上原則1割)に戻った。
 気仙沼の仮設では、「抗がん剤の治療を中断した」「2家族の高齢者介護をしていたうつ病の女性が服薬を中断し自殺された」など、もうたまらず、その思いに「背中を押されて」自治会長さんが、市長さんと一緒に、12月9日、財務省と厚生労働省の副大臣を訪問し、「これでは困る!」と免除再開の支援を求めた。
 4日後、(不十分ながら)手当の算段がついたと担当者電話があり、詳細を待っているとのこと。われわれが訪問したとき、自治会長さんご夫妻からうかがった。その翌日朝6時のニュースに低所得者に限り来年4月から窓口負担減免が決まったと報道された。
 岩手県は江戸時代、最も一揆が起こったところである。幕末に2回の三閉伊(へい)一揆があった。弘化の一揆(1847年)では、野田・宮古・大槌の農民1200人が、南部藩の役人の説得には「聞くな、聞くな」と大声だし耳を覆い、法螺をならし足踏みして遠野に集結し、遠野の役人を通して南部藩と交渉。
 嘉永の一揆(1853年)では同じく、農民が赤白タスキに「小○(こまる=困る)」と書いたむしろ旗を掲げて、釜石に1万6000人集結、半数が仙台領に入り伊達藩に直訴におよび、藩主交代ほか三閉伊の農民を伊達領民か幕府領民にせよという政治的要求3か条、具体的要求49か条と首謀者45人の命の安堵状を求めた。このたびの成果にその影を見いだすことができる。
 そのような歴史があり、やはり語り継ぐことの大切さを考えた次第である。


被災地に集まって/被災地から招いて
知恵出し合おう

 「被災地に集まって知恵を出し合おう」は12年8月に西宮・芦屋支部主催で協会会議室で開いた 「地域医療再生/まちづくりのための処方せん~被災地に集まって知恵を出し合おう~」(青森協会会長・大竹進医師)の講演テーマである。ここでは深刻な医師不足について、勤務医の定年延長、院内開業、医学生へのはたらきかけなどが報告された。
 「被災地から招いて知恵を出し合おう」では、日常診療経験交流会(日常診)プレ企画として、11年10月に大槌町・植田医院の植田俊郎医師、陸前高田病院の石木幹人医師、亘理の上原忍歯科医師を招いた。
 被災地での医療を続ける思いをうかがったところ、植田医師は「私は町の人間です、町の人に生活させてもらっています」、石木医師は「看護師さんから、『先生、患者さんが…』といわれれば動いてしまうものですね」、上原歯科医師は「残されたものの務めと思います」と語られた。
 12年の日常診プレ企画には大町病院の藤原珠世看護部長を招いた。
 「院長からベッドがなく患者を受けられないのは看護師がいないからだ、看護師がいないのは看護部長のおまえの責任だ」と言われたこと。それを真っ正面から受けて立ち、「できる人は1日でも2日でも…」と呼びかけ、被災地医療を経験し学ぶ場を広く提供することと合わせて、看護師が集まり、必要病床回復がはかられたという。ここに院長共々、医療者としての誇りと覚悟を見いだし学ぶことができた。
 13年には、気仙沼市・民生委員の小野道子氏と千厩の訪問看護師(もと被災地特例一人訪問看護師)で、気仙沼でボランティア活動をしている菊地優子氏とを迎えた。小野氏から被災直後の町の状況、菊池氏から一人訪問看護師の経過と仮設で精神を病む人が多く報道がなされていないこと、何よりも住宅が必要なことを報告された。
 今後も被災地と各地を結び、そして被災地の人たちを結ぶとりくみをすすめていきたい。つながることは日々の医療を豊かにし、社会保障充実をすすめ平和を守る確かな力である。


2015年1月17日―震災20年に向けて

 西宮・芦屋支部は、支部総会記念講演では、災害・原発事故を正面から捕らえて、12年7月にはチェルノブイリで6才のとき被曝したナターシャ・グジー氏の講演と歌と民族楽器・バンドゥーラ演奏、13年8月には映画監督・鎌仲ひとみ氏の「ミツバチの羽音と地球の回転」上映、10月には詩人のアーサー・ビナード氏による講演会「ぼくらは何を勉強したら生き残れるのか」を開いた。
 また、19年前の震災の経験から、心肺蘇生の実技研修を始めた。しばらく中断していたことから、20年のメモリアルに向けて街場と職場(無床診療所外来)それぞれを想定した心肺蘇生研修会を、年4回で始めることとした。また被災地訪問も検討中である。
 もうそれぞれ20歳年をとった、阪神・淡路大震災でお世話になった仮設住宅の方々、ボランティアの方々との関係もひきつづき大切にしていきたい。
 震災10年のメモリアルでは、名塩仮設住宅の同窓会をひらき、多くの人たちが参加された。このときの記念講演は、当時東京農大の小泉武夫先生で、テーマは「災害時での発酵食品の底ちから」。20年に向けて課題は山積みである。15年のメモリアルは前号冒頭にあるように書籍化した。
 「避けられる死をなくすこと」~その一点について毎日の診療内容を深めながら開業医としてできる知恵を出し合う機会を拡げていくことができればと考えている。 

2014年1月25日土曜日

特集

 東日本大震災から2年10カ月。兵庫協会は、東日本大震災発生直後から、広川恵一理事を中心に、被災地への訪問活動をつづけている。昨年12月21日~23日には、第23次訪問として、広川理事らが宮古、大船渡、陸前高田、気仙沼などの医療機関や仮設住宅を訪問した。広川理事に、これまでの被災地訪問を振り返り、被災地の現状と今後の課題について報告いただく。

阪神・淡路大震災―東日本大震災

被災地訪問と今後の課題(上)
理事 広川 恵一

1995年1月17日 阪神・淡路大震災
 
 震災から19年後の1月17日、知人から当時の日記・記録が届けられた。
 書いた本人もそれをあとでみることになり、初めてそんなこともあったのかと驚いたとのこと。この日は、意識せずともあらためて語り合い伝え合い風化させず語り継いでいく一日である。
 2011年に西宮・芦屋支部で行った「阪神・淡路大震災15周年の集い」での関西学院大学の室崎益輝教授、県災害医療センターの鵜飼卓顧問、日本福祉大学の金持伸子教授による講演記録と、当時のボランティアの寄稿とをあわせて、16年目のメモリアルにあわせて『被災地での生活と医療と看護~阪神・淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ~避けられる死をなくすために~』を出版した。
 その2カ月後に東日本大震災・大津波・原発事故が起こり、出版社からも、震災支援の一環として1000部増刷いただいた。

阪神・淡路から引き出される課題

 この本の中にも示されているように、多くの言葉が被災地の中で語られた。
 「(ボランティアがニーズがないと断られるような現状に対して)『ニーズがない』ということはニーズを見いだす力がないということ」、(ボランティアの医師に「何故被災地に来るのか?」との問いに)「次は私ところですから」、「被災地の全国からの『支援』は被災地(の人々)によって『支援』される」、「異常なときには通常通りしようとすることが異常(たとえば災害時に診察で保険証を求めることなど)」「被災地医療は日常診療の延長線」など。
 ここにはそれぞれ被災地を訪問するカギが見いだされる。
 たとえば、その一つ、「被災地医療は日常診療の延長線」は、被災地医療を見つめる中で日常診療のあり方がみえてくる。
 もともと医療過疎地・診療科目偏在があり高齢者比率の高い被災地にあって、その医療課題はどの地域にあっても社会・社会保障のあり方と診療のあり方を考える上で共有する課題である。
 また「次は私ところですから」は東京・中村洋一医師の言葉であるが、一言ながら相手の気遣いを和らげ、お互い共同のとりくみとして、絶えず災害に心して望むという課題意識・心意気が伝わってくる。

2011年3月11日 東日本大震災・大津波・原発事故

 被災地の課題は、時間の経過とそれぞれの地域の状況・被災内容によって変化する。
 協会からの、私の被災地訪問は、東日本大震災震災・大津波・原発事故から10日目に始まる。
 池内春樹兵庫協会理事長からの依頼をいただき、大阪府保険医協同組合の協力を得て薬剤を選定し、保団連からそれを届けるべく、宮城協会に訪問を行った。山形空港を経由して現地では和歌山協会の小野田幸男理事・上野佳男事務局長と合流し、ともに混乱を極めた避難所の訪問。帰路は、事務局の横山、足立の各氏と3人で車での神戸(西宮)までの移動であった。
 あれから2年10カ月。被災地の生活の場は避難所から仮設住宅へと場所を移しているが、その仮設住宅も先が見えない。
 大槌町も陸前高田市は多少の盛り土は始まったが、地元の人たちに聞くとまったく変わっていない。防潮堤をという声も聞かれるが、仮設に住む人たちは、それよりも何よりも、「一刻も早く安心して住める家を」という気持ちが強い。三陸鉄道再開を願う声もあれば、54号線など高台を走る安全な輸送ルートを求める声もある。
 原発事故周辺地・ホットスポットではどうしようもない現実と不安があり、日々生活が脅かされる現実がある。「遠方に出ている子どもたちに帰ってこいと言っていいのでしょうか」という相談がある。
 また、それを世界史的事件に立ち会ったととらえて、正確にデータをとり、自分たちの生活やこれからの日本や世界に役立て残そうという動きも聞く。

地域・人をつなぎ、学ばせていただく被災地訪問

 訪問では「受け入れていただく」「学ばせていただく」「関わらせていただく」。お互いの関係は双方向性であり、「支援」という概念はない。
 訪問日は休日が主となるが、現地の方々には貴重な時間であり、たとえ「今日はボランティアの日ですから」とか「日直ですから」と言われても、それを心すること、平日でも同じことで、貴重な時間をとっていただいていること、その思いをきちんと持つことが大切なことである。
 これまでに訪問してきた医療機関、ボランティア組織、(旧)避難所と仮設住宅のある地域は、北から宮古、大槌、大船渡、陸前高田、気仙沼、千厩、藤沢町、東松島、仙台、亘理、南相馬、そしていわき・湯本である。
 訪問先では受け入れていただいたことに礼を尽くして、何度でも訪問し、そして新たに訪問先を加えることを心がけている。
 被災地協会とは、事前に保団連、各協会に連絡して同行・協力、企画の際には共催の依頼を行い、事務局だけでなく私からも直接相談や連絡を行うようにしている。
 移動の安全のため、公共交通機関をできるだけ使い(冬期は凍結・積雪のため内陸部の花巻~盛岡~宮古・大槌・陸前高田間)、沿岸部の移動はレンタカーで事務局スタッフによる運転で安全を心がけるようにし、一台に乗れる人数としている(12月の訪問でははじめて2台での移動)。
 参加メンバーは訪問ごとに交代しながら継続し、新たに参加してもらうよう工夫している。今後は責任者の交代と各地域ごと交代しながらの担当が必要となる。
 企画として、医療相談を行い、地域からのニーズで西宮・芦屋支部に関わりある演奏家によるコンサートを開いた。「いま仮設にはそのような時間が大切で、いろんな人たちを連れてきてくれるのでとてもありがたいです」と地元の方々からそのような言葉をいただく。
 一回の訪問での走行距離は400~500キロメートルで空港でも待ち時間があり、移動中がお互いの情報の補完、感想やまとめの時間となる。
 12月の訪問時には、22日は午前6時20分に盛岡宿舎を出て、午後10時に気仙沼の宿舎に入るまで、宮古の後藤泌尿器科皮膚科医院・河南仮設住宅・高浜仮設住宅、大船渡の越喜来甫嶺地区仮設住宅、陸前高田の朝日のあたる家・子ども図書館、気仙沼の五右衛門ヶ原運動場仮設住宅・赤岩牧沢テニスコート仮設住宅と、8カ所を訪問。まとめを行いながら移動を行った。

(下につづく)

阪神・淡路大震災19年メモリアル行事

経験つなぎ、東北へ−借上住宅追い出し、残る借金...苦しみつづく


1月17日に行われたメモリアル行事のもようを紹介する。

メモリアル集会
〝人間復興〟へたたかいをつなぐ


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300人が阪神の課題と福島の現状を考えた
メモリアル集会(神戸市勤労会館)
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原発事故による福島県民の苦況を語る伊東氏
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母子避難に至った思いを語る森松氏
17日、神戸市勤労会館で「東日本大震災被災地と結ぶ 阪神・淡路大震災19年メモリアル集会」が行われた。協会も参加する阪神・淡路大震災救援・復興県民会議(合志至誠協会名誉理事長が代表委員)の主催。300人が集まり、協会からは、池内春樹理事長、松岡泰夫評議員が参加した。
 主催者あいさつにたった池内理事長は、阪神・淡路の経験を活かし、いまだ仮設住宅暮らしがつづく東日本大震災の被災者の恒久的住宅の建設や、窓口負担免除措置の復活を国に働きかけようと訴えた。
 住江憲勇・保団連会長が、全国災対連を代表して来賓あいさつ。阪神・淡路後の粘り強い運動が被災者生活再建支援法を勝ち取ったとし、「不屈の闘いが東日本大震災被災地をどれだけ勇気づけたか。いのち、健康を取り戻すため、運動をつづけよう」と呼びかけた。
 県民会議の岩田伸彦事務局長が活動報告にたち、被災者不在ですすめられた「創造的復興」に対し、被災者に寄り添い、公的支援実現を求めつづけた、19年間にわたる運動を振り返った上で、現在の課題として、借り上げ公営住宅からの追い出し問題、新長田開発事業、災害特別融資返済問題をあげた。
 県や神戸市などが、民間住宅を借り上げ、被災者に提供する「借り上げ復興住宅」では、高齢を迎えた入居者に対し、20年間の契約期間満了を盾に、県や神戸市は転居を迫っている。被災者の粘り強い運動により、一部で継続入居が可能となったが、希望する全入居者の継続入居が認められるには達していない。
 火災により焼け野原となった長田地区では、住民無視の大型再開発事業が進められた結果、立派なビルが立ち並ぶものの、テナントには空床が目立ち、人口は減り続けている。また、災害援護資金や営業用融資、住宅ローンなどの各種融資返済問題が、いまだに被災者を苦しめている。
 岩田氏は震災復興再開発事業で大もうけしたのは結局ゼネコンをはじめとする大企業であり、企業にやさしく市民に冷たい「復興」であったとし、住民生活の復興を求め今後も運動を継続しようと訴えた。
 東日本大震災被災地からの報告として、原発事故後、福島から大阪に母子避難している森松明希子さんが、小さな子どもを抱える母親として見えない放射線とたたかい、子どもが自由に外遊びできないような状況に避難を決めたとし、「事故の責任を明らかにし、今後の教訓にする」と、原発賠償関西訴訟の原告になる決意をした経緯を涙ながらに語った。
 記念講演では、原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員の伊東達也氏が、原発事故後の福島の現状を語った。
 伊東氏は、原発事故は「最大にして最悪の公害」であり、完全賠償、継続的健診の保障、被ばく低減のための除染促進、強制避難地域での地域の作り直しなど、住民のための復旧・復興実現を求めて運動していくと決意を述べた。