2011年5月16日月曜日

現地レポート31 西宮市・広川恵一先生より

 兵庫協会・西芦支部それぞれ震災対策本部から4月29日~5月2日の間に仙台・盛岡・青森・福島・いわきとそれぞれ訪問させていただき、診療や避難所の現場をはじめあらゆるところでさまざまなとりくみをしている医師・歯科医師・協会事務局をはじめ市民の方たちからお話しをうかがうことができました。

■今回の目的は
①宮城・盛岡・青森・福島各協会はじめ現地で取り組んでいる方々のとりくみの状況をうかがうこと ②兵庫協会と西芦支部の災害に対するこの間のとりくみを伝えることと
③協会・支部として協力できる課題を見出すこと
④青森・浅虫での<ほっと一息プロジェクト>に参加させてもらうこと
⑤兵庫協会・西宮芦屋支部編<被災地での生活と医療と看護>をお届けする ということでした

 ※<クリエイツかもがわ>から今年1月14日に出版した<被災地での生活と医療と看護>(3月増刷分)と、西宮芦屋支部では阪神淡路大震災直後よりボランティア活動や、<震災のつどい>で協力を続けてくれている二胡奏者の劉揚氏(静岡県袋井市在住)から被災地にと届けられた新しく出されたばかりのCDを届けさせてもらうことでした。



■訪問地は
28日(木)夜出発 知立市泊
29日(金)いわき/広野町からの避難者受け入れの湯本・新つた いわき泌尿器科 仙台市泊
30日(土)仙台/北村神経内科クリニック・宮城協会事務局 松島/松島海岸診療所  盛岡市泊  
1日(日)盛岡/岩手協会事務局 青森・浅虫/ほっと一息プロジェクト 仙台市泊  
2日(月)仙台/宮城野区・亘理町避難所 福島/福島協会事務局   いわき/いわき泌尿器科 新つた  車中泊
3日(火)夕帰着

■今回の訪問であらためて大切だと感じたこと
①各協会の震災による被災状況はさまざまで津波被害の沿岸部と内陸部は異なっています。震災のとりくみは被災現場・地域によって、被災内容によってさまざまであって、時間的経過の中でニーズ・課題も大きく変わっていきそれを見定めながら、現場の中でしかそこの問題はつかめず、他の方法は参考にできても必ずしも当てはまらないことに留意しながら、近隣をはじめ全国からの力を適切に得ながら復興に向けていくことが大切でこのためには現場の話を伺うことが基本となると考えました。
②生活リスクの発見と地元のかかりつけ医療機能の発揮が大切であり、避難所での(に限らず被災地での人々の)血圧の高い人は多く健康相談でも大きな課題で健康管理に努めることが大きな課題と考えました。生活面・精神的な負担からみられる医療課題も限りなくあります。それを(血圧チェックなどを)窓口として被災地の人々のニーズと生活環境のリスクを見出しながらその改善と健康管理状況を改善構築していくことに役立てながら、地元医療機関~かかりつけ医による継続した受診への意欲を協力に支えていくことが大切と考えました。
③お互いの状況の理解・情報交換・支え合いがお互いの意欲の回復と再建に役立ちます。各協会事務局でのお話しを伺う中でお互いの被災状況の復旧・復興の情報交換が大切で、それはお互いの復興の意欲を支える大きなきっかけとなると考えました。被害が甚大であった医療機関には地元をはじめ周辺・全国からのその方法を得た上での協力が必要であり、同時に医療機関どうしの情報交換を支えて地域復興の支えとなるべく地元の診療機能回復に協力することが大切と考えました。
④市民に説明ができ役立つ正しい情報の正しい入手のために主体的な動きが大切で、福島協会では6月の総会で放射能についての研究会をひらかれるとのことです。兵庫協会でも放射能障害・防御の研究会、原発事故についての研究会が開かれています。とくに原発事故については毎日のさまざまな報道や見解が飛び交う中で医療の現場では長期にわたる情報収集・交換等が大切と考えました。
     
⑤医療がいのちと暮らしをもるたしかな一翼となることが大切で、 <ほっと一息プロジェクト>のとりくみをみさせていただいて、リクレーション・芸術活動・文化活動などその支えも医療活動の一環としてもとめられ、その機会を利用しての個々人のそれぞれがもつ健康管理機能を高めることが今後長期にわたる被災地医療に重要であると考えました。これは<被災地での生活と医療と看護>にも繰り返し触れられていますが、阪神淡路大震災で避難所やとりわけ仮設住宅のふれあいセンターで経験したことです。
 被災地では血圧の上昇がみられ、地域での脳心血管障害の今後の発生が高まる可能性があり血圧の管理は緊急の課題と考えられます。高血圧症は慢性疾患の中で最も多く血圧は誰でもはかれ話題にできる内容であることから、血圧測定を窓口にかかりつけ医療機関への受診を確実なものとするようにして、これまで以上に健康管理を協力に推し進める機会とすることが大切と考えます。同時に夏に向かって感染症の危険性も高まりその時期的な・場所的なリスクを見定めて地域の人々や行政に働きかけていくことも医療現場の仕事と考えらました。
⑥被災地の人たちの気持ち・要求が第一に 大槌町からの人たちをはじめ避難されている人たちから、「助かった命、頑張ろう」という一様に再建のへの静かな意欲を感じ取ることができました。地域再建の担い手は地域住民であること。総じて地域住民が発災直後からの全過程にわたって地域救援・復旧・復興の担い手としてあるべく・機能できるよう、医療者の立場からその事実に学びながら幅広く情報発信もしながら関わることが大切とあらためて思いました。
⑦被災地診療は日常診療の延長線上にあります。医療者としてもその直接的な医療行為や専門性に役割を限定しないで、地域の人々が主体となった地域との関わりの中でその専門性も活用しながら、他の診療科・看護・介護・福祉からはじまり教育・文化・行政と幅広い連携を図りながら、その機能を発揮することが阪神淡路大震災でも経験されたことですが大切であると考えます。

今回あらためて感じたことは、沿岸部の津波被災地と避難所の深刻さは相当なものがありますが、その被災地とそうでないところは大きく異なるということでした。3月に訪問時には仙台市中心部は緊張感があって仙台駅は列車の運行は停止で閉鎖され、ガソリンスタンドは20L給油制限で長蛇の列で、安全が確認されないことから立ち入り制限場所も随所に見られ、町中はリュック姿の人が大半でしたが、復旧が強力にすすみ今回訪問の仙台市も盛岡市も一見被災地という印象はありませんし、津波被災地以外は走行していても地震の被害がほとんど表に見られませんでした。地元の人々の復旧・復興の力を見ることができました。もちろん広範囲に避難されている人たちがいて、受け入れる施設もあり、原発被害もあり東北・関東全体が広範な被災地であることは変わりません。
同じ東北地方でも被災地といってもとりわけ津波被災地と以外の地域との違いは大きく、現在行われているように、沿岸津波被災地に隣接した自治体ごとの連携体制で災害復旧・復興をすすめ、人的物資の全国支援の窓口責任を持つことは合理的と思いました。甚大な被災地に災害復旧をすべて甚大な被災自治体が担うのは困難であり、幸いにして直近の津波被害のない自治体の協力はお互いを知り合っていることから連携はとりやすいことと人的移動や物資の搬送も容易で全国支援の上手に得ながら最小の労力でニーズに従った災害対策が得られると思いました。

■今回の移動と宿泊について
持参する荷物が相当に多いのと主要幹線から外れた移動もあるため車での移動としました。また一日の診療を終えからの出発ということもあり、また家内に仙台まで往路運転を交代で手伝ってもらいました。
28日(木)の夜間診を終えて午後8時にこちらを発ち、3時間ほどの距離にある愛知の知立市で一泊し、翌日朝5時半に出発して午後2時にいわきに到着。仙台に車をおき、盛岡・青森にはほぼ復旧したばかりの東北新幹線で移動しました。
予定も変更があったりギリギリまで決まらないものもあり、宿舎は前日か当日にとることにしました。ゴールデンウイークであること、震災復興関連の人たちの宿舎や避難所になっているところもありとりにくくなっていましたが、それでもとれないところはありませんでした。災害のない普段であれば難しかったと思います。宿泊申し込みで「復興の作業で来られているのですか」と聞かれるところがありました。「そうではないです」と答えましたが復興関係であると宿舎として対応しているところでは宿泊費用は安くされるところがあります。
それぞれ各事務局では、宮城協会の野地俊一事務局長、岩手協会の畠山恒平事務局長、青森協会の広野晃久事務局長、福島協会の菅原浩哉事務局長、に多忙な中に時間をとっていただきました。
各医療機関、避難所など訪問させてもらったりいろいろな方々から話をうかがうことができました。
帰りは2日(火)午後8時半にいわきを発ちました。3日の朝から予想通り断続的に渋滞が続きました。仮眠と休憩を取りながら3日(火)午後6時に無事に帰着できました。総走行距離数は1990.6kmでした。

 ■訪問地


29日(金)  いわき

いわきまでの道は脇の小高い山に桜が綺麗にそれを優しく染めているのに気がつきました。原発事故のため通行禁止となっているこの道の先も同じく静かできれいな景色が続いているのだろうと思いました。
  県から依頼を受け緊急時避難準備区域の広野町からの80名近い避難者を受け入れている湯本温泉(野口雨情ゆかりの)<温泉新つた>(しんつた)を訪問し、女将にいまの様子をうかがいました。地元の旅館はすべて休館で可能なところは、県からの依頼で原発での作業員の人たちあるいは被災地の人々の避難所として受け入れていています。一時的であると思いますが湯量は減少しているとのことです。4月11日の震度6弱の大きな地震の震源地はすぐ近くとのことでした。原発も近く心配が続きます。市役所支所の入り口の「2階でヨウ素剤の配布行います」の張り紙が目をひきました。
 そのあと発災直後600名の透析患者を新潟・東京に搬送したいわき泌尿器科を訪問しました。仙台で宿泊しました。午前4時半ころ携帯の地震警報で目が醒め5秒後に揺れを感じました。
         

30日(土)  仙台 松島 
 午前8時過ぎに宮城協会理事長の北村神経内科クリニッック・北村龍男先生を訪問させていただき、そのあと9時過ぎに宮城協会で野地事務局長、保団連震災対策本部で応援に入っている 中重治保団連事務局長から状況をうかがいました。
  北村先生からうかがった話ですが、その時貝をとりに浜辺にいっている人がいて、地震が来たとき海辺の砂地にひびが入りそのあと水が引きはじめそのあと沖を見ると真っ黒な壁が立ち上がって迫ってきて30分後に第一波がきたとのことでした。以後青森の浅虫でもお話しをうかがうことがありましたが、このような記録は聞き語りで残しておくことが大切と思いました。
宮城協会で行った会員アンケートでは1600名のうち1200名回答があり、一部損壊が300名で、全半壊が100名(診療従事できず)とのことで、会員訪問を5月中にやりきろうと頑張っているところでした。ボランティアにしてもらいたいことの第一はヘドロの除去を手伝ってもらうことだそうです。現地を移動する中でまだまだその作業は残っていると思いました。避難所のことでは医療供給体制も不十分であったり衝立(間仕切り)もないところもあるとのことでした。
宮城協会では3月に訪問のときもそうでしたが体制の厳しい中それぞれの会員の訪問を行い様子をよくつかむようよくされていました。
午後から松島医療生協歯科の井上博之先生を訪問しました。井上先生からは 4月24日(日)保団連の研究部会で同席し震災直後からの様子ととりくみの報告をうかがい、私も阪神淡路大震災の経験から今回の地震・津波について考えることを発表させてもらう機会がありました。 仙台から松島まで道路がこんでいるので1時間のところが2~3時間かかるので、列車で行く方がいいと協会事務局ではすすめられました。日増しに道路状況が混雑してきていること、GWにはいったことでの観光客、とくに松島の温泉が再開したというニュースが入ったことそれに「GWで全国からの多数のボランティアが来られる」というようなことでした。持参するものが多く、気にはなりましたが車で移動したところ午後1時過ぎに通常の50分ほどの所要時間で到着することができました。
途中の多賀城市では埃っぽさはありましたが、3月21日に訪問させていただいたときとは打って変わり、塩竃までの仙塩街道の多賀城市を中心に道路脇にデコボコになった自動車が鈴なりに並んでいましたが9割以上除去され、飲食店や自動車会社など多くの再開がみられました。交差点の信号機が機能しないところが数カ所あり交通整理者の姿はなく、車両どうし気をつけなければならないところがありました。 松島はこの日温泉が再開したということ・ゴールデンウイークということもあって観光客の姿も見られましたがおそらく普段の活気ほどでなかったと思います。
井上先生によると診療所は松島海岸のすぐ近く海抜3mで足下まで水が押し寄せてきて事務長さんたちの機転で、レセコンほか医療機器を2階に持ち上げて被害を最小にできたとのことです。28日までに床にたまったヘドロをはき出して床をきれにすること・廃材を処理するなど、たくさんの人たちが来て手伝ってくれたとのことで、被災の面影はほとんど見られないくらいになっていました。松島の津波の高さは3mでその北は10mとのことで、松島の沖に並んだ小島が津波の防波堤になったのではないかと言われているとのことです。それから仙台に戻りJR仙台駅の隣の屋上駐車場に車を置き、盛岡に向かいました。
         
1日(日)    盛岡 青森・浅虫 
 午前9時に岩手協会を訪問して畠山事務局長から状況をうかがいました。会員1000名弱で4名の方が亡くなり4名の方が行方不明。 安否確認などのアンケートでは150施設からまだ未回答で60施設が全壊で多くは津波であと医療機関の多くある大船渡・陸前高田などでの火災など他の被災地区で聞くことですがとりわけ大規模な被災・火災があった地域では医療機関の先生方も時間の経過の中で元の場所でという気持ちになりながらも、その地域にどのような地域復興がなされるのか・どれだけ元いた住民が戻ってくるかそれぞれわからない中で決めかねることもあるのではないかと思われます。なんとか地域の文化を損なわないかたちでの地域復興がなされつつ、その中でのかかりつけ医機能が発揮できることができればと祈らずにはいません。
岩手は三陸海岸の津波による被災が甚大でしたが、4月11日のいわきを震源とする2度目の大きな地震では、なぜか大きく話題にはなっていないとのことでしたが、一関市が被害が大きかったとのことです。
事務局3名・非常勤の人を入れて5名という体制でよく頑張られていました。被災した各県はそれぞれ広域であり安否確認と情報発信に全国からの協力と連携が大切と思いました。今後は沿岸部とくにマスコミの入っていない地域と内陸部とくに一関市ほか地震被害地域の状況把握が大切と思いました。盛岡にある友人の医療機関に立ち寄り話しをうかがいたかったのですが時間がとれませんでした。
そのあと京都協会の関浩理事長・中村暁事務局のスタッフ2名と11時過ぎに新青森で合流して、青森協会の中村寛二前事務局長の運転で 昼過ぎ浅虫温泉・<辰巳館>に到着しました。
ここで青森協会理事長の大竹進先生が中心になって取り組んでいる<ほっと一息プロジェクト>に参加させていただきました。町長はじめ多くの職員が津波で亡くなった大槌町でいま高校の体育館に避難している人たち、陸前高田市、釜石市の避難所にいる希望者全員が対象で、費用は義援金でまかなうようにされています。これは二泊三日で浅虫温泉で休養をとってもらい、その間に健康相談・健康チェック・必要な人は受診・生活相談を行うプロジェクトです。5月6日までに150名が参加予定とうかがいました。ボランティアのとりくみですが県から予算の半額の協力を得たとのことです。
ちょうど19名の人たちが昼食を終えようとしていて浅虫水族館に出かける前だったので、関先生と二人で希望者の血圧測定と健康相談を受けました。それぞれ、170/96、180/96、176/110…。204/112この方は以前降圧剤を服用していて良くなったからとやめていた人ですぐ受診してもらいました。予想していたことですが血圧の高い人が多く、避難所での暮らし(本来生活の場所でない)は血圧上昇の要因でもあり、血圧を窓口として環境の見直し・改善と日常の健康管理の大きな柱として、受診を支えていくことなどその対応・解決の<道筋>をつけていくことが実際的でわかりやすく有効と考えました。そのことを早速大竹先生に伝えました。
 被災地での血圧上昇が今後の脳心血管障害の発生のリスクを高めると思われ血圧の管理は緊急の課題と考えられます。同時に夏に向かって感染症の危険性も高まりその時期的な・場所的なリスク評価を示していくことも医療現場の仕事と考えられました。
血圧をはかりながら塩分を控えることを説明すると「塩辛くなければ食べられない」とのこと。いかに塩辛いものがおいしいか食べ物の例を挙げて説明まで受けました。でもそれだけ減塩の大切さはみなわかってられるわけで治療はここからはじまるのだと思いました。それ以外に健康に関する質問は絶えることなく医師・歯科医師・薬剤師・看護師・放射線技師ほかメディカルスタッフの役割は限りなくあると思われました。
県がラジオを一家に一台配布したのですが雑音がひどく使い物にならず、みな何故かと思っていたところ中継局がやられていたことがわかりました。「(久しぶりで)つい遅くまでテレビをみていた」という人が多かったようです。またそのような話の中で、「この服はすべてもらいものです」、「ズボンだけわたしのものです」、「ながらく畳の上で寝ることができなかったが昨夜は畳の上で寝られてほんとにうれしかった」、「町長も職員さんもたくさんが亡くなったので何とかまとめる人が出てきてほしい」、現地での方言で聞いたのですが「機転が利いて行動力のある人」そんな人がほしいとのことでした。「弟が病気(白血病)で宮古の病院に入院していて見舞いに行っている時に津波が来ました」、「(たまたま)出かけているときに津波が来た」「津波から叫び声が聞こえた」…など死と隣り合わせを経験した人たちばかりでした。これからの生活に希望が持てる社会保障と精神的なサポートは大きな課題です。
 <被災地での生活と医療と看護>の中の「看護訪問」の記録で繰り返し触れられていますが。被災地の人々の保清、感情表現を支える、医療・介護・福祉につなぐということは同じく大切なことと考えました。
ここでは関先生と現地への移動やあいだの時間にいろいろお話しができとてもよかったです。また今年2月から中村さんから交代して事務局長になったばかりの広野事務局長にCDを手渡した のですが、音楽を聴く機会もほとんどなかったとのことで喜んでくれました。大竹先生から兵庫のように薬科部を作れないかと言われていてさあどうすすめようかとしているその中での震災・津波だったとのことです。そういうお話しもうかがえました。被災地ではどのような薬剤が必要であったのか、供給にどのような問題があったのか薬科の立場から明らかにしなければならない課題も多いと考えます。兵庫協会の薬科部でも大きな課題の一つにさせていただこうと考えています。今後の連携の中で各協会から教えていただければと思います。


大竹先生が仙台の花見からバスで30名の人を連れて戻られて、大槌町の人の「弘前の桜は日本一・世界一の桜だった」との声。宿泊(入浴と部屋割り)のオリエンテーションが終わって、関先生と私から挨拶させてもらい、そのあと女将から挨拶と「町の散髪屋さんがボランティアで散髪させてもらいます」と申し出があったので希望の方は私がお店まで案内します」とのこと。さっそくお風呂に入ってもらっている間に時間を見つけてわれわれの打ち合わせ。
浅虫で泊まり、血圧測定を軸にしてじっくりとお話しを伺ったり健康相談など受けさせてもらいたかったのですが、翌日午前は仙台の避難所を訪問を予定しており、午後に福島協会とそのあと夕方までにいわき市に着きたいこともあって仙台に戻りました。大竹先生、関先生、女将とみな玄関に送ってくれました。ここでも忘れがたいとてもいいチームワークでした。医師も事務局スタッフも旅館の女将はじめ職員さんに町の人たちみんな気持ちが一つになってそれぞれの持ち分で一所懸命やっているのがとても気持ちよかったです。またこちらにぜひ来させてもらいたいと思いました。






2日(月)  仙台 福島 いわき
 午前9時から避難所となっている宮城野区の岡田小学校とそこから30kmほど離れますが、亘理町の吉田小学校を訪問しました。それぞれ3月20日に訪問させてもらったところです。
岡田小学校ではしきりが入り口のみでプライバシーも保ちにくく、前回訪問したときと同じような敷物の状況でした。働きに出ている人、家を片付けに出ている人などいて比較的まばらで、作業員の人たちが多く見かけました。学校の先生・世話人の人によると現在250名で、その世話人の人に阪神・神戸の方からきて3月に医療支援で訪問させてもらったこと、このたび仙台・岩手・青森を回っての帰りでどうなっているかと立ち寄ったと伝えると親切にいろいろ答えてくれました。彼自身も阪神淡路大震災の時水道管の修繕に応援に行ったことがあるとのことで、修繕のための部品を持っている家庭が多く助かったのをよく覚えているとのことでした。
  支援の医療体制もいろいろ変遷があり現体制も連休明けまでとのこと、医療機関から比較的遠くバスの便がよくないとの話を伺っていたので、そこの世話人の人に聞くと、高齢者の医療機関の受診は幼稚園のバスなど借りていたのですが、遠方のため難しくなっていたところ避難所に定年退職したバスの運転手さんがいて週2回、その人の車で医療機関を一巡するようにしているとのことでした。 ここでも大変な中での助け合いがありました。 仮設住宅の入居が急がれますが今月の末にはという現場の人の意見でしたが、たまたま出会った教育委員会の人たちはその考え方に否定的で、まだまだ8月くらいかという感じでした。あと学校があるのが2カ月その間は無理と考えられているようでした。
  そのあと亘理町の吉田小学校を訪問しました。校庭で一人で草引きをしている初老の女性がいたので座り込んで話を聞きました。同じく3月に医療支援で訪問させてもらったことを話すと打ち解けて、「…この年まであんなおそろしい災害に遭うことは思いもしなかったです…」。ここは最大時1800名現在150名で避難所は体育館だけになっているとのことでした。避難所となっている体育館ではここもついたてはなしでした。町の職員さんから状況を詳しく聞きました。前回詳細に説明してくれた町の保健師さんは役場に戻ったところでした。 ここでも<被災地での生活と医療と看護>を数冊お渡ししました。仮設住宅の入居は今日3件あったとのこと。やはり8月末には全戸仮設入居は果たせると思うとのことでした。学校の隣の公園に<ふれあいセンター>も含めて仮設住宅の建設がすすんでいました。
  午後1時に福島市の福島県保険医協会の事務局を訪問し菅原事務局長が丁寧に対応してくれました。1480名の安否確認のアンケートを送り150名を残し回答を得たとのことでした。900施設回収時点で全壊は10施設でやはり海辺近くの施設の津波による被害が相当に大きかったとのことです(福島県保険医協会ホームページに菅原事務局長により詳述されています)。
  原発事故・放射線障害が大きな問題となりますが6月の総会で記念講演を開かれるとのこと。いろんな情報が飛び交う中でとにかく研究会活動を行い情報交換と発信に努めることが大切と考えました。こちらも事務局6名という少ない体制の中よく頑張られていて、引き続き同じく医療支援と原発・放射線障害についての情報発信と全国からの協力と交流・連携が大切と思いました。
 ・・・ここから side story みたいですが少しちょっと細かく書きます・・・
  福島からいわきに向かい、私の小学校時代からの友人でいわき泌尿器科の院長の川口洋医師を訪問しました。透析専門医療機関でまず断水で透析用の水とついでガソリンが供給がされなくなることが予想された段階で、移動できる間にということで東京方面に450名、新潟には150名一時的転院を行い、新潟には搬送に同行したとのことです。この作業は大変なことだったと思います。本人は一言もそのことについて触れませんでしたが、先が読めない中でのその判断はきっと難しかったことと思いますが、それを決断して実行に移したのは大切なことであり、その判断を支える現場の存在は日常の診療のあり方を示しているものと思いました。いまでは次第に患者さんたちも遠方から戻ってきているとのことでした。
  そのあと私の知人で木版画家の大久保草子さんのお家を訪問しました。小高い丘の中腹にあって湯本の温泉街の一部が望めます。「こんなときは誰かにきてもらえるのがとてもうれしい」とのこと。「風評被害などで物資が入ってこなかったのが大変だったけど、町の小さな雑貨屋さんも数日閉めただけで思い切って早々に再開してくれてありがたかった」など聞きました。地域の生活を支える拠点のあり方やサポートは大切と考えた次第です。そういった場は単にモノだけでなく情報交換や安心感に役立ちます。彼女が作成した<ヒョウタンから牛>という作品をお礼にもらいました。ご主人によると「原発周辺での動物たちの死に胸を痛めてそれが作品になったようです」とのこと。帰りには夕暮れがきれいでそれを見ながら送ってくれました。
  それから<新つた>に立ち寄り女将に渡し忘れていた劉揚氏のCDを届けました。「あれ、これは癒し系ね!」「額の縦じわも消えるかしらね」と早速館内放送でかけてくれました。ちょうど避難している人たちが仕事などから次々帰ってくるところで、「一緒に晩ご飯をどうぞ」といわれてみんなと一緒にその日の晩ご飯のカレーをごちそうになることになりました。あとおかずにほうれん草に鮭の身とモヤシごま油で味付けしたもので、食卓には醤油・ソース類はなし。とても健康に気を配った献立と考えました。そうこうしているとホールいっぱいに二胡の音色が響いてとてもほっとした雰囲気に。いままで音楽があまりなかったとのことでよかったと思います。お世話してくれているのはパートの地域の人たちで3~4人も二胡の音を楽しんでくれました。
  食事が終わると女将が食堂に集まっている人たちに「今日は私の知り合いの先生が来ているからね」「具合が悪い人は診てもらいなさい!」 さっそく子どもが一人やって来て、「ボクは喘息がときどき出るのですが見ていただけますか」としっかりととても礼儀正しく驚きました。「何年生?」「小学校4年生です」「どんなときに喘息が出るの?」それには母親が「季節の変わり目です」。聴診して異常ないことを説明して腹式呼吸と発作時の口すぼめ呼吸と水分を少しずつとることを説明しました。もう一人は咳をする小学校6年生の男児。この子も礼儀正しく顔色良好、食事も十分摂れているので心配ないことを説明して入浴後すぐ休むよう説明。薬での対応も大切ですが生活や療養の工夫や安心の保証を行うことは大切と考えます。
  一通り終わると女将がタオルと歯磨きの入った袋をぽんと私に渡して、「さあお風呂に入って下さい」。避難されている人たちとゆっくり入浴しました。
  女将は朝は5時から夜は10時まではたらきずくめ。食事の買い出しから食事の準備から職員もいまはいないなか工夫しながら一生懸命やってます。報道にあるように毎日余震が続いています。地震がありもし旅館が倒れて避難している人たちが怪我したらとか、旅館には責任はないといわれたものの責任とかそういうことでなく心から避難してきている人たちのことを心配しています。旅館業というのはいろんな人たち・いろんな考え方の人たちがお客さんとして泊まるわけで、傍から見ていてそうとうに懐の広さの普段から求められるというか鍛えられる仕事の一つとあらためて思いました。
  こちらでも帰りは丁寧に見送ってくれました。この湯本温泉の旅館29件はすべて休館で避難所あるいは原発作業員の宿泊施設になっています。一刻も早くみなが通常の生活に戻れるよう心から思いました。ここでこの夏までに元気の出る思い出に残る演奏会が開くことができればと思いました。

 おわりに  
①日常の医療の面での関わりでは、とりわけ血圧の管理を窓口(柱)とした健康管理が緊急の課題として大切と考えました。かかりつけ医への受診を促し治療の継続を確実なものにしていくことが大切(阪神淡路大震災の経験から医療職の中では看護師の役割が大きいと思いました)。
②同時に地域の感染症発生動向への注意を行い、情報の交換を行いながら地域の人々・行政と協力してすすめることが今後の大きな課題の一つと考えます。
③生活基盤の再建が社会的に支えられることとあわせて医療者側からは感情表現をささえるとりくみが大切であると考えられました(<被災地での生活と医療と看護>にも看護の立場から繰り返し書かれています)。
④これからも続く避難所生活・新たな仮設住宅での生活をより健康を損なわないものとするために、内外のふれあいの機会をもつことや文化的なとりくみをすすめられること、それに大きく協力していくことが課題で、医療者としてはその機会を通して健康相談をはじめ被災地の人々の気持ちや不安に応えていくという役割が果たせると思いました。
⑤仮設住宅ではふれあいセンターの「生活といのちを守る」という十全の機能の発揮が大切で、阪神淡路大震災での各地のふれあいセンターでのさまざまな記録を参考にしてもらうことも大切と思いました。
⑥各地で行われる放射線障害・防御、原発についての研究会の内容の交流を行うことが大切であり、それぞれ災害対策本部の役割と考えます。
⑦協会の対策本部の役割としてさまざまな医療ニーズの把握に努めるべく情報交換のセンターの役割を担うことが大切と考えました。そのためにも保団連対策本部・被災地各協会からの情報を大切にしていくことと考えます。同時に阪神淡路大震災の語り継がれる経験を発信していくことがあらためて求められると考えました。
  
  今回の訪問でお世話になった、宮城協会の北村龍男理事長、井上博之副理事長、青森協会の大竹進理事長、京都協会の関浩理事長はじめ、宮城協会の野地俊一事務局長、盛岡協会の畠山恒平事務局長、青森協会の広野晃久事務局長・中村寛二前事務局長、福島協会の菅原浩哉事務局長、保団連の中重治事務局長、避難されている人たちを受け入れている<新つた>女将の若松佐代子さん、かもがわ出版田島英二社長・沖田大介氏、CD寄贈の劉揚氏はじめ多くの方々にお礼を申し上げます。また3月にひきつづき今回の訪問も支えてくれた兵庫協会・池内春樹理事長、西宮芦屋支部・大森公一支部長、各協会と連絡手配にあたってくれた兵庫協会・藤田誠治事務局長に感謝いたします。


西宮市 広川内科クリニック
広川 恵一