参加した広川恵一先生からのレポートを紹介する。
2012年7月14日~16日 被災地(大槌・気仙沼・仙台・亘理)訪問報告
はじめに
14日(土)から16日(月・休)大槌・気仙沼・仙台・亘理を訪問し多くを学ばせていただきました。
訪問の目的は、
第一に1年4か月経った被災地の現状・課題を現場の医師やボランティアの方々からうかがい、今後の震災対策に少しでも役立たせていただくこと、
第二に宮城協会の北村辰龍男理事長・井上博之副理事長・鈴木和彦事務局長から被災地の人々の現在の健康状況・制度の問題や課題をうかがうこと、
第三に昨年8月の福島協会との共催したいわき市・湯本での二胡コンサート・健康相談に引き続き、<音楽のプレゼント>として、岩手協会、宮城協会の協力を得てコンサート行うことでした。
これは昨年10月29日と30日に協会日常診療経験交流会で震災・津波被害の報告された大槌町・植田医院・植田俊郎先生、陸前高田病院・石木幹人先生、亘理町・鳥の海歯科医院・上原忍先生との災害復興で何ができるかという話し合いの中でだされた中の一つを具体化したもので、植田先生、気仙沼市のある幼稚園の先生方、上原先生の協力で行うことができました。陸前高田病院では分散した仮設からの参加が困難でまた休日での対応が難しく石木先生と相談し次回の企画としました。
訪問では、
①沿岸部の被災地の状況は依然として先の見えない中で変わっていません。大槌町、陸前高田、気仙沼の市街地中心は礎石のままで水につかったところも多く、地域をどこにどのように再建するか難しいことが感じられました。また震災前から人口減のつづく地域での医療過疎は厳然とありその実際を明らかにしていく必要があることが分かりました。たとえば気仙沼市は耳鼻咽喉科は市立病院だけで開業医は1軒もないことを訪問して初めて知ることができました。
②一方その中にあって、仮設入居の人たち、ボランティア、地域医療に直接関わる医師たち、仕事を作り上げていく人たちに被災からの再建の力強さを感じました。普段の毎日の会話・つながりを大切にしながら今後を探り、ありとあらゆる文化的な企画を打ち出して孤立しないとりくみ、仮設の人々のふれあいの機会を「できることは何でも」と明るくつくり続けている仮設内のセンターの人たち、行政への粘り強いはたらきかけをしながらしなやかにネットワークを駆使し情報発信しながら高齢者への弁当の宅配も行いながら仮設住宅を自主的訪問しているボランティアの人たち、医療や介護につなぐべく看護訪問のボランティアスタッフ
③<音楽のプレゼント>には仮設住宅の方々やボランティアの人たちから「クラッシックの音楽を生で聴くことは久しくなかった」などとの声を聞き、阪神淡路大震災を思い出しこれからも被災地との多彩な文化的なとりくみを通して共感と交流をすすめることの大切さの手応えを感じました。
④被災地での訪問はそれだけに終わるのでなく被災地の人々・参加したものどうしの共同の実際的なとりくみを通して今後にわたる人間関係がつくり上げられていくことが大切と考えます。その肌身で伝わる感情の拡がりが今後起こりうる災害に身近な人たちを思い浮かべての人間的な共感で関わることのできる精神的な支えにもなると思います。このたびの被災地訪問もわずか48時間でしたが被災地の人たちとの今後にわたる人間的関係とその手応えを持つことができました。また訪問したクルーの一生お思い出としての関係もできました。
⑤このたびの災害ではその復興は明らかに長期にわたるものですが、それだけ人間的な交流のあり方はそれを超えるものが求められ、それを存分に超えたものにしていくことが大切なのではないかと思います。何らかの形での被災地訪問とその交流が今後もあちこちですすめられていくことが大切と思います。とりわけ阪神淡路大震災の経験を身近に持つもつものとしてのかかわりの可能性を考えていきたいと思います。
今回の被災地訪問の日程・メンバー・内容
日程 | 7月14日(土)~16日(月・休) |
メンバー | 八木秀満(ギター)、清水映二、広川恵一 長谷川眞弓(ソプラノ) 轟木裕子(ピアノ) 黒木直明、楠真次郎(協会事務局) |
内容 | |
7月14日(土) | 伊丹16:00集合 伊丹空港16:55→いわて花巻空港18:20→レンタカー→遠野市19:45 翌日からのスケジュール・内容・意義について打ち合わせ |
7月15日(日) | 【午前中】 遠野7:45→大槌町・植田医院9:00→懇談→和野っこハウス9:30 大槌第5仮設・和野っこハウス・ライフサポートアドバイザー 森田礼子さんから状況をうかがう 会場設営9:30開始→コンサート&健康相談10:30~1130 【午後】 和野っこハウス11:40→陸前高田旧県立病院跡地13:10 旧県立病院跡地13:20→(昼食20分)→気仙沼反松公園仮設住宅14:15 反松(そりまつ)公園仮設14:20→赤沢牧沢テニスコー仮設14:30 ボランティア 村上充氏・仮設入居者・看護ボランティア 岸田広子看護師から状況をうかがう 健康相談14:30~15:20→反松公園仮設15:30 会場設営14:30開始→コンサート15:30~16:30 村岡正朗医師から状況をうかがう15:40~16:30 【夕方】 反松公園仮設17:00→(一関・東北自動車道)→仙台19:45 【夜】 宮城協会・北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長から現状をうかがう20:00 |
7月16日(月・休) | 仙台7:45→鳥の海→鳥の海歯科医院・上原忍先生9:00 鳥の海歯科医院9:10→亘理町公共ゾーン仮設住宅9:15 上原先生夫妻はじめ仮設入居者の方から状況をうかがう コンサート会場設営開始9:15→コンサート10:30~11:30 上原先生夫妻案内で<かとうや>12:45~12:50・鳥の海ふれあい市場13:00 長谷川さん・轟木さん、中浜小学校先生の案内で旧校舎訪問12:00~14:00 仙台空港14:00集合 仙台空港14:45→伊丹空港16:05 |
今回の企画の具体化は昨年10月29日の日常診療経験交流会プレ企画<被災地の医療を語る>で話し合われ、1月7~9日の被災地訪問での現地への打診から始まり、6月2日の参加者のの打ち合わせ会議から具体化に向けて意見交換をすすめました。企画段階では ①訪問先を確定する、②現地の人たちから現在の課題についてうかがうこと、③協力を得られる仮設でのコンサートをできるだけ行うこと、④移動には無理がなく・事故がないよう細心の注意を払うことでした。
八木・清水・広川・黒木はこれまでの現地訪問で地理的な関係・移動に要する時間的感覚はつかめていてそれをもとに旅程をつくり、現地でのコンサートの設定・日程調整はすべて黒木が窓口となり現地と相談し、気仙沼は長谷川さん・轟木さんたち音楽家連盟が震災以後支援活動を通じてもたれていた関係で現地での協力を得ました。移動は楠がほぼ全行程を安全運転で担当し写真記録とコンサートの協力にあたりました。移動に車中での時間を要し設営も含めた演奏もあるため初日は遠野で一泊し無理をさけ15日全日と16日の午前に集中できるように工夫しました。
1、遠野-「魂」のこと
被災地の課題で大切なことに「犠牲になった人たちのことを忘れない」、「悲劇を忘れないで語り継いでいく」「風化させない」ことがあります。阪神淡路大震災では多くの方の検死にかかわりました。中学校の技術の教室の机の上の高校2年生の男子で泥まみれの遺体に対面したとき、「この子はその前日まで考えることもなかった」と思い、「この子の思い(魂)が浮かばれるとするならそれはどういうときか」を考え、その後の私の被災地医療の原点になりました。
こちらから東北の被災地には土曜日午前の診療を終えて向かうと夕方から夜にかけての到着になります。数回の被災地訪問の中で初めて遠野で翌朝からの活動に備えて宿をとりました。翌朝は小雨でしたが6時から7時前まで遠野の町中を一人で歩きました。宿舎のすぐ裏手が遠野市博物館で今年が柳田國男没後50年ということで特別展<柳田邦夫の生涯>(6月9日から9月30日まで)が開かれており、もちろん時間も早く時間もないので入館は出来ませんでしたが、「亡くなった人たちの魂の行方」を問う柳田民俗学に訪問の初日に触れたことにはっとしました。津波・地震で予想もしない死を遂げた人たちの魂をどう自ら感じかかわるかは大切なことで、東北の文化や伝統の中にこの災害を乗り越えていくものがあると考えます。宮沢賢治のイーハトーブ・<グスコーブドリの伝記>その思想もその一つになるのではと思っています。あえて言えば「思いをとらえる想像力」といえるかと思います。昨年1月、協会西宮芦屋支部・協会から出した<阪神淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ/被災地での生活と医療と看護/避けられる死をなくすために>(クリエイツかもがわ)の表題にはまさにこの思いが込められています。
2、岩手県大槌町・和野っこ(わのっこ)
大槌町・植田俊郎先生の仮設診療所で |
大槌町では植田俊郎医師が仮設診療所で待っていただいていました。これから災害医療で来られていた長崎の先生が来院されるとのことでした。植田医師から「被災地をみてどう思われますか?」と問われ、地盤沈下して浸水域が残りまだ礎石だけの市街地の様子から「一言で言うと・・変わらない・・ですね」と答えると「その通り、ほんと変わらないです(確かに一部変わってきているのもありますが)変わりませんね」とのこと。まちの再建をどのようにするかが定まらない中では変わりようがないと思います。沿岸部には戻りたくない人たちも多く、高台での現在の仮設設置の状況を見てもおそらく分散は避けられずもとあったコミュニティも大槌の文化も維持か困難となると思います。きわめて難しい問題です。
しかし彼の答えの中に必ず新しい展開が起こることの手ごたえを感じました。というのは昨年10月の日常診療経験交流会で、「先生を被災地医療に突き動かしているものは何か」とうかがった際に、「私はまちの人間で、まちの人たちに食べさせてもらっているのです・・」と答えられたのが印象的で、また大槌町は医療過疎の地で、それだけに診療所と病院の関係・連携はよく、開業医どうしのつながりも深いとのことで、弱みを強みに変えている逆転の実践がそこにあるわけで、「あれもないこれもない」の被災地での不便を乗り越える住民視点での逆転の発想を感じたからです。
大槌川にそって上流にある大槌第五仮設の中にあってコンサート会場となった<和野っこ>は、社会福祉協議会で運営されています。カフェを常設し、①相談対応・見守り支援、②入浴が困難な方への入浴サービス、③地域の方々が趣味活動や健康維持活動などを行う場の提供、④関係機関と連携した介護予防教室等の開催、⑤障がい者の方、健常者の方が共に活動できるようなイベントの開催といった、さまざまな活動をしていきます。
ここでライフサポートアドバイザーの森田礼子さんほかスタッフの方からうかがうことができました。この仮設住宅は422世帯分あり、うち357世帯入居。独居高齢者52世帯、高齢者二人暮らし34世帯、高齢者同居68世帯。直接のサポートは行政が企業に要請して派遣されている地域支援員が行っています。大槌川、小槌川それぞれに沿って使える土地・できるところからか(聞いた限りではわかりませんでしたが)仮設につく番号は地図上では規則性がみられずこの大槌第五仮設A~Eは大槌川に沿って一番奥に位置します。【参考:大槌町ホームページ 応急仮設住宅マップ(PDF)】
コンサートには30人が参加し、楽しいひと時を過ごした |
ここでのコンサートは<和野っこ>スタッフの全面的協力の中での30名の参加でとても楽しい1時間となりました(コンサートプログラム(PDF))。健康相談はなかったですが、この集いそのものが「健康を支える会」になりました。健康相談の名をうつのでなく自然な日常生活をうかがう中で役割は果たせるものと思いました。昨年8月いわき・湯本での健康相談では「離れている子供達に福島に帰ってきていいと言っていいのでしょうか」という女性からの重要な質問は健康相談でなく会場での自然な話し合いの中で出たものでした。
3、仮設の状況・温度差
会場で気分不良の人がいたので声をかけると「いいんです・・、いいんです・・」とのこと。森田さんによると、この地の人は「いいんです・・いいんです」と言って耐えてしまうところがあってまた何かを要求して率先してされる機会が少ないですとのこと。この仮設住宅はまだ自治会が作られておらずその中で生活援助員やライフサポートアドバイザーがその支えの役割を果たしています。
医療機関や生活上での移動の足が気になりますが和野地区と県立釜石病院を結ぶ県交通バスと町民バスを使っての本数は平日1日5本(午前6時台~午後6時)・土日祝日は3本(午前8時台~午後3時台)で所要時間は1時間あまり。仮設大槌病院外来までは平日6本(午前6時台~午後6時台)・土日祝日は3本(午前7時台~行き午後5時台・帰り午後3時台)で10分。かなり限られています。
大槌町は被災地域全体がそうであったのですが震災前から高齢化・過疎化で人口減少がすすんでいたところで、沿岸部の復興の見通しが立たない中でさらに人口流失は著しく、もともとの人口が16000名のところ津波での死者・方向不明者1300名近くでほぼ1割でした。現在は5000人の人口減があると聞きます。転居先は北上、遠野、花巻で、花巻が一番多いようだとのことでした。
このような中でもおなじ東北の中で被災の受け止め方に違いがあると聞くとのこと。森田さんは「でも私は楽天的なのですよ」と言いながら語る明るさに復興の一つの鍵を見いだしました。沿岸部と内陸、太平洋側と日本海側、東北と関東・北海道、東日本と西日本。もし思いに差があればそれを最少にすることが大切となります。「被災地に集まって知恵を出し合おう」という言葉があるように、お互いが身近な関係であることがより自らの問題として受け止めることができると考えます。お互いがさまざまに情報共有・共感の中で身近な関係になっていくことが大切な一つだと思います。
4、陸前高田・国道45号線
和野っこでコンサートを11時半に終えてすぐ陸前高田病院跡地を経て気仙沼へ。陸前高では旧県立高田病院を訪れました。周辺の瓦礫の山が幾分移動されたくらいで地盤低下のため浸水域はこれまで訪問した時と変わらずの状態でした。いま手元に石木先生から送ってもらったばかりの<保存版写真集-未来へ伝えたい陸前高田>という写真集があります。その見開きに海から眺めた被災前の陸前高田の写真を背景に書かれた詩
「おらぁ やっぱり こごがいい
大津波で全部なぐなっても
地震でぼっこっこされでも
やっぱ この街が好ぎだ
やっぱ こごに居だい
こごぁ 一番だ
二度と同じけしぎぁ見れねぁども
二度と同じ建物ぁただねぁども
おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる
わっせるごどねぁ あの景色
おらどの街
やっぱり こごがいい」
大津波で全部なぐなっても
地震でぼっこっこされでも
やっぱ この街が好ぎだ
やっぱ こごに居だい
こごぁ 一番だ
二度と同じけしぎぁ見れねぁども
二度と同じ建物ぁただねぁども
おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる
わっせるごどねぁ あの景色
おらどの街
やっぱり こごがいい」
この思いに胸がうたれました。
自分たちの思いでなく、被災地の人々に受け入れられ、人々の思いや暮らしを聞かせていただき関わらせていただくことがわれわれにできる復興につながるひとつとつくづく思います。
国道45線は青森-仙台間の主要道路です。このたびは釜石から気仙沼を通りました。訪問する度に思うことですが、どうしても東北自動車道・東北新幹線・花巻空港と沿岸を結ぶ距離が長くレンタカーの使用が必要で、冬期は積雪でいっそう移動が困難になります。国道45号線そのものと花巻、一関とこの沿岸の国道を結ぶ公共交通機関の充実が被災地の復興を支える一つになると思います。大槌から石巻にいたる道路に沿っては1~2軒ほどのお店があるばかりです。地元に負担になるだけの単なるハコモノは不要ですが公的な責任で地元の産業を紹介し前向きに人を受け入れ・人の移動を支えること・交通網の整備の大切さが被災地を見て思うことの一つです。
赤沢牧沢テニスコート仮設で仮設住宅の状況を詳しく聞いた
|
気仙沼訪問では、現地で対応いただくことになった村上充ボランティアとその数日前から事前を打ち合わせを始めました。おもに仮設住宅の状態と健康問題です。またその前日、まだお会いしたことはないのですが山梨県の牧丘病院・古屋聡医師から「訪問されることをお伺いしたので」とわざわざ電話をいただきました。彼は2週間に1度現地を訪問されていて、現地の状況を詳しく教えていただき、「何か困ることがあればその場でいつでもお電話を下さい」とのことでした。こういうネットワークはきわめて人間的でありがたいものです。おかげで現地で担当された村上さんとも旧知の関係のように打ち解け速やかな訪問をさせてもらうことができました。
その反松公園住宅仮設は宮城県気仙沼市上田中の反松公園にあり96世帯あります。村上さんに自治会長さんを紹介してもらいましたが、自治会長さんが全面的に村上さんを信頼しているのが手に取るように分かりました。ここでコンサートを午後3時半から。その設営の間、村上さんと赤岩牧沢テニスコート仮設に。ここは55世帯の仮設で36世帯が高齢独居。入居の7割の人が高齢者です。入居は抽選で決められたのでお互いに顔見知りのない仮設となっています。世話役をされているうちのお一人があまりにいろいろなことがあって言葉でできなかったのだと思いますが「やはり人間関係が何につけても大切です」と繰り返されていたのが気になったことです。ここは街の中心から離れた山中にあるテニスコートで気仙沼市民病院から4-5kmの所にあります。車がないと移動が困難で、仮設住宅敷地では道路に出るための迂回路はあるものの階段は手すりがなく足の不自由な方や高齢者には危険です。行政からは予算の問題とのことで手すりの設置はできず、市の財産なので勝手に手すりの設置は禁じられているとのことでした。
ここではボランティアナースと一緒に2人の健康相談を受けましたが見通しのない中での閉塞感を感じました。先に触れたように気仙沼人口72000人から65000人で市民病院を除いて開業の耳鼻咽喉科がありません。現実的には他科がカバーしているとしても医療過疎の現実を被災地を訪問して初めて心に染みて分かることがあります。
気仙沼市で開業する村岡正朗先生から
災害時に医療を守るための経験と教訓を伺った
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反松公園仮設に戻り村岡正朗医師に会いました。彼の書かれた月刊保団連2011年10月号の特集<避難先でも、医者だった-被災から2日間の記録>は事前に目を通していましたが、震災・津波で避難所となった救護所・訪問診療ボランティアでの医療と先の見えない中での自院の再建と大変なとりくみをされたことを感じました。患者の窓口負担免除の必要性は患者を守り地域医療を守る上でとても大切なことであると指摘されました。これは17年前の阪神淡路大震災でもまったく同じことでした。医療機関再建について行政が助成金について当初提示したのはもとの地に建てることを条件としたことなど現場を見ず時間的にも内容的にも実情にそぐわないものであったことを指摘され、宮城県保険医協会発行の<2011.3.11あのときを忘れない-東日本大震災-活動の記録>で、先が見えないことでの政府の無能さを感じられたこと、「高齢化約30%、医師数115.3人/10万人のこの地域でおきた震災による医療の停滞は、日本の地方都市で今後徐々に起きるであろう状況が急激に顕在化したと思っています。この地域の医療を含めた再生は今後のモデルケースにもなりうるのではないでしょうか」と述べられており、ここに被災地に関わらせていただくわれわれの課題があると思います。
コンサートは30名の参加で楽しく集合写真を撮って終わりました。その帰り最後まで見送ってくれた村岡医師と村上ボランティアが仮設の人が親しく話しをされている姿に地域医療を担っている医師と心強いボランティアの姿を見ました。
6、仙台・宮城協会での懇談会・窓口一部負担金減免のとりくみ
気仙沼の仮設でのコンサートを終え午後5時に出発。午後8時前に仙台に到着。午後8時から北村龍男宮城協会理事長・井上副理事長・鈴木和彦事務局長と八木、清水、広川、黒木、楠と保団連新聞部から取材に当たった長田逸生事務局員も参加して懇談しました。内容は多方面にわたりましたが、被災地の問題では窓口負担免除の延期が必要と言うことでした。宮城協会の会員へのアンケート(回答156)と通院患者に対する「医療費自己負担免除アンケート」(回答794)を行い、負担金免除で医療機関にかかりやすくなったが78.2%。そのうち免除される前は我慢していたが31.2%、回数を控えていたが59.9%だったとのことでした。会員アンケートの自由記載欄では「仮設での生活の落ち込み」「やっと通院する気になった被災者」「仮設で何もする気にならない」「食べてテレビを見て、私でないみたい」などみられているとのことです。なんとか減免措置の継続が続けられるよう運動をしていく必要があると話しあいました。
9月末での被災地での患者負担免除打ち切りは十分な医療が行えなくなり地域・医療の復興の深刻な停滞が予測されます。保団連も今月12日、被災前の生活に戻るまで窓口一部負担金免除措置を延長し国が財政措置を講じるよう緊急要請を行っていましたが、厚生労働省は7月24日、東日本大震災で被災した国民健康保険加入者らの医療費自己負担分などを免除措置について、9月末で期限を迎えた後も既存制度を活用して負担軽減を続けることを決めたという報道が入りました。国保や介護保険の保険料軽減も継続するとのことですが、医療費などの減免に必要な費用を国が全額負担する現行措置は見直して国保を運営する市町村に減免費用の最大8割を支給するということで、国の財政措置とはならないことでこのままでは自治体の負担が大きな問題となると考えられます。
7、宮城県亘理町・公共ゾーン第三集会所
亘理町は仙台市から南に26km、仙台空港から南に車で15分ほどの位置にあり果樹・花卉栽培や特にイチゴの東北一の産地です。阿武隈川河口の海浜部には汽水胡の鳥の海(とりのうみ)があります。津波で沿岸部300名の方が亡くなりました。イチゴ農家380戸のうち356戸が津波被害を受け塩害で数年間イチゴの栽培が危ぶまれていましたが、今回の訪問では車窓から被害の少なかったところからイチゴ栽培が行われているのが分かりました。
今回コンサート会場の準備や案内にはチラシや地元FM放送での紹介などで鳥の海歯科診療所の上原忍先生に全面的にお世話になりました。田んぼの中に建てられた公共ゾーンと名付けられた町内一大きな558戸で約2,000人が入居している仮設住宅があります。公共ゾーンでは、建設された順に第1、第2、第3集会所と分かれ、その中でも最も戸数が多い第3集会所(計256戸)でコンサートが行われました。張り紙や案内チラシもたくさんありさまざまなコンサートやイベントが行われています。
会場の設営は集会所の世話人の人たちやみんなで寄ってすすめ、電子ピアノの搬入も予定通りで、リハーサルから賑やかで、コンサートは50名の参加で盛り上がりました。宮城協会はコンサート・健康相談の後援で鈴木事務局長が参加してくれました。保団連からは長田事務局員が取材にあたりました。
仮設の外は風がやむとアスファルトの敷地の熱気がこたえますが、田んぼから風が仮設住宅に吹くと意外に涼しく、クーラーを回している住宅も余り見かけませんでした。田んぼでは網を持って虫取りをしている母親と子供の姿もみられました。集会場の外にも風に乗って音が流れ不思議に子供時代の懐かしさを感じました。
8、ふるさと復興商店街・<菊一>商店
仮設の一角に30軒近くの荒浜地区商店街の人たちが再開した東郷地区仮設施設・仮設店舗「ふるさと復興商店街」があります。郵便局やパーマ屋さん、鍼灸院、鮮魚店に惣菜屋さんなどなどあります。設営の合間の時間をみて私が入ったその仮設店舗の中に<菊一>というコロッケの店があります。5~6人の女性が窓から見える調理室で生き生きと働いてられて、お店自体はテーブル1台だけでコロッケ1個70円。揚げ物中心でアルコールはおいてありません。店長さんに聞くとスタッフは一人除いてみな津波で家を流されたとのこと。亘理町では仮設の妊婦さんに仮設だけで使える週1000円のクーポン券を支給しており、妊婦さん達がそのクーポン券を持ってコロッケなどを買いに来てくれるとのこと。あちこちから話しを聞いて仮設内外から買いに来てくれる人たちや、近くのデイサービスの職員さんがまとめて買いに来てくれるのでとやりがいがあるとのことでした。とてもおいしい気合いの入ったコロッケでこれからの復興の励みの一つの場所となることと思います。ほかのお店の紹介はできませんでしたが力づよい復興の一歩を感じました。
9、中浜小学校・手打ちそば専門店<かとうや>
コンサートを終えて長谷川さん、轟木さんは中浜小学校の先生に被災地と中浜小学校の案内をしてもらうことになりました。海岸から300mの所にあった中浜小学校は一旦は体育館に避難するも校長の判断で全生徒が2階建て校舎の屋上にかけ上がりその結果全員が助かったところです。校舎が全壊したことでいまは坂元小学校で授業されているとのことでした。
亘理町<かとうや>前で
鳥の海歯科・上原忍先生らと
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われわれは上原先生の奥さんの友人がこの7月8月に阿武隈川の堤防に沿った荒浜に再開・開店したばかりの手打ちそば専門店をすすめてくれました。名前は<かとうや>。
河北新報によると、元の名前の加藤屋は地域の人々に親しまれ80年前から営業していたのですが津波で1.7m浸水。店主の磯田俊一さんが修繕して昨年末にようやく再開したその3週間後に製麺機に巻き込まれて急死。「この場所で生きたかった父の意志を継ぎたい」と娘さんの磯田美恵さんが、父の死を招いた機械には抵抗があり、大学時代の友人を誘い手打ちそば店での再開を決意。最初反対した母親の磯田恵子さんも根負けして店が守り続けた味のつゆ作りと花番を買って出たとのことです。荒浜では自宅を再建した人たちが少しずつ戻りはじめ、先に触れた仮設住宅の人々も多く、一方営業を再開した飲食店はまだわずかで「地域の方が再び集まって交流を深める場にしたい」のこと。
店主の美恵さんに店の真正面にある6.2mの阿武隈川の堤防に案内してもらいました。この堤防は国交省が津波防災のため1mのかさ上げを計画。のり面にある県道の拡幅がされると今の場所は立ち退きになるとのこと。このままでは街並みがなくなってしまうこの計画に反対する美恵さんは「さまざまな困難に『勝とうや』の思いを込め」、屋号を<かとうや>としたとのことでした。
亘理を訪問されればぜひ<かとうや>に。
10、鳥の海ふれあい市場
<かとうや>から空港に向かう道で偶然<鳥の海ふれあい市場>を見かけました。昨年の12月23日にオープン。土日の営業で限られますが地元の季節の野菜や鮮魚、ジャムなどの加工品など仮設住宅の人たちがつくった竹かごやストラップなど。こういった所での品物はお土産などにして手渡すと被災地とその人の気持ちを近づけるものになります。地元での交流や活気がたかまりや被災地を訪れる人たちとの交流のいい場所になると思いました。お店の人の感じもよく亘理の街を少しでも復興していこうという気持ちにあふれていました。そういった気持ちにぜひとも応えていきたいと思います。
11、コンサートについて
ソプラノの長谷川さん、ピアノの轟木さん、ギターと司会の八木先生の一見急ごしらえの演奏はは気も心も通ったものでした。お疲れ様でした。八木先生をプロの音楽家と思っていた人も多く「産婦人科の先生ですよ」と言ったら驚いている人たちがいました。
「クラッシック音楽をつい身近に聴くことがなかった」と感想をうかがいました。「元気をもらいました」「今日は一日幸せです」「また来て下さい」と楽しんでいただき、いつまでも見送ってもらいました。再建の励みにもなり、仮設内外の人達とのはばひろい交流もでき、参加された方々にとってとてもいい機会になったことと思います。肩を音楽に合わせて揺すり続けた人たちの姿を思い出します。
今後もさまざまな形でのあらゆる分野で協会としてふさわしい協力ができればと考えます。
12、まとめ
訪問先でお会いできた先生方はみなそれぞれ手応えをつかんでおられるのが感じられました。たとえば、上原先生は数ヶ月間の休診にも関わらず「医院の再開ではもとのスタッフ全員が揃ってくれた」など・・。普段の日常診療がそのまま返ってくることもよくわかります。
被災地の訪問は復興の課題をその地に暮らす人達を通して教えていただき学び、さまざまな形で地域再建に少しでもつながる形で返させてもらうとりくみで今回も多く学ばせていただき今後のつながりも深まりました。その結果を協会活動につなげていきたいと思います。
これは「被災地に集まって知恵を出し合おう」「被災地から招いて教えてもらおう」というとりくみの一つでもあり、こういったとりくみを通して少しでも共通の認識に高まっていくことが被災地の災害からの復興と今後この国のどこにでも起こりうる災害の防災・減災につながるものだと思われます。
これからもより多くの協会会員の被災地訪問の機会をつくり現地で医療過疎の現実をみてその解決をともに考える機会を持つこと。仮設住宅住民の生活上の安全性・今後にかかわる内容を地元のボランティアに協力し、行政が行う施策に役立つ地域住民の自主的な地域のとりくみに協力する。地域の文化伝統復興に協力する。今回は訪問できていないが福島の課題を病院訪問などを通じて明らかにすることなど考えました。
長谷川さん、轟木さん、八木先生、清水先生、黒木さん、楠さん、ハードなスケジュールおつかれさまでした。
2012/07/28 広川 恵一