2011年12月26日月曜日

現地レポート40 姫路市・津田賢治先生より

9月23~25日の東日本大震災被災地歯科医療支援に参加した、協会評議員の津田賢治先生(姫路市・歯科)の参加記を紹介する。


 初日は飛行機で仙台へ。宮城県災対連東日本大震災共同支援センターを訪問、「被災者に歯ブラシを届けよう」募金を託しました。
 その後、宮城県内でのシンポジウム「震災復興と医療再生」に参加しました。シンポジストには、宮城県医師会から桜井芳明副会長、宮城県歯科医師会から細谷仁憲会長、宮城県保険医協会から北村龍男理事長、宮城県災害拠点病院・坂総合病院から今田隆一院長、行政から宮城県保健福祉部・佐々木淳次長、宮城県の各組織や医療団体の代表が参加していました。
 私は歯科医師ですので、5人のシンポジストの中で宮城県歯科医師会の細谷会長の発表が一番印象に残りました。歯科の窮状、高齢者医療における歯科の重要性、歯科からの医療界や行政への要望などを熱心に話されていました。
 シンポの最後に、川西敏雄先生(兵庫協会副理事長)が16年前の阪神・淡路大震災の経験について話されました。先生自身が震災で自宅が全壊し、先生のお父様の診療所と自宅が全壊という状態で再出発されたこと、その時の行政の対応に砂を噛むような想いをたくさんされたこと、同じ経験を東日本大震災被災者にしてほしくないこと、大多数の方々が避難所から仮設住宅への入居が決まってきたこの時期からの注意点、仮設住宅での生活が1年、2年と長引いてきたときに起こる諸問題など、阪神・淡路の経験、データなどを配布しながらお話されました。
 その中で、「被災者は行政に受身の態度で『してもらう』のを待つのではなく被災者自ら一人一人が声を上げてください」とのお話が参加者の胸を打ち、今後の復興の取り組みの背中を押したように感じました。
 2日目は、朝一番に東松島市鳴瀬歯科診療所の五十嵐公英先生のところへ表敬訪問しました。次に、川西先生と小寺修先生の思い出の場所の東松島市矢本保健相談センターと、現在も避難所となっている釜小学校、矢本運動公園の仮設住宅を訪問しました。仮設住宅の自治会副会長2人が口をそろえて仰ったのは、「何もかもが初めての経験で分からないことだらけ。
全てが手探り状態。悩んでばかり」ということです。ここでも川西先生が持参した阪神・淡路の仮設住宅でのデータが喜ばれました。
 3日目は、現在も避難所でもあり震災ボランティアセンターにもなっている湊小学校に行きました。ボランティア団体の「チーム神戸」が支援に入っており、避難所の運営を任されていました。ここでは3月から9月まで歯科往診に来てくれたのは2回きりとのことで、義歯が痛かったり義歯がゆるくて食べにくいと訴えられる方がたくさんおられました。ここで、小寺先生が大活躍されました。手持ちの限られた機械と材料で義歯のリベースや調整をなさり、避難所の方々も大満足の笑顔でした。
 最後に、宮城県の女川市周囲は今回見た中でも被害が最も大きいところでした。まるで原爆投下直後の広島の写真の風景を実際に目で見ているようでした。
 被災者を励ますつもりで行ったにもかかわらず、逆に被災者の笑顔に励まされました。自分の小ささと無力さを恥ずかしく思いました。同じ日本人が大変な事実を受け入れ前向きに頑張っておられます。砂を噛むような思いを笑顔で吹き飛ばしておられます。
 私にとって、とても勉強になった3日間でした。参加させていただき、本当にありがとうございました。

2011年11月10日木曜日

現地レポート39 姫路市・池内春樹先生より

協会の池内春樹理事長は、10月14~15日、東日本大震災の被災地である岩手、宮城、福島を訪問。地域医療を続ける県立病院や、仮設住宅、被災協会を激励するとともに、関係者に現状を聞き、改めて被災地のニーズの把握を行った。その上で、阪神・淡路大震災時に協会が取り組んだ「仮設住宅調査」の内容を伝え、仮設や復興住宅で起こった孤独死の悲劇を繰り返さないためにも、医療・福祉拡充を求める運動を強める必要性を各所で訴えた。池内理事長のレポートを紹介する。

 伊丹から空路、花巻へ。空港では、震災直後から岩手県の支援を続ける青森協会の中村寛二参与、事務局の藤林渉さんの案内で、民話の里・遠野を経て、一路陸前高田へ。
 陸前高田では、二つの仮設団地を訪問。竹駒町相川の仮設団地では、青森協会が中心になり、避難所の人たちを招待した「浅虫温泉慰安ツアー」で元気になられた方の住居に案内していただく。この仮設住宅は、新築の文化住宅のようにきれいでしっかりしているものの、「4畳半二間で狭いのが困る」とのこと。先日も、お孫さんが来て7人で寝たとの話。医療機関へは巡回バスの送迎があるそうだ。
 陸前高田第一中学校の仮設団地は、高台で多くの人が逃げのびてきたところに建っている。ここの仮設住宅は、工事現場の建物のよう。断熱剤が入っていないので、後から取り付けたとのことだが、冬に向かい不安がつのる。仮設の岩手県医師会・高田診療所が併設されている。
 続いて仮設の岩手県立高田病院へ。ここで陸前高田市教育委員会・横田祐佶委員長に話を伺う。横田先生は先述の高田一中の避難所長も務めておられたそうだが「常に皆が顔をあわせていた避難所と違い、いかに仮設住宅でコミュニティをつくるかが重要。心のケアの問題等、十分に配慮して取り組みたい」と、課題を語ってくれた。
 高田病院院長で、10月30日の日常診療経験交流会にも来ていただいた、石木幹人先生に病院を案内していただく。「仮設の40床の入院病棟を新たにつくる許可がでた」と、ひとまずほっとしておられた。
 夕方には盛岡の岩手協会で、箱石勝美会長にお会いする。岩手の現状をお聞きし、被災地訪問の感想を伝えた。岩手県は山が多く平野が少ないので大変とのこと。
 翌日15日は宮城協会を訪ね、北村龍男理事長から現状をいろいろお教えいただいた。中でも東北大学医学部が中心となる「メディカルバンク構想」は、阪神・淡路大震災後の「医療産業都市構想」そのもの。その後福島へ移動し、保団連公害視察会に合流した。
 被災三県はこれから冬に向かい寒さ対策、インフルエンザの蔓延など、課題が山積している。また、コミュニティを作るために、集会場も完備した恒久的な県営住宅の建設が待たれる。
 今回の訪問では、訪問した各所で、仮設や復興住宅での孤独死など阪神淡路大震災の経験をお話し、協会が当時行った「仮設調査」の結果から、予想される課題を伝え、資料をお渡しした。ハコモノ復興でない、人間本位の復興のために、大きな運動をつくっていく必要性を痛感した。

2011年10月18日火曜日

講演会のご案内

兵庫県保険医協会北阪神支部総会記念講演(市民公開)

原発゛安全神話″の崩壊と代替エネルギー
~福島第一原子力発電所事故から考える~


日時:10 月22 日(土) 15:00 ~ 17:00

会場:伊丹市立商工プラザ4F 会議・研修室A
(伊丹市宮ノ前2-2-2 阪急・JR 伊丹駅から徒歩約8 分)

講師:岩本 智之 氏(元京都大学原子炉実験所教員)

参加費:無料

案内チラシ(PDF)



 3 月11 日に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所事故は、水素爆発、汚染水漏れ、メルトダウンなどを相次いで引き起こし、多くの避難者を生み出しているばかりか、事故から数カ月経た今も終息の目途が立たず国民に大きな不安を広げています。
 今回は、長年原子炉実験所で教鞭をとられた岩本先生に、今福島で何が起きているのか、今
後何が起こりうるのか、とりわけ「原発は安全」「化石資源の枯渇には原子力で対応」「原子力
は安く二酸化炭素を出さない」などの原子力神話を正面から検証していただきます。
 代替エネルギーのへの転換が叫ばれる昨今、私たちの日常生活や習慣を見つめ直すためにも
この機会にぜひご参加ください。(副支部長 脇野記)


岩本 智之 ( いわもと さとし) 氏ご紹介
 1940 年生まれ/京都大学理学部地球物理学科卒/元京都大学原子炉実験所教員/日本科学者 会議常任幹事/著書『最近暮らしの中の環境問題 Q&A』/ 3.11 後全国で講演多数


お問い合わせは、TEL : 078-393-1817 事務局 吉永・小川まで

2011年9月12日月曜日

現地レポート38 西宮市・広川恵一先生より

いわき湯本<ほっと一息コンサート>・<健康相談>と
仙台・宮城協会事務所にて<鳥の海歯科医院>上原忍歯科医師との懇談

兵庫県保険医協会 西宮芦屋支部
広川内科クリニック 広川 恵一

 今回の目的

     
  • いわき・湯本での被災地コンサートと健康相談(健康と医療を語る会)の実施
  •  
  • この経験を今後の被災地でのコンサート・健康と医療を語る会につなぐ
  •  
  • 亘理・鳥の海歯科医院の上原歯科医師に企画内容を説明し被災状況のお話を伺う
 
 

 8月20日・21日はいわき湯本での福島協会の協力を得て<ほっと一息コンサート><健康相談>のとりくみと翌日宮城協会事務局での亘理・鳥の海歯科医院の上原忍歯科医師との懇談を行いました。

 参加は兵庫協会から清水映二研究部長と黒木直明次長。福島協会から木村守和理事・緑川靖彦医師、菅原事務局長、保団連から取材に工藤事務局員。

 私は午前の診療をスタッフの協力を得て早々に終えて、午後1時前に新大阪駅で奏者の劉揚夫妻に合流し現地に向かいました。湯本駅では女将が黒木次長と一緒に車で迎えに来てくれました。

 劉揚は阪神淡路大震災では中国人留学生の民族音楽集団<長城楽団>で各所の避難所・仮設住宅でのボランティア演奏を続け、その後も協会西宮芦屋支部で震災1年・10年・15年メモリアルで長きにわたって協力してくれています。

50人が参加し二胡の演奏に心を和ませた
 <ほっと一息コンサート>は午後7時から8時半まで行われました。この日は地域の盆踊りと重なってしまい参加者は避難生活をしている人20数名を中心に50名。このネーミングは青森協会の<ほっと一息プロジェクト>から借用したものです。


 受入はいわき・湯本<新つた>で原発事故現場から49kmで事故現場から国内の温泉地としては一番近いところにあり、緊急時避難準備区域に指定されているおもに広野町からの人々の避難所、原発関連・仮設住宅関係の人たちの受け入れ施設となっています。旅館協同組合の28軒ある旅館が避難所・震災関連の宿泊施設となり休館状態で営業再開の将来の見通しがもてない状態が続いています。地域の人々はあとで触れるように十分な情報がない中で被曝の不安を大きくもって生活されています。このたび会場を快く提供していただき受け入れてくれました。

 <新つた>は野口雨情の常宿宿また美空ひばりもときどき利用していたということで、雨情のメドレーや美空ひばりの<川の流れのように>は参加者だけでなく旅館の女将・ご主人・スタッフの喜んでもらえるところになり、ご主人がおばあさんから聞いた雨情の話やひばりの思い出など聞かせてもらいました。



健康相談では被災地の深刻な不安が寄せられた
  <健康相談>では別室にコーナーを設け、血圧の測定や発作性頻拍の相談などがありました。同施設で避難していて、母親が老衰で亡くなられ、その日、葬儀があった(そういうこともあってその日<新つた>は朝からとてもあわただしい日となっていました)60歳前後の息子さん夫婦が演奏会に来られていて、女将からそれを聞き、私がお悔やみの声をかけたところ相談されました。車の運転の仕事をしていたが津波で会社がなくなり失業中。かかりつけの医師から胸の下側に丸い影が見つかったのでCTを撮るようにいわれているが怖くて行けないということ。木村医師はかかりつけの医師をよく知っていて安心して先生のお話しの通りするようわかりやすく説明してくれました。

 もう一人の40才代の女性は子どもたち二人が離れたところの学校に行っているのだけれどいまの状況で戻っておいでと行ってもいいものだろうかという質問がありました。何よりも正しい情報が示されていない事からの不安です。すべての人たちがもっている不安で湯本にも線量計が自主的に設置されモニターされています。
 原発事故責任をとらせること、正しい情報が責任もって提供されること、健康管理が国の責任で行われることが大切と考えられます。具体的な対象や内容は早々に詳細に決定される必要があります。福島はじめ広範な被災地域には世界に情報の発信と共有をはかり国と自治体の地域住民の健康管理と治療の完全責任を果たさせる役割があると思われました。

 演奏会・健康相談が終わって、午後9時から夕食をとりながら当日を振り返りながら奏者も交え福島協会の先生方と話し合いました。日常診療では在宅医療・緩和医療・病院から診療所への病診連携など難しさなどどう解決していくかそれぞれの経験や思いを語り合いながら、今回の津波被害と原発被害について話がすすみました。午後10時半には木村先生・緑川先生は翌日の研究会の講師などあり戻られ、あと5人での話が続きました。菅原事務局長が協会に勤務した1983年に当時の桐島会長の発言が協会活動のあり方の基準になっているという言葉にうれしく思い話が弾みました。

 翌日は午前6時に朝食、7時過ぎに菅原事務局長の運転で福島に向けて出発しました。劉揚夫妻については女将が午前中、市内とそれぞれちょうど1ヶ月前から再開が果たせた<いわき石炭化石館・ほるる>・<アクアマリンふくしま>に案内してくれました。今後阪神淡路大震災でボランティアワークしてきた人たちをはじめ多くのアーチスト達の被災地でのイベントがさらにひろがることと思います。車中ではわれわれは菅原事務局長から福島の状況・課題について詳しくうかがうことができ同じく今後の交流の拡がりの可能性を感じることができました。

 午前9時40分には宮城協会に到着。日曜日にもかかわらず野路事務局長・事務局の方が準備してくれていました。ちょうど10時に上原先生がこられお話しを伺いました。上原先生には10月30日の兵庫県保険医協会・日常診療経験交流会に前日から来ていただくことになっておりその企画内容の打ち合わせと被災状況と現在の状況についてうかがうことが目的でした。

 上原先生の医院は海岸から1kmのところにあり3月11日地震のあと、津波がくるとの警報で患者さん・スタッフを帰宅させたあと、2階で後片付けをしていると、あっという間に2階の高さまでの津波の直撃を受け、1階の診察器具・諸機器・パソコン・カルテ・書類はあっという間に押し流されてしまい、人や車が流されていくのが目に入り一時は覚悟したとのことですが、1階部分は鉄骨で建てていたので奇跡的に助かることができたとのことでした。
 津波は7km内陸まで到達し、水が退かず翌日漁船の人のゴムボートで中学校の3階に避難し、その翌日自衛隊のヘリコプターで隣の岩沼市に脱出し、そこから歩いて25km離れた仙台の娘さんのお家にたどり着かれたとのことです。そのあとも地区歯科医師会・会長の役割で安否確認や死体検案に参加されています。
 幸いなことにご家族もスタッフのみなさんも無事でしたが診療所は全壊判定を受け、これまで蓄積してきた研究の記録も流されてしまい、今後の診療再開をさまざまに考えられながら、生かされたという思いの中で被災地の人々のために尽くしたいという気持が自然にわき上がり、別の地に仮設診療所を建て9月7日から診療を再開されることにされました。
 上原先生と1時間半ばかりお話ししてお別れしてから、私自身これまで避難所を二回にわたって訪問した亘理に向かいました。東部自動車道からみる海岸部はまだ土地は黒っぽく枯れて茶色になった草が残り一部に損壊した車がまだ散見されましたが新しく緑もひろがりをみせ5ヶ月の時の流れを感じさせてくれました。汽水胡の鳥の海の周辺は瓦礫が山積みとなっており、近くの上原先生の医院とその周辺をみせていただきましたが津波の激しさを今も残しています。

 亘理から近くにある仙台空港から帰路につきました。この度も被災地で静かに被災地に向き合っている医師達や多くの人々に出会いこれからの日本全体の災害対策に心を寄せ合っていく思いをつよく持つことができ、兵庫協会の震災対策のとりくみに少しでも役立つことができればと思った次第です。

現地レポート37 西宮市・広川恵一先生より

7月16日(土)~17日(日)(18日(月・休))
いわき・湯本、仙台・宮城協会、陸前高田、盛岡被災地訪問報告



兵庫県保険医協会 西宮芦屋支部
広川内科クリニック 広川 恵一

目的

今回は兵庫協会としてできる震災対策の一環として

  1. 地震・津波・原発事故の被災地の課題をさまざまな立場から身近に聞かせていただくこと
  2. われわれのとりくみでできることを明らかにすること
  3. 被災地と兵庫協会・会員の距離をさらに近づけること
  4. 協会の10月の日常診療経験交流会での交流と講師をお願いする
  5. とりわけ協会および講演を引き受けていただける先生に現地で直接お願い~連絡を取る
  6. あわせて<被災地の生活と医療と看護>の講演をいただく先生方への献本と
  7. 西芦支部としては阪神淡路大震災後から交流のある旧名塩仮設住宅の自治会長・北田昭三氏が仮設在住時からいまも人々の交流の目的で手作りされている大きな24面体サイコロを二日前に託されそのうち7個を現地に届ける
以上のことがありました。

参加者は清水映二研究部長と黒木直明次長と私の三名。


行程

(16日)東海道線→常磐線→いわき・湯本/湯本泊
(17日)湯本→いわき→郡山→仙台→仙塩街道→大和IC→関IC→陸前高田病院→花巻南IC一→盛岡南IC/盛岡泊

訪問先

16日(土)
ゆもと・新つた/女将・若松佐知子氏
17日(日)
宮城協会/北村会長・井上副会長・野路事務局長
陸前高田/青森協会 大竹会長・広野事務局長・中村前事務局長
盛岡/石木幹人県立高田病院院長


16日(土)は福島・いわき・湯本で原発事故現場から49kmのところです。
いわき・湯本には小学校時代からの友人がこちらの病院で勤めています。
新大阪を午後1時47分に発って湯本には午後7時9分の着でした。

湯本は事故現場から温泉地としては一番近いところにあり、住民は十分な情報がなく被曝の不安を大きくもって生活されています。

緊急時避難準備区域に指定されているおもに広野町からの人々(最大時80名余り現在49名)と原発関連で作業している人たち(最近では愛知県からの機動隊50名)を受け入れています。
ここでは3月11日以降繰り返す地震と原発事故被害について詳しく現場のお話しをうかがいました。

28軒ある旅館がすべて宿泊できない休館状態で営業再開の将来の見通しがもてない状態。
災害時での雇用保険の失業手当受給期限が来年5月まで延長可能となったことからそれまで再開は無理ということかとか、原発事故収束に数十年かかるということは再開は無理かとかという不安があり、毎日の生活のこととしては、一日前初めて戸外で布団を干したが大丈夫だろうかということをはじめとして 、被爆はどれほど深刻なものかなど情報が入っていないこと多くの問題がありました。

スーパーでの野菜は「福島県産」・「茨城県産」・「その他」と書かれていて、福島県産はただのような値段だそうです。

地震が続いていますがその中でも4月11日・7月11日(7月10日でなくその翌日)には湯本を震源地とする地震があったが全国的には大きく報道されず、それは原発が近くにあるからではないかとのことでした。

それに別に有名な人に来てもらおうとは思っていないが来てくれる人もなく、この地は忘れられているようでそれがさびしく感じられるということでした。

彼女には阪神淡路大震災でのボランティア活動以後、西芦支部での震災メモリアルでも協力を得ている二胡奏者・劉揚のCD二作目を前回5月の訪問時に手渡して館内放送をしてもらって、避難されている人たちに喜んでもらっています。
女将からも劉揚の奥さんに電話で話してその模様を伝えられています。

このたび一作目のCD(これは劉揚の手元にも在庫がありません)を届けました。
彼自身そのようなことがあったので現地で演奏会ができることをつよく希望しており、女将も場所や声かけなど市役所とも協力して日程を調整してコンサートを企画したいとのことです。
今回訪問の3名がその協力に当たることになりました。
宿泊は<新つた>に便宜的に泊めてもらいました。
朝は職員の方に挨拶して6時に出たところそれを聞いた女将が駅まで追っかけてきて、朝食に用意してくれていた握りたてのおにぎりを二個ずつ三人に届けてくれました。

17日(日)は午前6時30分に湯本を発って仙台に午前9時26分着。
午前10時から宮城協会北村会長・井上副会長・野路事務局長と1時間懇談・打ち合わせ。
診療はほぼ復旧していますが(診療科によっては無医地区状態のところはまだあります)、
仮設でのPTSD、アルコール・精神領域の問題や孤独死に対する対応をすすめるため震災を経験した兵庫協会からケアマネ・ヘルパー・保健師などスタッフにサポートができる医師などの派遣のお願いを受けました。
これはこちらの方で宮城協会と連絡をとりながら整理して具体的に対応できるようすすめたいと考えます。

阪神淡路大震災の経験や記録が十分に活かされているとは言い難く、一部負担金の免除の要件が厳しく失業手当をもらっている場合は免除の打ち切りとなるようで運動面で取り上げてほしいとのことでした。

この秋の協会の日常診療経験交流会にお話しに来ていただける歯科医師の紹介を宮城協会にお願いしていたところ、亘理町で津波に診療所を流された鳥の海歯科医院の上原忍先生より協会での会談の時間中に奥様から電話が入り、先生からの伝言で「これは被災を受けた私たちの義務と思います」と快諾をいただきました。

仙台から塩竃までの仙塩街道を通り大和ICから東北自動車道に入り一関ICで降り、午後3時過ぎに県立陸前高田病院の跡地で青森協会の大竹先生、広野事務局長、中村前事務局長と合流しました。

高速道路は一関IC出口混雑で2kmに半時間かかりました。
これも問題になっていることで、被災証明・罹災証明・罹災証明届出証明で申請すると自動車道が無料となることで(ETCはその点検ができないので)、通過する車はほとんど無く一般出口がその点検作業もあるので時間がかかった次第です。


県立高田病院の周囲は無人で瓦礫が所々に山のように寄せ集められ、それ以外に回りに何もなく荒漠とした状態で、太陽がぎらぎら照りつける中砂埃が舞いハエがまとわりついてくる中で立ったまま15分話し合いを行いました。
陸前高田の人口は2万4千人でうち死者・行方不明者およそ2千人、倒壊した家屋は3千戸。10人に一人が犠牲となるという大きな被害を受けています。

未だ荒漠とした病院前で意見交換を行った
三陸での長期の医療支援が必要であることで、行政は1ヶ月の期間の医師支援がほしいとのことですが、それは診療の継続もさることながら交通費を気にしてのことのようでもあるようだ、とのことでした。

研修医の派遣という意見も出されているとのことですが、あくまで被災地の中で学ぶことのできる指導医などの条件と健康・精神面を支える体制があってのことで、単なる労働力にしないようにすることが大切で研修医派遣の場合はそのあたりの注意が必要になります。

岩手・三陸については青森・岩手協会と連絡をとりながら、医療ニーズをつかむことが課題になると思いました。

陸前高田は1mの地盤沈下がありもとの住所に戻りたいという人、戻りたくない人・決めかねている人たちさまざまで、陸前高田市の再建は極めて難しいものがあるようです。
大槌町の同じく医院を流され学校にあった机一つから仮設診療所を作って診療を開始された植田俊郎先生にその場で電話して快諾を得ました。
大槌町には車では午後5時到着となりその時間は植田先生にすでに予定が入っておられ、お会いできる時間がとれず電話でのお願いになりましたが、日常診療経験交流会の趣旨はじめ今回の目的について十分にお話しすることができました。

帰りは車の中にハエがたくさん入り込んでいて、すべて追い出すのに一関のインターまでかかりました。
青森協会はハエ取り紙を現地に届けて喜ばれたそうです。
現場に身を置くこと・話しをよく聞くことの大切さをあらためて感じました。
こちらのハエはそう大きくはなかったですが大竹先生によると、釜石のハエはかなり大きいそうです。

また青森協会はインターネットでの通信環境をととのえるということで、連携のとれる医療機関にパソコンの提供などすすめて情報の収集や対応に役立てているとのことでこのことも学ばせてもらいました。

花巻南のインターに向かい盛岡南で降り、午後7時に盛岡で待ち合わせして陸前高田病院の石木幹人院長とお会いできました。
病院の被害は甚大で津波は病院の4階の高さまで押し寄せ、15人の患者さん・8人の職員が犠牲になり、病院の屋上で160名が取り残されました。
陸前高田市は先に触れたようにもともと2万4千人の地域で高齢化率34%。
市民の76%が被災し(南三陸町、大槌町は被災率50%、)開業医が7人中2名がなくなり、県立高田病院の先生一人が辞職され、「陸前高田から高校も病院もなくなるのではないか」と心配する市民の声もあるとのことです。
医療課題も医療への期待もきわめて多く、石木先生は職員と力を合わせて被災地医療の責任を果たされています。
この模様はNHK・ETV特集<失われた3万冊のカルテ~陸前高田・ゼロからの医療再生~>で報道されています。

被災の状況とわれわれが何かお手伝いできることなどうかがい、兵庫県保険医協会日常診療経験交流会についてこれまでの歴史から説明させていただき、あらためてこの秋に来ていただけること快諾をいただきました。
(個人的なことですが、私が中期研修にお世話になった指導医の野宮順一先生が彼のいとこにあたることが分かりお互いにとても身近な感じを持つことができました)

翌日は午前7時半に盛岡を発ち車で仙台に、仙台から東北新幹線で帰りましたが、おそらくは<東北六魂祭>と三連休ということもあってか、東京駅まで指定席は終日満席でした。

被災地の課題の多さに16年前を思い出しますが、広域であり津波被害に加えて原発事故でもともと医療過疎であったところでの災害だけにその被害の実態には依然として筆舌に尽くせないものがあります。
これは自分たちの課題であり、考えられることをすすめていくことができればと思います。

宮城協会での会議で繰り返しお話ししたことですが 、今回の日常診療経験交流会への講師のお願いということでおわるのでなく、震災へのとりくみは長期につづきこれからもさまざまな形で交流を続けていくことができればと考えています。
今回は実にいろいろな意味で大切な機会になったと考えています。

震災・災害対策は発災後からはじまるのでなくそれまでからあるということを今回のいわき・宮城・陸前高田・盛岡の訪問でまた痛感した次第です。

今回を踏まえてこれからのとりくみ

  • 宮城協会から依頼があったPTSD・精神疾患・孤独死などについてのケアマネ・ヘルパー・民生委員・保健師サポートのための講師派遣
  • 日常診療経験交流会の東日本大震災企画のとりくみ
  •  1)前夜の座談会・交流内容 2)翌日の講師の移動にあわせたプログラム編成
  • いわきでの(原発事故にかかわる)講演会とコンサート(”ほっと一息コンサート”)と健康相談(健康と医療を語る会)
  •  ボランティア活動をはじめとしてさまざまな形のかかわりについて検討することなど。 とくに健康相談では地域の医療課題が鮮明に見いだせる場所であることを位置づける。 1)該当協会への報告・相談と協力をいただく 2)保団連・被災地各協会からの協力をいただくようにする 3)地元・行政との協力を得るなど 4)兵庫協会の震災対策で位置づけ
  • 被災地から日常診療経験交流会に来ていただく先生とこれからの交流
  • 青森協会・宮城協会・岩手協会・福島協会との連絡・連携
  • その他

おわりに

東北は遠く移動にとても時間がかかります。
従って現地では事前に準備しておいて短時間に要件をすませていく段取りが重要になり同時に(逆に)移動の時間を使って問題点の整理や共通の認識を深めることもできます。
今回は三名の参加メンバーでこの二つがきめ細かくできてよかったと思います。

2011年8月2日火曜日

8/21保団連近畿ブロック緊急学習会のご案内

被ばく者医療から視た福島原発事故
(保険医協会会員・会員医療機関スタッフ対象)


日時:8月21日(土)14時~16時

会場:難波御堂筋ホール9階
    (大阪市中央区難波4-2-1 難波御堂筋ビルディング)
    →会場へのアクセス(会場ホームページ)

定員:150人

講師:郷地 秀夫 先生(兵庫県保険医協会副理事長)

主催:全国保険医団体連合会近畿ブロック


講師のご紹介

郷地 秀夫(ごうち ひでお) 先生

1947 年、広島県賀茂郡西条町( 現東広島市) 生まれ/1973 年、神戸大学医学部卒業後、被爆者医療に取り組む/ 神戸健康共和会・東神戸診療所所長、兵庫県保険医協会副理事長/「核戦争を防止する兵庫県医師の会」運営委員/ 約250 人の被ばく者の主治医として日常健康管理を行っている

お申し込み・お問い合わせは TEL:078-393-1801
保団連近畿ブロック担当事務局・小川まで

2011年7月6日水曜日

東松島市・五十嵐公英先生からの手紙


5月に行った被災地での歯科医療支援に対し、東松島市で歯科診療所を開業する五十嵐公英先生から、お礼の手紙をいただいたので、紹介する。
なお、現地支援の様子は「現地レポート30 宮城県東松島市と石巻市の避難所を巡って(井尻博和先生)」を参照いただきたい。



ご支援いただいた先生方へ

 診療所の2本の桜の木の新緑の木漏れ日がキラキラ輝き、ここが3・11大震災の被災地であることを忘れさせてしまいそうな昨今です。
 兵庫県保険医協会の先生たちに医療支援を戴き、早一月。何の御礼も申し上げないで実に失礼をしてしまいました。申し訳ありませんでした。また、先日は兵庫保険医新聞をお送りいただきありがとうございました。只今、診療車「すみこちゃん」(勝手に名付けた愛称です)と一緒に元気に働いています。
 私が住む東松島市も、石巻地区同様、海岸線を中心に死者1000人、行方不明者150人というおびただしい数の犠牲者が出ました。東松島市は5年前の町村合併で誕生した比較的新しい市ですが、昔は矢本町と鳴瀬町でした。今回特に、私の診療所のある合併前の旧鳴瀬町地区では4つあった歯科医院が全部被災し、診療不能になっただけでなく、野蒜地区(川を挟んで向かい側の海岸)にあった歯科医院は建物もろとも院長、職員が亡くなるという激しさでした。この地区では、更に外科と内科の先生までもが津波の犠牲となっています。長く地域医療に献身的に貢献されていた先生方だけに残念で、悔しいです。地域医療を再建させることこそが残された私の責務ではないかと痛感しています。
 私の所の被害状況といえば、協会の皆さんたちが御覧の通りで、モルタル平屋の建物以外は全部パー。カルテやレントゲン写真類は泥まみれ。目も当てられません。こんな状況でしたから、診療再開といってもそうたやすい事ではなく、何をどうすればいいのか、建物をこのまま使用できるのか、解体しなければならないものなのか、実は相当に迷ったのです。スタッフ4人との再会を取り付けたのが3月31日。全員の無事を確認できホッと胸をなでおろしましたが、石巻在住の一人は乗用車が津波で流されてしまうし、住居の1階部分が水没してしまったと。困難な作業だろうが皆でこの診療所を再建しよう、復興させようと誓い合いました。
 4月に入ってからは、来る日も来る日も泥まみれになりながらのヘドロ除去、瓦礫の撤去。そして、ヘドロにまみれ使用不可となった診療機材の廃棄、さらに床板の除去そして床下のヘドロ除去と土木作業のようなことをやってました。こんなんではとても診療できる状態ではありません。しかし、患者さんは来るんです。そして聞きます、何時から始めるんですかって。そうね、連休明けか6月ぐらいにはなんとかしたいですね、なんていい加減なことを言って誤魔化していました。しかし、このままではいけない、なんとかしないとと真剣に考えて思いついたのが診療車の派遣依頼でした。全国に10台余りあると聞いていたので、私が所属する石巻の歯科医師会に相談し、全滅した旧鳴瀬町地区の住民の口腔健康の悪化防止のためには診療車が適している、私のところは電気も水道も十分な広さのスペースもあるし治安も良いし、器材を収納する場所もあると。宮城県歯科医師会にも働きかけて戴き、一日も早い診療車の派遣をお願いしました。今考えても、この診療車の派遣依頼は適切だったように思います。
 ゴールデンウィーク期間中、ここ鳴瀬地区の避難所へも東京都保険医協会をはじめ全国の協会の歯科医が訪問診療の応援に駆けつけてくれました。お陰で、避難者の口の中も少しずつ改善されてきました。後は、どう継続させていくか。それが大問題ですが、そのためには地域の医療機関の再建がどうしても必要なんですよね。どうすればいい? 先生たちにお出でいただいた5月5日のあの日、本当にうれしかったんです。写真の私を見てください。どうみても被災者には見えないでしょう。嬉しかったから。本当に。「すみこちゃん」に来ていただいて。
 あの汚い管理人室、私が寝泊まりしている宿舎。受け付け兼待合室と診療車。被災地には実にマッチングした光景で違和感を感じさせません。口コミで毎日新しい患者さんが訪ねて来ます。今月1日、地元のラジオ局がインタビューに来ました。汚れた待合室ですがお互いの無事を喜びながら、震災時の様子を語り合いながら新たな交流が生まれています。患者さんからも生活を再建するんだという熱い意気込みが伝わってきます。被災者同士だからなんでしょうね。
 兵庫協会の先生たちが撒いて行ってくれた地域歯科医療の芽を枯らさないで育てていきたいと思っています。微力ですが。
 ご厚情本当に有り難く、感謝に耐えません。引き続きのご支援、よろしくお願いいたします。
 末尾ですが、会員先生方のご健勝と貴協会の益々のご活躍を祈念しています。
 こちらの地方新聞社が出版した震災特集号を同封しました。閲覧いただければ嬉しく思います。


平成23年6月14日
東松島市鳴瀬歯科診療所
五十嵐 公英

徳島県美馬市・都築紀子先生からの手紙

 5月3日から5日にかけて、歯科医療支援のため兵庫協会支援チームとともに被災地に入った徳島県の都築先生から、手紙をいただいたので紹介する。
 なお、現地支援の様子は「現地レポート30 宮城県東松島市と石巻市の避難所を巡って(井尻博和先生)」を参照いただきたい。



兵庫県保険医医協会様

前略 この度は五月三日~五日までの東日本大震災被災地への歯科医療支援チームに参加させて頂きまして本当にありがとうございました。
 徳島県の片田舎で細々と歯科医をしておりますが、先般の大震災での報道を見聞する度、何か自分に出来ることはないだろうか、自分の眼で確かめたいと考えていました。半ば押しかけ同然に今回のメンバーに加えて頂いたのですが、諸先生方、事務局の方々に温かく迎えて頂き、本当に得難い経験をすることができました。
 千年に一度ともいわれる甚大な被害を受け、まだ至るところに残る被害の傷跡、がれきの山、身体的にも精神的にもダメージを受けられた被災者の皆様。復興への道のりは遠いなあ、と痛感させられることばかりでした。
 しかし、神戸の大震災を経験された先生方、それも私が一生涯かけて歯科医を続けていても到底お会いできない位、卓越された技術、知識を持たれ、第一線で御活躍されている先生方と、三日間御一緒させて頂くことで、片田舎でも行動を起こし、被災者の皆様の健康を守り、生命を守ることで、お役に立てることができるのではないかと考えることができました。
 決して一人では得られなかったであろう、貴重な経験をさせて頂き、また今後の人生を考える上で多くのものを示唆して頂く機会を与えて頂きまして本当にありがとうございました。
 今後も兵庫県保険医協会様、諸先生方、事務局の皆様の更なる御発展をお祈りしております。
 私も徳島の田舎で自分にできることを頑張ってみます。


徳島県美馬市・まなべ歯科
都築 紀子

石巻市・齋藤病院からの手紙

石巻市の医療法人社団仁明会齋藤病院から、支援活動に対するお礼の手紙をいただいたので紹介する。

御礼状

謹啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 平素は格別のお引き立てを賜り、有り難く厚く御礼申し上げます。
 さて、このたびの東日本大震災の被災について、心温まるお見舞い、ご支援、ご協力、また、救援物資等を戴き心より感謝申し上げる次第でございます。
 皆さまからのご支援ご協力により、弊病院は震災当日より何とか診療を行うことが出来ました。また、今後も「地域医療の向上」のため、職員一丸となって全力を尽くす所存でございます。
 つきましては、何卒、これまで以上にご指導ご鞭撻を賜りますよう心よりお願い申し上げますとともに、皆さまのますますのご繁栄とご健勝をお祈りし申し上げます。
 本来であれば、ご挨拶に参上するべきところでございますが、取りあえず、書面で御礼申し上げます。

謹白
平成23年5月
石巻市・医療法人社団仁明会 齋藤病院
院長 齋藤 明久

福島協会から、義援金へのお礼の手紙

福島県保険医協会の酒井学理事長から、義援金に対するお礼の手紙をいただいたので紹介する。


義援金の御礼

謹啓
 新緑の候、皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 この度の東日本大震災にあたり、貴会からの多大なる義援金を賜り心から感謝申し上げます。
 福島県はご存じのように、地震、津波に加え、原発事故による放射能のトリプルパンチに見舞われております。会員の安否と被災状況の確認もやっと目処がついてきた状況でございます。また、原発事故の明確な現状と対応状況も明らかにされないまま、本当の収束までには数カ月、数年、数十年の長い取り組みとなることが予想されます。
 役員・事務局、さらに心を引き締め、会員とともにこの難関を乗り越える所存です。いただいたご厚情はそのために有効に活用させていただきます。今後とも引き続きご指導、ご鞭撻くださいますようお願い致します。
 本来ならば、拝眉の上お礼申し上げるべきところ書中にて甚だ失礼ではございますが取り急ぎお礼まで申し上げます。

謹白
福島県保険医協会 理事長 酒井 学

2011年5月28日土曜日

現地レポート36 三田市・小寺修先生より


2011年5月3日~5日 東日本大震災被災者支援

                                           小寺歯科医院 小寺 修

 この度は、未曾有の大震災において、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災されたすべての皆様に心よりお見舞い申し上げます。


 4月14日の三田での支部幹事会において、三田市から、仙台若林区に災害派遣された保健婦の鹿嶽様と西中様、そして兵庫県保険医協会から派遣された中津先生のお話をお伺いして、「行かねばならない。」との強い思いが、私の心にフツフツと湧いて参りました。
保険医協会にお電話を差し上げて、5月3日から5日に被災地支援に行きたいとお願いしたところ、日程もさし迫っていたにも関わりませず、各方面に調整頂きまして、この度の災害派遣を実現して頂きました事務局に心より御礼申し上げます。

 5月3日、川西先生、井尻先生、そしてなんと徳島支部から単身参加された紅一点、都築先生、事務局の黒木さんと岡林さん、そして、小寺の計6名が、7:30伊丹に集合して、8:15発のJALにて仙台へ。
仙台空港着陸前の機窓から、空港周辺が津波で、何もかも無くなってしまった、生々しい大地が一面に広がっているのが、望まれました。
とうとう被災地にやって来たんだと云う、不安と闘争心の入り交じった思いが、湧いて参りました。
空港到着後、タクシーにて仙台市内のリッチモンドホテルに、事前に送っておいた機材をピックアップし、コンビニでおむすびを買って、車内で食べながら、そして途中文具店を見つけ、カルテ複写用に、クリップボードとカーボン紙を購入し、東松島市の矢本保健相談センターに。
保健相談センターでは、保団連宮城協会副理事長の井上先生と保健師の桜井さんが待って居て下さいました。


お二人に指示して頂き、3日から三日間の東松島市矢本保健相談センターを拠点に東松島市と石巻市の避難所巡りが、始まりました。
川西先生をリーダーに、二人一組で行動することにしました。
第一日目は、川西先生/都築先生組と井尻先生/小寺組にて、矢本東市民センターに参りました。天気が良かったので、お家の片付けに帰られており、実際には、4名の被災者にお会い出来ました。
最初は警戒されましたが、川西先生に上手にお話を初めて頂き、徐々に心を開いて頂く事が出来ました。
我々のチームは、92歳のおばあちゃんと、34歳のお孫さんの男性の家族で、おばあちゃんは上下総義歯で、六甲歯研にお借りした、充電式モーターとポイント類で調整しました。そして義歯洗浄剤と義歯用ブラシと粘膜用スポンジブラシをお渡ししました。
お孫さんは、震災以来お風呂に入ってないそうです。うがい薬や歯ブラシと糸ようじをお渡しして、お二人に口腔衛生のお話をしました。


その後、保健センターの桜井さんに報告に上がりました。
仙台で一台だけ残っていた6人乗りのレンタカーが、塩釡の日本レンタカーにあるとの事でしたので、塩釡へ向かう事に。
矢本駅で本塩釡駅までの切符を買いましたが、 まだJR仙石線が不通の為、東塩釡駅まで代替えバスで、そこから電車で本塩釡駅にやっと到着しました。地元の皆様は何から何まで、ご苦労されておられるのを身を以て体験致しました。
レンタカー受け取りの待ち時間に、地元の八百屋さんに薦めて頂いた居酒屋「ひなた」で地元の魚と宮城の地酒で復興を願って乾杯しました。
復興地酒「日高見」最高に旨かった。

 第2日目(4日)は、9:30に東松島市矢本保健相談センターに集合し、宮城協会理事の五十嵐先生にご案内頂いて、井尻先生/都築先生組と井上先生/小寺組にて、関ノ内地区センターに向かいました、その前の矢本運動公園では、仮設住宅が100戸ほど建設中でした。この日も天気が良く、ほとんどの被災者が、お家の片付けに帰っておられましたが、帰ってこられた女性は、あまりのひどさに、やる気を無くしました。と仰っておられました。
ここでは、井尻先生チームが動揺歯の咬合調整と投薬にて対応しました。


井上チームは口腔衛生用品を主任さんにお渡ししました。
次は、石巻市の青葉中学に行きました。ここは、自衛隊がしっかり入っており、料理車両や仮設のトイレとお風呂が設営されていました。


しかしながら、午後から別の歯科医師のグループが入るとの事でしたので、寄って来て下さった方、2・3人にうがい薬など口腔衛生用品をお渡しして次の釡小に向かいました。
ここも1,5mの潮を冠ったそうです。水道は来ていますが、電気はまだ来てい無いそうです。
ここでは、歯ブラシは足りているとの事でしたので、まず管理されている市職員さんに、スポンジブラシやうがい薬や入歯洗浄剤をお渡し致しました。


その後体育館左右二組に分かれて、回りました。なかなか心を開いて貰えませんでしたが、神戸から来ましたと、井上先生が上手にお話して下さり、だんだんと心を開いて、お話して頂けるようになりました。あまり押売的にいくよりも、お話をお伺いするのが良いのかなーと感じました。


水道はこの3つの蛇口で全員が歯磨きも手洗いもされているそうです。
ただ衛生には、非常に気を使われているようです。
ほとんどのコンビニが津波で閉鎖されているなか、やっと開いてる店を見つけて、おむすびやお茶を買って、五十嵐先生にご案内頂いて石巻港を見下ろせる日和山公園で、変わり果てた石巻を見下ろしながら昼食をとりました。


午後からは、石巻工業港から500mにある、釡会館に向かいました。
ここは、本当に厳しい状況で、何もかもが、津波に破壊されていました。
釡会館は、海側に飼料工場があり、その飼料と潮と油と排水が混ざったヘドロを冠っており、何とも云えない悪臭が漂っていました。思わずマスクをしました。この会館は1階は完全に津波に巻き込まれ、今も全く使えない状況で、2階が避難所になっていました。


ここでは、2人の義歯のティッシュコンディショニングをしました。
井尻先生のライト付き2.5倍ヘッドルーペは特に、私の釣り具屋で買って来たヘッドライトも非常に役立ちました。
釡会館の前の崩れたお墓の片付けをされていた男性にうがい薬をお渡ししたところ、ヘドロが乾燥して粉が舞い喉がやられてしまったそうで、非常に感謝されました。家族にも欲しいとの事でしたので、沢山お渡ししました。



その後水没した、大曲地区を通って、五十嵐先生の東松島市鳴瀬歯科診療所にお邪魔しました。診療所は、海から3kmも離れているにも関わらず、津波の潮を(川西、井尻先生が手で示されている所まで)1.5m冠り、ヘドロを被り、チェアーは全てオシャカになり、床も剥いで、何もかもほおり出されておられました。この状態でも、絶対に元通りに診療するんだと、強い意志を持っておられました。先生の不屈の精神に感服致しました。



五十嵐先生の勧めで、野蒜地区を経由して仙台に戻りました。
野蒜地区は4m以上の津波に襲われ、本当に悲惨でした。


 第3日目(5日)は、川西先生/井尻先生組と都築先生/小寺組でまず、小松文化会館に向かいました。
ところがこの日は、身元確認された地元の方のお葬式があり、会館には3人のみでした。
川西チームは。義歯のティッシュコンディショニングを行い、都築チームは、認知症のお母さんとお嫁さんのペアを診ました。
お母さんは、上下総義歯で調子が良いとの事でしたので、義歯を洗浄して、スポンジブラシでの口腔清掃のお話をしました。お嫁さんには、歯ブラシとうがい薬をお渡ししました。


次は、昨日通った野蒜地区の避難所の中下地区センターで、5人家族で家ごと津波に流された母娘の口腔健診をしました。お母さんは持続的な治療をなるべく早く受けるべきと思われましたが、 かかりつけの歯科医院も流されて、先生は亡くなられたそうです。
午後から、五十嵐先生の診療所に、京都府歯科医師会から無償、無期限で借与された検診車の見学に伺いました。配りきれなかった衛生用品や、使いきれなかった歯科機材と、武中先生と岡本先生に頂いた薬をお渡ししました。
その後、保健相談センターの桜井様に報告にお伺いして、帰路につきました。


今回3日間で、東松島市と石巻市の7箇所の避難所を巡り、歯科医師4名で、28名の被災者のお口を見せて頂く事が出来ました。
天気が良くお家の片付けやお葬式などで避難所には、すべての方がおられた訳では有りませんでしたので、診察出来たのは、実際に避難されている方の一部のみでしたが、その分一人一人時間をかけてお話を伺う事が出来た事は、非常に良かったと感じました。

今回の被災者支援に赴くに際し、中津先生よりアドヴァイスを受けていた事は、非常に役立ちました。我々も次に支援に行かれる先生に向けて、気づいた事を列記致します。
1)飛行機で現地に入りましたが、それでも1日目と3日目の活動は、半日になってしまいますので、少なくとの今回の様に3日は必要だと思います。
2)仙台空港から各被災地までは距離も有りますし、物資も沢山有りますので、ワゴンタイプのレンタカーを事前に確保いておくのが良いと思います。
3)カルテの1号用紙のコピー100枚強(裏は白紙でもOK、事前にバインダー用に2穴あけておく)、クリップボード、複写用カーボン紙、2穴バインダー、筆記用具。
4)手鏡:患者さんの口腔ケア指導時にご自身の口を見てもらう為。
5)ザルとボール(デンチャー洗浄、排唾用)
6)充電式モーター(ストレート・コントラハンドピース、5倍速コント
ラ)電気の来ている所も有りますので、電源用延長コード。
7)歯牙切削用バー、デンチャー調節用のバー・ポイント
8)ウエットティッシュ、ゴミ袋(スーパーのポリ袋ぐらいの大きさ)
9)エアダスター(可燃性は機乗前に没収されますので、仙台で購入すべし)(仙台東部道路 仙台港北ICの仙台よりの45号線南側に大きな文具屋が有ります。)
10)ティッシュコンディショナー、デザインナイフ、曲の金冠バサミ、咬合紙、(リベース材を持って行きましたが、使いませんでした。)
11)ライト付き拡大鏡、ヘッドライト
12)ゴム手袋、マスク、白衣、
13)うがい薬(アズノール等の粉末が良い)入歯洗浄剤、入歯ケース、スポンジブラシ、入歯用ブラシ。
14)靴は脱ぎ履きしやすいもの(避難所はすべて靴脱ぎます)、スリッパ

そして、今回支援に赴いて、感じた事を列記致します。
1)支援にあたっては、今回事務局にして頂いた様に、地元の社団連と保健センターとの事前の打ち合わせが必須だと実感しました。
2)義歯修理など、実際に治療する事も大切ですが、それ以上に、被災者の言葉に耳を傾け、お話を伺いながら、ケアして行く事こそが、一番大切だと感じました。
3)歯科医療も口腔ケアも行き届いてない被災地がまだまだ有る様に感じました。自治体自体が機能していない所も有るでしょうから、地元の医師、歯科医師、医療関係者との間に立つ機関としての保険医協会の役割は非常に大きいのではないかと、感じました。
4)被災されているのは、医師、歯科医師などの医療機関も同様ですから、その先生方にも、お役に立てる仕組みを構築すべきだと思います。
5)支援者はその日限りですが、被災者はつづく訳ですし、復興してもそうですから、カルテなり、地域連携パスなりの記録を本人と保険医協会と保健センターが持っておく様な、仕組みを構築すべきだと考えます。
6)被災された医療機関支援のため、中古の医療機器を全国から保険医協会を通じて、お譲りする仕組みの構築。その為には、10年なりの期間を設け、被災地に関しては現在のPL法の対象外にするような 特別措置法の立法を国会と政府に働きかけなければならないと、考えます。

 今回の支援に際し、アドヴァイスを頂きました中津先生、鹿嶽様、西中様。お薬を託していただきました武中先生、岡本先生。協賛品を提供して頂きました(KK)モリタ神戸支店様、歯科商店のササキ様、ミヤワキ様、大河様。充電式モーターとバーセットを貸して頂きました六甲歯研様。現地でお世話して頂きました宮城協会の井上先生、五十嵐先生、東松島市保健相談センターの桜井様。3日間お世話頂きました黒木様、岡林様。そして3日間ご一緒して頂きました川西先生、井尻先生、都築先生に心より感謝を申し上げます。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 33号

*前号に続き、宮城協会に入った事務局の51819日の行動を報告する。

宮城県E先生「復興は産業優先。医療機関が抜けている」

行動日(5月18日)
行動地域(仙台市宮城野区、石巻市)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数 2件(面談 1件、不在等 1件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊  0件)
【訪問の概要】
E先生-医科-(石巻市の診療所が全半壊、昨日仙台市青葉区の自宅を訪問したが不在。電話連絡で診療所の片付けに行っていらっしゃるとのことで石巻市の診療所を訪問)
<被害状況>「診療所兼自宅の1階診療所部分が全壊。内視鏡、レントゲン等機器も全滅。1階の天井まで水が来たので、その後ぼろぼろと天井が落ちてきている。開業11年目で、機械もちょうど入れ替えたところだった。
 地震当日は、直後に従業員を帰し、高いところへ避難するよう指示。自身は母親とともに家に残った。北上川からあふれた津波が徐々に周囲に押し寄せてきて、水かさが増していった。川上に向かって避難する車が渋滞を作っていたが、川上からも水が押し寄せてきて車は流されてしまった。そのうち階段も2階まで残り2、3段のところまで水がせまってきたので、母親をロフトに避難させた。突然知らない人が二人ベランダから入ってきたので、えらく早く救助が来たかと思ったが、車がたまたまうちの家に流れ着いて、そこから脱出してきた人だった。結局そこで水は止まった。その後第二波、第三波と津波が来るたび、家がぎしぎしと揺れて、火事も見えていた。
 はじめの1週間は、冷蔵庫の中身でしのいだ。しかし飲み水がなくて大変困った。外に出られるようになって裏の山の沢水を汲みに行った。3日間水が引かなかったが、4日目からは港小学校の診療支援に入った。避難所も当初は極度に飲み水・食糧が不足していて、一日二口分くらいしか水がなかった。支援に入ったことで、水を少しもらうことができたが、そのような状況なので申し訳なかった。1週間後でも一人一日おにぎり一つだった。」と甚大な被害の状況を語っていただいた。
<今後の見通し>「はじめは再開しようと思いヘドロを掻き出していた。同級生や助かった患者さんからも再開して欲しいという要望がある。しかし、新しい都市計画がどうなるのか。診療所前の国道から川よりは住居が建てられないと聞いている。人が住まないとなると診療圏がなくなってしまう。患者さんもたくさん亡くなった。昨日、宮城県のガスが復旧して支援組織の解散式があったが、ここはまだガスが復旧していない。結局港の近くは再建対象ではないということか。私はここで育った。私もがんばらなくちゃと思うが、今の状況を客観的に考えると、ここでの再建は99%無理だと思うようになっている。当初は、その日毎にがんばろうと思うことと、無理だと思うことが変わり、夜中に目が覚めてそのことを考えて眠れなくなっていた。従業員は一時解雇とした。再開するときには声をかけると言ったものの・・・。
 しかし、いまだ瓦礫に取り囲まれ、満潮時には周囲は冠水し、長靴でも歩けない。医療機関なので優先的に撤去してもらえないかと行政に陳情もしたが、道路の復旧が優先だとして、要望としてお聞きしますという程度。いままで市に対して健診や予防注射など協力してきたが、結局そのことは考慮されない。行政の受付もよそからの応援隊で、これまで繋がりがある健診担当部署と、瓦礫対応の部署が違うからだろうか。
 病院でもない診療所は、結局個人商店の一つとして考えられている。医師会もクールだ。被災者支援は呼びかけるが、被災会員を助けようという機運はない。
 瓦礫と水を毎日見ているともう嫌になる。こんなところにどうやって年寄りが歩いてくるのか。診療所を直して再開しても収支は合わないでしょう。会計士もいままでと同じ体制では無理と言っている。
 復興は産業優先で、医療機関が抜けている。結局ここは無医地区になる。はかなく消えるしかないのか。個人商店でもこれまで地域医療を担ってきたのに」と語られた先生と石巻市の瓦礫の山の現状を目の当たりにして言葉がない。
<協会への要望>「休業保障の保険料は、そのまま引き去られ続けるのか。口座に入金がない中で不安だ。また、天災での休業は対象にならないと聞いて、使えればずいぶんと助かるのにと思う」と話されていた。

行動日(5月19日)
行動地域(仙台市宮城野区)
訪問者名(村上(愛知)、栗城(保団連))
訪問結果 訪問数 1件(面談 1件、不在等  件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊  0件、その他  0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
T先生-歯科-(多賀城市の診療所が全半壊、仙台市宮城野区の自宅を訪問)
<被害状況>多賀城市のジャスコ内で診療していて、被災。本人、家族、従業員はみんな無事。
<今後の見通し>ジャスコの再開が不明なので、そのまま再開する目途がつかない。他所での診療再開を考えて探した。中野栄駅前に3年前から空いている歯科医院(後藤歯科)があり、銀行から融資もしてもらえることになった。6月を目処に診療を再開する。
<協会への要望>取りあえず、銀行から融資を受けられたが、無利子の融資などがあれば、助かる。
 「6月に診療再開」とうれしそうに語られた先生の笑顔が印象的だった。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 32号

516日から19日にかけて3人の事務局が宮城協会会員支援に入った。16日と17日の2日間の報告を行う。

宮城:「もうこうなったら心機一転でやるしかない」

 5月16日から19日まで、今回の大震災で全半壊に遭われた宮城協会の被災会員の最終訪問行動のため、村上(愛知)、樋下(京都)、栗城(保団連)の各氏3名が宮城協会入りした。
 5月16日午後3時に集合し、打合せを済ませ、亘理郡亘理町の被災会員を村上(愛知)、樋下(京都)チームが訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月17日は、午前9時から仙台市青葉区、若林区、太白区 泉区の被災会員12人を村上(愛知)、樋下(京都)チームと宮城協会の事務局の方の協力もいただき、青井(宮城)、栗城(保団連)チームの2チームで訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月18日は、仙台市宮城野区の被災会員の自宅と昨日訪問した仙台市青葉区のご自宅がお留守だった被災会員が石巻市の診療所の瓦礫の後片付けに行っていらっしゃるとの電話で、村上(愛知)、樋下(京都)チームが石巻市の診療所を訪問し、お見舞金をお渡しした。
 5月19日は、今回訪問する予定名簿の最後の被災会員で昨日お留守だった仙台市宮城野区の会員と連絡が取れたので村上(愛知)、栗城(保団連)チームで自宅を訪問し、お見舞金をお渡しした。
 今回の最終訪問行動では、14人の被災会員や奥様に直接お会いし、被災の状況、診療再開の見込みや現状、政府への要望などお聞きした。
 以下に1617日の概要を報告する。
◆行動日(5月16日)
行動地域(亘理郡亘理町)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数  1件(面談 1件、不在等  0件)
被災状況(全半壊・流失 1件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 1件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
M先生-医科-(仙台市青葉区の診療所は被災なし、自宅(亘理町内)を訪問)
<被災状況>津波が自宅一階に流入、全半壊状況。Ipodで自宅の様子を画像で見せていただいた。ログハウスの階段がはずれ、ピアノとともに壊れていた。現在、津波被害地域の再建計画が未定のため今後への見通しは立たず、アパートを借りている状況。
従業員2人の自宅が津波で被害を受けた。
<診療の状況>停電、断水にともない透析が不可能になった。12日は薬でしのいで13日に消防(応援に来ていた愛知の消防)から患者受け入れ可能な病院がある旨連絡があった。14日から本格的に患者を移送し、機材、スタッフも送ることで透析治療を継続できた。スタッフの人件費は持ち出し、3、4日で終わったので何とかなった。その後、電気が復旧し、水は給水車が手配でき、一週間後には自院で透析を再開できた。再開後の変化として、避難の影響で透析患者数が90人から80人に減少した。今は、夜間の透析は取りやめている。今は医薬品の供給には問題ない。
<要望>医療全体の連携、連絡体制の構築が必要。患者の移動の調整は大変。非常時に対応できるよう自家発電施設の必要性がある。30Aの発電機を借りてやってみたが、まったく能力不足で機械類を動かすことはできなかった。業者に調べてもらったら500Aの能力が必要だといわれた。高額な施設になるので個人では難しい。公的な補助があると助かる、と語っておられた。
◆行動日(5月17日)
行動地域(仙台市青葉区、若林区、太白区 泉区)
訪問者名(村上(愛知)、樋下(京都))
訪問結果 訪問数 9件(面談 8件、不在等 1件)
被災状況(全半壊・流失 9件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊・流失 8件、一部損壊 0件)
【訪問の概要】
N先生-医科-(石巻市の診療所が全半壊、自宅(仙台市青葉区)を訪問)
ご自宅で奥様からお話を伺う。「石巻の診療所は津波被害2メートルで全壊。すべてひっくり返って泥をかぶっている。当初診療所まで往復5時間かかった。今はようやく1時間ちょっとで行くことができるようになった。ボランティアの方にもがんばってもらって、ようやく1階が見通せるようになった。地震直後は、自家発電が動いたので、なんとか診療所で出産できた。5分後に津波が来た。スタッフが10数人残ってくれたので手術ができた。患者さんは4人だった。
 ちょっとしたことで生死が分かれてしまった。亡くなられた方は気の毒としか言いようがない。スタッフはすぐに解雇せざるを得なかった。えっ、という感じだったが、被害の大きさから納得してくれているのではないか。車がみんな流された。またスタッフ一人は家が流された。今後の見通しと聞かれても、まだ建てちゃいけないということで再開はペンディング。お国次第である。とりあえずバイトでしのごうかと考えている」と悲痛な思いを語られた。
H先生-歯科-(仙台市泉区の診療所が全半壊、診療所を訪問)
被害状況をご本人と奥様から伺った。「診療所は地震でまるで爆弾を落とされたような被害で全壊。もとが田んぼだったので地盤が弱かったのか。家主から1ヵ月以内に出て行くように言われている。地震発生時は、休憩中で患者はおらず、奥様とスタッフの3人。幸いけがもしなかった。患者は近くの先生に場所を借りて継続して診ることができた。あと二人残っている」と語られた。
 今後の見通しでは、「開業してまだ3年目で借金も2000万円残っている。次を始めないといけない。融資が必要になるが、以前事故をしているので保証協会がダメというかもしれない。そうなると国民金融公庫しかないか。とりあえず運送屋に機材を預けようと思っている。次の場所はまだこれから。市場調査もしないといけない。もう、心機一転やるしかないね」と懸念と意欲の複雑な思いを語られた。  

2011年5月26日木曜日

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 31号

59日の週に岩手協会会員訪問のため5人の事務局員が岩手入りをした。

岩手:自ら被災しながら避難所で歯科診療にあたる

5月9日から13日まで、岩手協会被災会員訪問のため、高橋(神奈川)、上南(大阪歯科)、塩毛(島根)、寺尾(保団連)、堀江(保団連)の各事務局5名が岩手協会入りした。
 5月9日と10日の両日、派遣された事務局員のうち1チーム2人が、県内陸部の一関市の会員医療機関を訪問した。被害状況報告に基づいて29医療機関を訪問し、医師、歯科医師19人を含む27人と面談、協会や政府への要望などの聞き取りを行った。一部損壊の被害を受けた19医療機関にはお見舞金を渡した。

行動地域:一関市
訪問者名:上南(大阪歯科)、寺尾(保団連)
訪問結果:訪問数 29件(面談 27件、不在等 2件)
お見舞金支給:一部損壊 19件
【訪問の概要】
C先生(一関市・内科)「沿岸部の人は本当に大変だ。でも、TVに映っているところだけが被災地じゃないぞ!と言いたい」。外壁が崩れ修復工事を頼んだが、材料が入ってこないため1カ月半そのままになっている。CTが壊れ、買い替えることになった。診療室内のクロスに亀裂がある。地盤の関係で周辺部では50戸が全壊。被災した患者は7~8人いる。沿岸部から移り住んで来た患者も10人くらいいる。一部損壊の修復費用や医療用機器の一括償却や税額控除の特例措置などを政府に要望して欲しい。

O先生(一関市・内科循環器科)友人も沿岸部近くで開業していて、夜も呼び出しが会って眠れないとのこと。融資などのあらゆる優遇措置を講じるなど、沿岸地域の先生方への援助を要望したい。

O先生(一関市・内科胃腸科) 保険医協会の情報は役に立っている。医師会でもあれだけの情報は入ってこない。大変参考になりました。情報以外では社保のFAXが早くて簡潔で判りやすい。職員にも見せている。 
● 5月11日と12日の両日、派遣された事務局員のうち1チーム2人が、県内陸部の奥州市、平泉町、金ヶ崎町の会員医療機関を訪問した。被害状況報告に基づいて30医療機関を訪問し、医師、歯科医師16人を含む26人と面談、協会や政府への要望などの聞き取りを行った。全半壊、一部損壊の被害を受けた9医療機関にはお見舞金を渡した。

行動地域:奥州市水沢区、平泉町、金ヶ崎町
訪問者名:上南(大阪歯科)、堀江(保団連)
訪問結果:訪問数 30件(面談 26件、不在等 4件)
       (奥州市水沢区 24件 平泉町2件 金ヶ崎町4件)
お見舞金支給:全半壊 1件 一部損壊 8件
【訪問概要】
I医師:奥州市・I内科医院
<被害状況等:全半壊>
市の災害対策本部の「危険UNSAFE」との赤い貼紙あり。事業をしてはいけない建物として認定されている。
同区にある元小児科診療所に移転。X線を入れるスペースがなく手ぜまなので、増設を予定、ベッドも入れて有床診療所として再起したいと思っているとのこと。
先生から寄せられた感想等
元の施設で入院されていた患者は、自宅、県立病院、私立病院に移ってもらったが、それぞれの先で、間もなく一人ずつ亡くなられた。これも目に見えない災害関連死という。

K医師:奥州市・K歯科クリニック(5/11休診のため、5/12に面談)
<被害状況等>
建物や内装には目立った被害はなし。モニター用のテレビ落下、パソコンディスプレイの破損、タービンの調子が悪くなった。
<被災地支援の体験談>
・ 3週間連続で有志12人が水、木曜とボランティアで歯科治療を行った。場所は高田第一中学校。江刺区保険センターのユニットを譲り受けて運び込んだ。
・ 土日は市歯科医師会が行っている
・ 一日1618人を診た。私が見た患者は、急化歯髄炎で3週間痛みを我慢していた。左下7番を抜髄した。7080歳の患者だった。
・ 5月2日からプレハブの仮設歯科診療所ができるので予後を託した。
・ ボランティアのきっかけは、自ら被災しながら避難所で診療をしていた歯科医が土日返上で活動しているのを見かねて有志を募ることになった。
・ 避難所はざわついていて、ブラッシング指導を呼びかける雰囲気ではなかった。かといって、個別指導は一人15分としても2時間で8人しか診れない。ジレンマに陥った。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 30号

*前号に続き、宮城県に入った事務局が会員の先生方を訪問した。

宮城のM先生「津波に襲われたが、流される入所者を助けた」

5月12日は被害の甚大だった仙台市内、名取市、山元町の合計16人の会員を訪問。14人の会員に直接会い、お見舞金を渡すとともに、政府への要望などの聞き取りを行った。

行動地域(仙台市、名取市、山元町)
訪問者名( 1班:澤田(愛知)、平田(兵庫)名取市、山元町、仙台市
2班:土井野(富山)、花山(京都)仙台市)
訪問結果 訪問数  16件(面談 14人、不在等 2人)
お見舞金支給(全半壊・流失 16件)
●5月13日は被害の甚大だった仙台市内の合計5人の会員を訪問。4人の会員に直接会い、お見舞金を渡すとともに、政府への要望などの聞き取りを行った。
行動地域(仙台市青葉区)
訪問者名(1班:小林登(保団連)、平田(兵庫) 2班:土井野(富山)、花山(京都))
訪問結果 訪問数  5件(面談 4件、不在等 0件)
被災状況(全半壊 5件 、一部損壊 0件、その他 0件)
お見舞金支給(全半壊 4件)
【訪問活動のまとめ(訪問活動参加者の感想)】
・会う先生会う先生から歓迎され、喜んでいただいた。「保険医協会にはいつもお世話になっています」という声が多数寄せられた。
・普段の協会活動が会員に支持されていることが実感できる訪問活動であった。・再開に向けて頑張っておられる時期であったので、とても歓迎された。
・ケータイがつながれば救えた命がたくさんあったとの声が印象に残った。ケータイ番号を会員管理のうえからも今後は検討していく必要があると感じた。
・都市計画が決まらないと再開のめどが立たない医療機関もあり、行政への働きかけが非常に大切だと感じた。
・厚生労働省の通知は評判が悪かった。場当たり的対応との批判。                     
M先生(名取市・内科クリニック)
 名取市でオーナーを務めていた診療所、特養、ケアハウス、グループホーム全てが全壊した。現在は、被害の少なかった若林区の老健施設に診療スペースを開設して、診療を再開している。先生は当日を振り返り「名取市の診療所で診療を行っていたが、地震が発生した。地震で防災無線が破壊され、正確な情報が無かったが、地域で唯一の3階建ての建物であるケアハウスに、特養の入所者などを避難させるように指示をし、自身も特養に向かわれた。特養に入ったところで、津波に襲われながらも、流される入所者を助けた。津波は首までの高さに達し、それぞれの施設が孤立状態に。その後、入所者や他施設の利用者など特養にいた人を大広間に集めて、暖をとるために火をおこした。厨房にあった油を使ってたいまつを作り、明かりをとった。また、津波により自宅の2階などで孤立した人を、いかだを作り助けたりした。2日目には、流れてきた船で、避難者全員を陸まで避難させた」と壮絶な体験を語った。「避難中に特養の中で、朝までに多くの人が亡くなった」とし、「医師は医療機器や薬が無ければただの人だということを実感した」と述べた。最終的には入所者など関連施設の利用者164人のうち25%が亡くなった。また、職員も4人が犠牲になったと悲惨な実態を明らかにした。助かった施設利用者は、現在は同法人の老健施設と特養に入っているが、定員の140%になっているとのこと。行政は、いつまでその状態(定数超過)を続けるのかなどといってくるとのこと。また、「名取市の施設は全壊ではなく、強半壊とされ、今後補助金の交付対象などから外れるのではないのか」と懸念を表明した。
O先生(山元町・歯科医院)
 人口比で死者・行方不明者の割合が一番高いといわれる山元町で開業しているO先生は、診療所が冠水。診療所の中は泥だらけで、時計は津波が到来した午後4時2分を指したままとまっていた。震災後、栃木県から訪問診療車を借りて、避難所を回って診療にあたっている。ただ、診療所の普及の見込みは立っていない。先生は「この地域は、震災後、最近まで立ち入り禁止区域だった。最近ようやく日中のみ立ち入りが許可されるようになった。多くの患者さんが亡くなったし、助かった患者さんも避難生活を送っている。現在診療所の近くを走っている常磐線も、震災を契機に内陸部を通すという話もある。そうなれば駅も移転してしまうし、地域が元に戻るのは難しいだろう。同じ場所で再開しても、患者さんが戻ってくるのか分からない。地域の患者さんが避難している地域には、すでに多くの歯科医院があり、そこで開業するのは困難」と今後についての不安を語った。また、「この地域では、建物を行政に取り壊してもらうのかを決める期限が迫っている。復興計画などが決まっていない中で、家や診療所をどうするか決めさせるのは酷だ」と述べた。取り壊しを認める場合は、赤紙に名前を記入して貼り付けることになっており、先生の廻りの民家にはかなりの赤紙が貼られていた。先生は同地で開業して15年になるが、「あと5年で借金も完済するのに、また、大きな借金を抱えることになりそうだ」と先行きの厳しさを語った。
N先生(山元町・歯科)
 診療所が冠水したN先生は、5月20日から、診療所の隣の仮設診療所で診療を再開する。仮設診療所の設置に至った経緯について、「浸水した診療所の復旧には、建築用の部材が手に入らず、時間がかかる。それで、仮設診療所を設置した。診療所の復旧後には、仮設診療所に新しく設置するチェアを移設する予定」と述べた。仮設診療所は買取で設置する場合は、最低限の医療機器を含めても1000万円以上かかるそう。先生は、仮設診療所の建物をレンタルすることにし出費を抑え、診療所の復旧に注力する考え。診療所は、復旧作業がある程度進み、内部の泥は取り除かれていたが、泥をかぶったカルテはそのまま。「検死のために歯型がほしいという遺族からの問い合わせがあるが、なかなか見つけることができない」と述べた。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 29号

59日から13日まで、5人の事務局員が宮城協会に支援に入った。そのうち、10日と11日の行動の概要を報告する。

宮城県S会員「協会はいつも早く対応してくれる」と述べる

5月9日から13日まで、宮城協会被災会員訪問のため、澤田(愛知)、土井野(富山)、花山(京都)、平田(兵庫)、小林登(保団連)の各事務局5名が宮城協会入りした。

5月10日、派遣された事務局員は、被害の甚大だった石巻市と東松島市の会員医療機関や自宅を訪問した。被害状況報告に基づいて医療機関もしくは自宅が全半壊した会員にお見舞金を渡すため。
この日は、4人が2チームに分かれて、合計22人(石巻19人、東松島3人)の会員を訪問。20人の会員に直接会い、お見舞金を渡し、政府への要望などの聞き取りを行った。
以下に概要を報告する。

行動地域(石巻市、東松島市)
訪問者名(1班:澤田(愛知)、平田(兵庫)  2班:土井野(富山)、花山(京都))
訪問結果 訪問数  22件(面談 20件、不在等 2件)
お見舞金支給(全半壊・流失 20件)
【訪問の概要】
S先生(東松島市・現在診療している小野市民センターを訪問)
東松島市で開業していたS先生は、地震で診療所が全壊した。その後、4月18日から、近くの市と交渉し、小野市民センターの応接室で診療を再開している。同センターは地域の避難所になっており、この日も多くの患者さんの治療を行っていた。S先生は国への要望として、「阪神淡路大震災のときは民間医療機関の再建にも補助が出たと聞いた」とし、「今回も同様の措置が必要だ」と述べた。なお、全壊した診療所は、現在再建中で、早ければ5月末にも診療再開の予定だという。
S先生(石巻市・内科クリニック〔分院の内科医院を訪問〕)
S
先生は、石巻市中心部で開業していたが、診療所が津波により流失。弟が院長を務める比較的被害の軽微な分院で診療を再開している。「本院で診ていた患者さんの十数パーセントの患者さんが今回の震災でなくなった」と述べた。本院は、現在政府による建築制限がかかっている地域で、再建のメドも立っていない。さらに、「多くの患者さんが現在も避難所生活を送っており、本院を再建したとしても今後、地域に戻って来ないのではないか」と懸念を語った。
M先生(東松島市・歯科医院)
東松島市の診療所と隣接する自宅が床上浸水したM先生は、「家族を連れて逃げようと思った時には、すでに周囲の道路が冠水しており、自宅の2階へ非難した」「浸水せずに助かったが、その後3日間、水が引かず、家族とともに自宅の2階に閉じ込められた」と当時の様子を語った。診療所は医療機器が全て使えなくなり、大変な損失だ。先生は、「自宅の再建だけでなく、診療所などの再建にも政府の補償が受けられるようにしてほしい」と訴え、7月中には診療を再開させたいと述べた。

11日は、気仙沼市、塩釜市、七ヶ浜町、多賀城市、大和町、大衡村の合計20人の会員を訪問。17人に会ってお見舞金を渡すとともに要望などの聞き取りを行った。

行動地域(気仙沼市、塩釜市、七ヶ浜町、多賀城市、大和町、大衡村)
訪問者名( 1班:澤田(愛知)、平田(兵庫)塩釜、多賀城、七ヶ浜、大和、大衡
2班:土井野(富山)、花山(京都)気仙沼)
訪問結果 訪問数  20件(面談 17人、不在等 3人)
お見舞金支給(全半壊・流失 17件)
K先生(気仙沼・クリニック)
 医療機関は全壊で火災が発生した地域。5月22日より移転、再開。
M先生(気仙沼・医院)
 震災2~3週間後から、軽傷者を対象に診療再開。完全復旧ではない。
M先生(気仙沼・外科クリニック)
 再開の意志はある。場所は決定したが、再開時期は未定。
S先生(気仙沼・小児科)
 4月20日より移転、再開。 こどもに勇気づけられながら楽しくやっている。協会はいつも早く対応してくれる、と非常に頼りに思っておられた。
M先生(気仙沼・整形外科)
 4月26日より週4日で再開。津波で医療機器関係がすべて水に浸かりだめになり、現在借り物を使っている。

保団連 東日本大震災 救援復興FAXニュース 28号

*福島協会の事務局が、福島県田村市の会員の先生方を訪問し、声を聞いた。地元では原発損害の賠償問題が急がれている。

 福島県:「積算の放射線量は、まだまだこれからが問題だ」

福島県の被災地
 安否・被災状況は、会員の96%くらい把握してきました。見舞金や皆さまからいただいた義援金の送金はこれを元にこれから早急に進める予定です。
 当初は、原発事故で入れない地域を除き、津波の被害が伝えられる沿岸部(北と南)から会員訪問を進め、今は、原発事故で立ち入れない範囲(警戒区域)の周辺部(緊急時避難準備区域)からその外側へと、範囲を少しずつ広げながら行っています。それはつまり緊急に避難を強いられた人々の避難経路とも重なります。
 昨10日、事務局・井桁が田村郡小野町、田村市滝根町・大越町・常葉町の先生方15件を訪問しました。いずれも福島第一原発から30Km~40Kmに位置し、あぶくま鍾乳洞などがあります。
「3月だけで300万円近い赤字。」
「自宅は全壊し、更地となったよ。」
「もともと“過疎地”なので、毎年数%程度の人口減少はあると覚悟しているが、高齢単身者など一度子どもの所に避難された方たちが戻ってきてはいるが、震災前の8割程度。医院経営も見直しをしていかなくてはいけない。」
「積算の放射線量に関しては、まだまだ、これからが問題。」
「連休明けからぼちぼちと患者さんが戻ってきてはいるが、農村地帯であり、原発事故の影響により患者減が心配される。」
「町の中核病院の入院機能が回復せず、重症の患者は隣町に送るようになっている。」
「幸いにも電気・水道・ガスが無事であり、3/15休診したのみ。当初は双葉郡内からの避難者への投薬や避難所での診察等。様々な情報による混乱や物資不足で震災後2週目が一番辛く、避難所へ食料を貰いに行きながら診察していた。私(御子息)は、他県に席があり、そこの皆が、食料・水・燃料等の物資を運んできてくれたので助かった。原発事故の影響か、自殺者が増えている。今後も増えそうである。」
等の声が寄せられています。
 また、「避難当初は消防団員(あるいは家族?)が、高血圧の薬などのメモを持参し、薬が欲しいと来院した。緊急時ということで持たせた。」等の話をされていたとのことでした。
 今は避難者はより遠方の避難所に、また旅館等の二次避難所に移られています。先生方の中にも避難された方もおられましたが、今はほとんどの先生が通常診療に戻っています。どの先生も患者数は、2・3割減と応えていたそうです。もちろんこれらの地域は農村部ですが、放射線の影響で作付は行っていますが売れるのかどうかもわからず、地域経済へのダメージは大きく、現在のそして将来の補償の問題も含めどうなるかの展望が見えません。
 ある先生が、「自殺が増えている」と語ったそうです。 将来を展望できる全面的補償がすぐに行われること・約束されることが本当に急がれています。 地域がこういう状況ですので、先生方も医業経営としてもこれからを心配しながら診療を続けています。
 また原子力損害賠償紛争審査会が第3回まで開催され、「・・・原子力損害の範囲の判定等に関する第一次指針」が出されていますが、対象区域は、警戒・緊急時避難対象・計画的避難がメインで、それ以外の地域の損害については「政府等による出荷制限指示等に係る損害について」のみが対象とされ、それ以外は今後の課題とされてしまっています。
 医業自体も、それ以外の業種と同様に「営業損害」での請求となると考えられますが、前述のように周辺地域・福島県内では少なからず経営的影響を受けることとなっており、この損害も補償させることが必要です。
 さらには、第3回審査会に出された厚生労働省提出資料では、医療機関の項目には、病院の標記しかない上、患者目線の損害項目のみです。厚労省に、医科・歯科診療所の項目を明記させ、病院も含め、医療崩壊の中、地域医療を担ってきた医療機関の損害について記述させる必要があります。もちろんこうした指摘を考慮してか欄外に「※経済的被害を受けた患者数、医療機関数、医療従事者などについては、今後精査が必要」と逃げを打っているのも悔しい限りです。

2011年5月23日月曜日

現地レポート35 協会と保団連は医療機関再建に全力を

518()は前日に引き続き、岩手県北上市内の会員医療機関2件を訪問した。訪問した会員から「協会・保団連の震災支援活動には頭が下がる」「今こそ結集して被災医療機関を支援して欲しい」など支援活動に感謝の声や地元協会・保団連へ今後の取り組みに期待の声が寄せられた。
大槌町避難所
午後からは、青森協会会員からの支援物資(衛星インターネットノートPC)を県沿岸部の大槌町で被災された会員(津波で診療所が全壊)へ届けるため車で約3時間かけ大槌町の避難所に訪問。避難所では、被災された会員が不在のため直接支援物質をお渡しすることができなかったが、医療支援のため現地入りした大阪の開業医から今後の支援活動の課題など話を伺った。以下、報告する。
1、M歯科
 被害は壁にヒビ、PC・照射器・バキュームなど機器が断線のため故障した。震災当初は、石油不足のためスタッフが通勤困難、連絡も取れず5日間休診した。被災患者を数人診ている。被災者には当面無条件で窓口負担を免除するべき。協会・保団連を通じて要請して欲しい。この間、沿岸部へ医療支援のため避難所を訪問したが、口腔状態が悪化した避難者が多数いた。口腔ケアまで手が回らないのではないか。限られた物資なので避難者に丁寧に診療ができなかったことが歯がゆい。被災者への医療支援は、今後も可能な限り続けたい。協会は沿岸部で被災された医療機関の再建に全力を尽くして欲しい。歯科医師の友人は、沿岸部で被災し診療所が全壊した。来月からその友人への支援も兼ねて当院で勤務医として受け入れる予定。厳しい状況だが、自分ができる支援は今後も続けたい。
2
M医院
 被害は軽微だった。震災当初は、停電したが診療に影響は特になかった。内陸に避難している被災者を10人程診ている。沿岸部の被災者はあれ程の被害を受けたにも関わらず、地元に帰りたがっている方が多い。また、避難者は独居の高齢者もおり心配。沿岸部住民のコミュニティが震災で破壊された。国は復興支援を急ぐべき。政府は、危機管理能力が欠如している。財源論を展開することは、全くナンセンス。被災者の窓口負担の問題も同様で7月で線引きならそれまでに被災者の生活基盤の整備をする事が大前提。この間の国の対応には憤りを感じる。
 それに対し保団連の支援活動には頭が下がる思い。今こそ保団連・協会の頑張りどき。県内陸部はいいので沿岸部の被災された会員の再建に全力を尽くして欲しい。内陸部の先生方は、沿岸部の先生方への支援は惜しまない。そう思う先生方を協会・保団連は、組織化して大きな支援の力として欲しい。
また、被災者の生活再建も今後の課題。自治体は、早急にグランドデザインを作成し、住民主体の町の再建に取り組んで欲しい。
3、大槌町避難所(弓道場) 避難所への訪問途中,被害が大きかった釜石市、大槌町の被害状況を確認した。津波により町は壊滅状態。町に人影はなく、数人作業員が重機で瓦礫の撤去作業を行っていた。残った建屋も3階近くまで浸水した形跡があり、沿岸部の津波被害の大きさが見て取れる。震災後2カ月経つが、瓦礫の多くは残ったままの状態。早急に撤去作業が必要である。
避難所である弓道場に到着し、青森協会からの支援物資を地元大槌町の会員I先生に届ける予定だったが、I先生が一週間不在にされていたため医療支援に来られていた大阪で開業のT先生に託けた。T先生より医療支援の有り方などお話いただけた、以下報告する。
 「大阪府医師会の要請でに518日から21日まで大槌町の避難所で医療支援を行う予定。阪神・淡路大震災の際も当時救急専門医だったが事も有り、避難所だった兵庫高校で3カ月常駐していた。多くの避難者は地域の先生方を頼りにしている。我々は、地域の先生方の再建のため影ながらサポートするスタンスで取り組むことがポイント。仮設であれ早期に診療所が再開されることが望まれる。大阪府医師会としての支援は5月末までとなる。組織的に継ぎ目なく支援を継続して行く事が重要である。

2011.5.20
兵庫県保険医協会事務局 足立俊彦

現地レポート34 施設利用者の25%が死亡 壮絶な現場の実態

津波到来時で止まった時計
 5月10日も、被害の甚大だった気仙沼市と塩釜市、多賀城市、七ヶ浜町、大和町、大衡村の会員医療機関を愛知協会、富山協会、京都協会から参加した4人の事務局員が訪問。合計17人の会員に直接会い、お見舞金を渡すとともに、政府への要望などの聞き取りを行った。兵庫協会の平田と愛知協会の澤田事務局次長は人口比で死者・行方不明者の割合が一番高いといわれる山元町を訪問。同地で開業しているある会員は、診療所が冠水。診療所の中は泥だらけで、時計は津波が到来した午後4時2分を指したままとまっていた。震災後、栃木県から訪問診療車を借りて、避難所を回って診療にあたっている。ただ、診療所の復旧の見込みは立っていない。先生は「この地域は、震災後、最近まで立ち入り禁止区域だった。最近ようやく日中のみ立ち入りが許可されるようになった。多くの患者さんが亡くなったし、助かった患者さんも避難生活を送っている。現在診療所の近くを走っている常磐線も、震災を契機に内陸部を通すという話もある。そうなれば駅も移転してしまうし、地域が元に戻るのは難しいだろう。同じ場所で再開しても、患者さんが戻ってくるのか分からない。地域の患者さんが避難している地域には、すでに多くの歯科医院があり、そこで開業するのは困難」と今後についての不安を語った。また、「この地域では、建物を行政に取り壊してもらうのかを決める期限が迫っている。復興計画などが決まっていない中で、家や診療所をどうするか決めさせるのは酷だ」と述べた。先生は同地で開業して15年になるが、「あと5年で借金も完済するのに、また、大きな借金を抱えることになりそうだ」と先行きの厳しさを語った。
 診療所が冠水した会員は、5月20日から、診療所の隣に仮設診療所で診療を再開する予定。仮設診療所の設置に至った経緯について、「浸水した診療所の復旧には、建築用の部材が手に入らず、時間がかかる。それで、仮設診療所を設置した。診療所の復旧後には、仮設診療所に新しく設置するチェアを移設する予定」と述べた。仮設診療所は買取で設置する場合は、最低限の医療機器を含めても1000万円以上かかる。先生は、仮設診療所の建物をレンタルすることにし出費を抑え、診療所の復旧に注力する考え。診療所は、復旧作業がある程度進み、内部の泥は取り除かれていたが、泥をかぶったカルテはそのまま。「検死のために歯型がほしいという遺族からの問い合わせがあるが、なかなか見つけることができない」と述べた。
プレハブの仮設診療所
 また、名取市でオーナーを務めていた診療所、特養、ケアハウス、グループホーム全てが全壊した会員は、現在は、被害の少なかった若林区の特養に診療スペースを開設して、診療を再開していた。先生は当日を振り返り「名取市の診療所で診療を行っていたが、地震が発生した。地震で防災無線が破壊され、正確な情報が無かったが、地域で唯一の3階建ての建物であるケアハウスに、特養の入所者などを避難させるように指示をし、自身も特養に向かった。特養に入ったところで、津波に襲われながらも、流される入所者を助けた。津波は首までの高さに達し、それぞれの施設が孤立状態に。その後、入所者や他施設の利用者など特養にいた人を大広間に集めて、暖をとるために火をおこした。厨房にあった油を使ってたいまつを作り、明かりをとった。また、津波により自宅の2階などで孤立した人を、いかだを作り助けたりした。2日目には、流れてきた船を利用し、避難者全員を陸まで避難させた」と壮絶な体験を語った。「避難中に特養の中で、朝までに多くの人が亡くなった」とし、「医師は医療機器や薬が無ければただの人だということを実感した」と無念そうに語った。最終的には入所者など関連施設の利用者164人のうち25%が亡くなり、職員も4人が犠牲になったと悲惨な実態を明らかにした。助かった施設利用者は、現在は同法人の特養に入っているが、定員の140%になっているとのこと。「行政は、いつまでその状態を続けるのかといってくる」「名取市の施設は全壊ではなく、強半壊とされ、今後補助金の交付対象などから外れるのではないのか」と行政の対応に不満を述べた。
 
2011.5.11
 兵庫県保険医協会事務局 平田雄大

2011年5月20日金曜日

現地レポート33 岩手県の14医療機関を訪問 沿岸部の早期復旧を求める声

 5月17日(火)は、岩手県北上市内の会員医療機関14件を兵庫協会事務局・足立と青森協会・新谷事務局員が訪問した。県内陸部の北上市では、震災による被害は比較的軽微なものの、訪問した会員の中には県沿岸部で津波により親族を亡くされたとの報告があり、国に対して津波被害が甚大な沿岸部の早期復興を求める声が寄せられた。以下、報告する。

1、M歯科
 震災当初、停電と断水により数日間休診した。診療所はカルテ棚が倒れた程度。原発事故による放射能被害が心配。震災以降、患者が減っているのが心配。
2、Hクリニック
 事務長が対応。被害は軽微。沿岸部で被災された透析患者の受け入れる準備をしているが、今のところ被災者は診ていない。
3、S歯科
 天井に少しヒビが入ったが、被害は軽微。被災された患者を数人診ている。ある被災患者より窓口負担免除が7月までとの通知を知り、「入れ歯を7月までに作って欲しい」との依頼があった。被災者に対しては、一律に期限を決めるのではなく、当面は無条件で窓口負担を免除にすべき。被災された患者さんこそちゃんと診療をしてあげたい。
4、S内科
被害は特にない。
5、E歯科
 事務員が対応。照射器など医療機器が破損。待ち合い室にヒビ。お見舞金をお渡しした。
6、A歯科
 受付対応。3月15日から診療再開。特に被害はなかった。
7、O内科
診察室にヒビ。地域医療を守るために何とか今が踏ん張りどころ。阪神・淡路大震災と比較して復興のテンポが遅い。遠方からの支援に感謝する。
8、F歯科
 受付対応。特に被害はなかった。
9、W歯科
待ち合い室にヒビ。断水と停電により5日間休診した。
10、I歯科
 停電とボイラー故障、またガソリン不足のためスタッフが通勤できず数日間休診した。4月17日から19日まで県沿岸部に医療支援に行った。震災後一カ月もすると、入れ歯のメンテナンスなどで不具合を感じている被災者が多かった。あらためて被災者の口腔ケアの重要性を痛感した。今後も被災者支援は続けて行きたいと思う。
11、T歯科
 診療所は特に被害はなかった。実母と実兄弟が実家の大船渡市で津波に流された。震災後約2カ月経つが、沿岸部の状況は全く変わっていない。沿岸部の被災者は瓦礫の中で途方に暮れているのが現状。国は早急に復興支援すべき。
12、F歯科
 ファイル棚が倒れた程度で特に被害はなかった。
13、S歯科
 パノラマレントゲンが倒れて故障、壁にへこみ。2日間休診した。沿岸部の被災医療機関に見舞金をカンパしたい。
14、Tクリニック
ファイル棚が倒れた程度で特に被害はなかった。沿岸部特と内陸部では被害の性格が全く異なる。沿岸部の被害と比較して被災したという意識はない。この間、数回沿岸部へ医療支援に行った。震災により自治体自身も被災したため、ボランティアを束ねるコーディネーターが不足している。その点では阪神・淡路大震災での経験を活かすことが必要ではないか。ボランティア間の連携が今後の課題であると考える。沿岸部では町自体が壊滅状態で地域のコミュニティも破壊された。生活再建が喫緊の課題である。沿岸部で開業していた友人は、津波で診療所が流された。まだ開業して4年目で二重ローンなど資金の問題、町の復興の目処がたたない状況で再起するかどうか悩んでいる。国は財源度外視で早急に復興支援すべき。

2011.5.19
兵庫県保険医協会事務局 足立俊彦

現地レポート32 岩手県内陸部の会員訪問

 保団連の岩手県保険医協会支援隊として、兵庫協会事務局・足立をはじめ、青森、東京、石川の各協会から4人が5月16日(月)、岩手協会に到着した。
最初に岩手協会から、全985会員医療期間のうち津波被害が甚大であった県沿岸部を中心に全半壊約60件、一部損壊は100件、また、会員のうち死者・行方不明者8人との被災状況報告があった。
  今回は、被災状況の確認が取れていない県内陸部(北上市、花巻市)の約80件を会員訪問し、被災状況を確認のうえお見舞金を渡し、要望を伺う。
  この間、岩手協会には会員から、①被災患者の窓口負担免除などの保険請求上の取り扱い、②施設、医療機器の補修のための資金確保など問い合わせが寄せられている。訪問時には合わせて上記2点についての情報提供と震災特別融資へのニーズも把握する予定 。

2011年5月16日月曜日

現地レポート31 西宮市・広川恵一先生より

 兵庫協会・西芦支部それぞれ震災対策本部から4月29日~5月2日の間に仙台・盛岡・青森・福島・いわきとそれぞれ訪問させていただき、診療や避難所の現場をはじめあらゆるところでさまざまなとりくみをしている医師・歯科医師・協会事務局をはじめ市民の方たちからお話しをうかがうことができました。

■今回の目的は
①宮城・盛岡・青森・福島各協会はじめ現地で取り組んでいる方々のとりくみの状況をうかがうこと ②兵庫協会と西芦支部の災害に対するこの間のとりくみを伝えることと
③協会・支部として協力できる課題を見出すこと
④青森・浅虫での<ほっと一息プロジェクト>に参加させてもらうこと
⑤兵庫協会・西宮芦屋支部編<被災地での生活と医療と看護>をお届けする ということでした

 ※<クリエイツかもがわ>から今年1月14日に出版した<被災地での生活と医療と看護>(3月増刷分)と、西宮芦屋支部では阪神淡路大震災直後よりボランティア活動や、<震災のつどい>で協力を続けてくれている二胡奏者の劉揚氏(静岡県袋井市在住)から被災地にと届けられた新しく出されたばかりのCDを届けさせてもらうことでした。



■訪問地は
28日(木)夜出発 知立市泊
29日(金)いわき/広野町からの避難者受け入れの湯本・新つた いわき泌尿器科 仙台市泊
30日(土)仙台/北村神経内科クリニック・宮城協会事務局 松島/松島海岸診療所  盛岡市泊  
1日(日)盛岡/岩手協会事務局 青森・浅虫/ほっと一息プロジェクト 仙台市泊  
2日(月)仙台/宮城野区・亘理町避難所 福島/福島協会事務局   いわき/いわき泌尿器科 新つた  車中泊
3日(火)夕帰着

■今回の訪問であらためて大切だと感じたこと
①各協会の震災による被災状況はさまざまで津波被害の沿岸部と内陸部は異なっています。震災のとりくみは被災現場・地域によって、被災内容によってさまざまであって、時間的経過の中でニーズ・課題も大きく変わっていきそれを見定めながら、現場の中でしかそこの問題はつかめず、他の方法は参考にできても必ずしも当てはまらないことに留意しながら、近隣をはじめ全国からの力を適切に得ながら復興に向けていくことが大切でこのためには現場の話を伺うことが基本となると考えました。
②生活リスクの発見と地元のかかりつけ医療機能の発揮が大切であり、避難所での(に限らず被災地での人々の)血圧の高い人は多く健康相談でも大きな課題で健康管理に努めることが大きな課題と考えました。生活面・精神的な負担からみられる医療課題も限りなくあります。それを(血圧チェックなどを)窓口として被災地の人々のニーズと生活環境のリスクを見出しながらその改善と健康管理状況を改善構築していくことに役立てながら、地元医療機関~かかりつけ医による継続した受診への意欲を協力に支えていくことが大切と考えました。
③お互いの状況の理解・情報交換・支え合いがお互いの意欲の回復と再建に役立ちます。各協会事務局でのお話しを伺う中でお互いの被災状況の復旧・復興の情報交換が大切で、それはお互いの復興の意欲を支える大きなきっかけとなると考えました。被害が甚大であった医療機関には地元をはじめ周辺・全国からのその方法を得た上での協力が必要であり、同時に医療機関どうしの情報交換を支えて地域復興の支えとなるべく地元の診療機能回復に協力することが大切と考えました。
④市民に説明ができ役立つ正しい情報の正しい入手のために主体的な動きが大切で、福島協会では6月の総会で放射能についての研究会をひらかれるとのことです。兵庫協会でも放射能障害・防御の研究会、原発事故についての研究会が開かれています。とくに原発事故については毎日のさまざまな報道や見解が飛び交う中で医療の現場では長期にわたる情報収集・交換等が大切と考えました。
     
⑤医療がいのちと暮らしをもるたしかな一翼となることが大切で、 <ほっと一息プロジェクト>のとりくみをみさせていただいて、リクレーション・芸術活動・文化活動などその支えも医療活動の一環としてもとめられ、その機会を利用しての個々人のそれぞれがもつ健康管理機能を高めることが今後長期にわたる被災地医療に重要であると考えました。これは<被災地での生活と医療と看護>にも繰り返し触れられていますが、阪神淡路大震災で避難所やとりわけ仮設住宅のふれあいセンターで経験したことです。
 被災地では血圧の上昇がみられ、地域での脳心血管障害の今後の発生が高まる可能性があり血圧の管理は緊急の課題と考えられます。高血圧症は慢性疾患の中で最も多く血圧は誰でもはかれ話題にできる内容であることから、血圧測定を窓口にかかりつけ医療機関への受診を確実なものとするようにして、これまで以上に健康管理を協力に推し進める機会とすることが大切と考えます。同時に夏に向かって感染症の危険性も高まりその時期的な・場所的なリスクを見定めて地域の人々や行政に働きかけていくことも医療現場の仕事と考えらました。
⑥被災地の人たちの気持ち・要求が第一に 大槌町からの人たちをはじめ避難されている人たちから、「助かった命、頑張ろう」という一様に再建のへの静かな意欲を感じ取ることができました。地域再建の担い手は地域住民であること。総じて地域住民が発災直後からの全過程にわたって地域救援・復旧・復興の担い手としてあるべく・機能できるよう、医療者の立場からその事実に学びながら幅広く情報発信もしながら関わることが大切とあらためて思いました。
⑦被災地診療は日常診療の延長線上にあります。医療者としてもその直接的な医療行為や専門性に役割を限定しないで、地域の人々が主体となった地域との関わりの中でその専門性も活用しながら、他の診療科・看護・介護・福祉からはじまり教育・文化・行政と幅広い連携を図りながら、その機能を発揮することが阪神淡路大震災でも経験されたことですが大切であると考えます。

今回あらためて感じたことは、沿岸部の津波被災地と避難所の深刻さは相当なものがありますが、その被災地とそうでないところは大きく異なるということでした。3月に訪問時には仙台市中心部は緊張感があって仙台駅は列車の運行は停止で閉鎖され、ガソリンスタンドは20L給油制限で長蛇の列で、安全が確認されないことから立ち入り制限場所も随所に見られ、町中はリュック姿の人が大半でしたが、復旧が強力にすすみ今回訪問の仙台市も盛岡市も一見被災地という印象はありませんし、津波被災地以外は走行していても地震の被害がほとんど表に見られませんでした。地元の人々の復旧・復興の力を見ることができました。もちろん広範囲に避難されている人たちがいて、受け入れる施設もあり、原発被害もあり東北・関東全体が広範な被災地であることは変わりません。
同じ東北地方でも被災地といってもとりわけ津波被災地と以外の地域との違いは大きく、現在行われているように、沿岸津波被災地に隣接した自治体ごとの連携体制で災害復旧・復興をすすめ、人的物資の全国支援の窓口責任を持つことは合理的と思いました。甚大な被災地に災害復旧をすべて甚大な被災自治体が担うのは困難であり、幸いにして直近の津波被害のない自治体の協力はお互いを知り合っていることから連携はとりやすいことと人的移動や物資の搬送も容易で全国支援の上手に得ながら最小の労力でニーズに従った災害対策が得られると思いました。

■今回の移動と宿泊について
持参する荷物が相当に多いのと主要幹線から外れた移動もあるため車での移動としました。また一日の診療を終えからの出発ということもあり、また家内に仙台まで往路運転を交代で手伝ってもらいました。
28日(木)の夜間診を終えて午後8時にこちらを発ち、3時間ほどの距離にある愛知の知立市で一泊し、翌日朝5時半に出発して午後2時にいわきに到着。仙台に車をおき、盛岡・青森にはほぼ復旧したばかりの東北新幹線で移動しました。
予定も変更があったりギリギリまで決まらないものもあり、宿舎は前日か当日にとることにしました。ゴールデンウイークであること、震災復興関連の人たちの宿舎や避難所になっているところもありとりにくくなっていましたが、それでもとれないところはありませんでした。災害のない普段であれば難しかったと思います。宿泊申し込みで「復興の作業で来られているのですか」と聞かれるところがありました。「そうではないです」と答えましたが復興関係であると宿舎として対応しているところでは宿泊費用は安くされるところがあります。
それぞれ各事務局では、宮城協会の野地俊一事務局長、岩手協会の畠山恒平事務局長、青森協会の広野晃久事務局長、福島協会の菅原浩哉事務局長、に多忙な中に時間をとっていただきました。
各医療機関、避難所など訪問させてもらったりいろいろな方々から話をうかがうことができました。
帰りは2日(火)午後8時半にいわきを発ちました。3日の朝から予想通り断続的に渋滞が続きました。仮眠と休憩を取りながら3日(火)午後6時に無事に帰着できました。総走行距離数は1990.6kmでした。

 ■訪問地


29日(金)  いわき

いわきまでの道は脇の小高い山に桜が綺麗にそれを優しく染めているのに気がつきました。原発事故のため通行禁止となっているこの道の先も同じく静かできれいな景色が続いているのだろうと思いました。
  県から依頼を受け緊急時避難準備区域の広野町からの80名近い避難者を受け入れている湯本温泉(野口雨情ゆかりの)<温泉新つた>(しんつた)を訪問し、女将にいまの様子をうかがいました。地元の旅館はすべて休館で可能なところは、県からの依頼で原発での作業員の人たちあるいは被災地の人々の避難所として受け入れていています。一時的であると思いますが湯量は減少しているとのことです。4月11日の震度6弱の大きな地震の震源地はすぐ近くとのことでした。原発も近く心配が続きます。市役所支所の入り口の「2階でヨウ素剤の配布行います」の張り紙が目をひきました。
 そのあと発災直後600名の透析患者を新潟・東京に搬送したいわき泌尿器科を訪問しました。仙台で宿泊しました。午前4時半ころ携帯の地震警報で目が醒め5秒後に揺れを感じました。
         

30日(土)  仙台 松島 
 午前8時過ぎに宮城協会理事長の北村神経内科クリニッック・北村龍男先生を訪問させていただき、そのあと9時過ぎに宮城協会で野地事務局長、保団連震災対策本部で応援に入っている 中重治保団連事務局長から状況をうかがいました。
  北村先生からうかがった話ですが、その時貝をとりに浜辺にいっている人がいて、地震が来たとき海辺の砂地にひびが入りそのあと水が引きはじめそのあと沖を見ると真っ黒な壁が立ち上がって迫ってきて30分後に第一波がきたとのことでした。以後青森の浅虫でもお話しをうかがうことがありましたが、このような記録は聞き語りで残しておくことが大切と思いました。
宮城協会で行った会員アンケートでは1600名のうち1200名回答があり、一部損壊が300名で、全半壊が100名(診療従事できず)とのことで、会員訪問を5月中にやりきろうと頑張っているところでした。ボランティアにしてもらいたいことの第一はヘドロの除去を手伝ってもらうことだそうです。現地を移動する中でまだまだその作業は残っていると思いました。避難所のことでは医療供給体制も不十分であったり衝立(間仕切り)もないところもあるとのことでした。
宮城協会では3月に訪問のときもそうでしたが体制の厳しい中それぞれの会員の訪問を行い様子をよくつかむようよくされていました。
午後から松島医療生協歯科の井上博之先生を訪問しました。井上先生からは 4月24日(日)保団連の研究部会で同席し震災直後からの様子ととりくみの報告をうかがい、私も阪神淡路大震災の経験から今回の地震・津波について考えることを発表させてもらう機会がありました。 仙台から松島まで道路がこんでいるので1時間のところが2~3時間かかるので、列車で行く方がいいと協会事務局ではすすめられました。日増しに道路状況が混雑してきていること、GWにはいったことでの観光客、とくに松島の温泉が再開したというニュースが入ったことそれに「GWで全国からの多数のボランティアが来られる」というようなことでした。持参するものが多く、気にはなりましたが車で移動したところ午後1時過ぎに通常の50分ほどの所要時間で到着することができました。
途中の多賀城市では埃っぽさはありましたが、3月21日に訪問させていただいたときとは打って変わり、塩竃までの仙塩街道の多賀城市を中心に道路脇にデコボコになった自動車が鈴なりに並んでいましたが9割以上除去され、飲食店や自動車会社など多くの再開がみられました。交差点の信号機が機能しないところが数カ所あり交通整理者の姿はなく、車両どうし気をつけなければならないところがありました。 松島はこの日温泉が再開したということ・ゴールデンウイークということもあって観光客の姿も見られましたがおそらく普段の活気ほどでなかったと思います。
井上先生によると診療所は松島海岸のすぐ近く海抜3mで足下まで水が押し寄せてきて事務長さんたちの機転で、レセコンほか医療機器を2階に持ち上げて被害を最小にできたとのことです。28日までに床にたまったヘドロをはき出して床をきれにすること・廃材を処理するなど、たくさんの人たちが来て手伝ってくれたとのことで、被災の面影はほとんど見られないくらいになっていました。松島の津波の高さは3mでその北は10mとのことで、松島の沖に並んだ小島が津波の防波堤になったのではないかと言われているとのことです。それから仙台に戻りJR仙台駅の隣の屋上駐車場に車を置き、盛岡に向かいました。
         
1日(日)    盛岡 青森・浅虫 
 午前9時に岩手協会を訪問して畠山事務局長から状況をうかがいました。会員1000名弱で4名の方が亡くなり4名の方が行方不明。 安否確認などのアンケートでは150施設からまだ未回答で60施設が全壊で多くは津波であと医療機関の多くある大船渡・陸前高田などでの火災など他の被災地区で聞くことですがとりわけ大規模な被災・火災があった地域では医療機関の先生方も時間の経過の中で元の場所でという気持ちになりながらも、その地域にどのような地域復興がなされるのか・どれだけ元いた住民が戻ってくるかそれぞれわからない中で決めかねることもあるのではないかと思われます。なんとか地域の文化を損なわないかたちでの地域復興がなされつつ、その中でのかかりつけ医機能が発揮できることができればと祈らずにはいません。
岩手は三陸海岸の津波による被災が甚大でしたが、4月11日のいわきを震源とする2度目の大きな地震では、なぜか大きく話題にはなっていないとのことでしたが、一関市が被害が大きかったとのことです。
事務局3名・非常勤の人を入れて5名という体制でよく頑張られていました。被災した各県はそれぞれ広域であり安否確認と情報発信に全国からの協力と連携が大切と思いました。今後は沿岸部とくにマスコミの入っていない地域と内陸部とくに一関市ほか地震被害地域の状況把握が大切と思いました。盛岡にある友人の医療機関に立ち寄り話しをうかがいたかったのですが時間がとれませんでした。
そのあと京都協会の関浩理事長・中村暁事務局のスタッフ2名と11時過ぎに新青森で合流して、青森協会の中村寛二前事務局長の運転で 昼過ぎ浅虫温泉・<辰巳館>に到着しました。
ここで青森協会理事長の大竹進先生が中心になって取り組んでいる<ほっと一息プロジェクト>に参加させていただきました。町長はじめ多くの職員が津波で亡くなった大槌町でいま高校の体育館に避難している人たち、陸前高田市、釜石市の避難所にいる希望者全員が対象で、費用は義援金でまかなうようにされています。これは二泊三日で浅虫温泉で休養をとってもらい、その間に健康相談・健康チェック・必要な人は受診・生活相談を行うプロジェクトです。5月6日までに150名が参加予定とうかがいました。ボランティアのとりくみですが県から予算の半額の協力を得たとのことです。
ちょうど19名の人たちが昼食を終えようとしていて浅虫水族館に出かける前だったので、関先生と二人で希望者の血圧測定と健康相談を受けました。それぞれ、170/96、180/96、176/110…。204/112この方は以前降圧剤を服用していて良くなったからとやめていた人ですぐ受診してもらいました。予想していたことですが血圧の高い人が多く、避難所での暮らし(本来生活の場所でない)は血圧上昇の要因でもあり、血圧を窓口として環境の見直し・改善と日常の健康管理の大きな柱として、受診を支えていくことなどその対応・解決の<道筋>をつけていくことが実際的でわかりやすく有効と考えました。そのことを早速大竹先生に伝えました。
 被災地での血圧上昇が今後の脳心血管障害の発生のリスクを高めると思われ血圧の管理は緊急の課題と考えられます。同時に夏に向かって感染症の危険性も高まりその時期的な・場所的なリスク評価を示していくことも医療現場の仕事と考えられました。
血圧をはかりながら塩分を控えることを説明すると「塩辛くなければ食べられない」とのこと。いかに塩辛いものがおいしいか食べ物の例を挙げて説明まで受けました。でもそれだけ減塩の大切さはみなわかってられるわけで治療はここからはじまるのだと思いました。それ以外に健康に関する質問は絶えることなく医師・歯科医師・薬剤師・看護師・放射線技師ほかメディカルスタッフの役割は限りなくあると思われました。
県がラジオを一家に一台配布したのですが雑音がひどく使い物にならず、みな何故かと思っていたところ中継局がやられていたことがわかりました。「(久しぶりで)つい遅くまでテレビをみていた」という人が多かったようです。またそのような話の中で、「この服はすべてもらいものです」、「ズボンだけわたしのものです」、「ながらく畳の上で寝ることができなかったが昨夜は畳の上で寝られてほんとにうれしかった」、「町長も職員さんもたくさんが亡くなったので何とかまとめる人が出てきてほしい」、現地での方言で聞いたのですが「機転が利いて行動力のある人」そんな人がほしいとのことでした。「弟が病気(白血病)で宮古の病院に入院していて見舞いに行っている時に津波が来ました」、「(たまたま)出かけているときに津波が来た」「津波から叫び声が聞こえた」…など死と隣り合わせを経験した人たちばかりでした。これからの生活に希望が持てる社会保障と精神的なサポートは大きな課題です。
 <被災地での生活と医療と看護>の中の「看護訪問」の記録で繰り返し触れられていますが。被災地の人々の保清、感情表現を支える、医療・介護・福祉につなぐということは同じく大切なことと考えました。
ここでは関先生と現地への移動やあいだの時間にいろいろお話しができとてもよかったです。また今年2月から中村さんから交代して事務局長になったばかりの広野事務局長にCDを手渡した のですが、音楽を聴く機会もほとんどなかったとのことで喜んでくれました。大竹先生から兵庫のように薬科部を作れないかと言われていてさあどうすすめようかとしているその中での震災・津波だったとのことです。そういうお話しもうかがえました。被災地ではどのような薬剤が必要であったのか、供給にどのような問題があったのか薬科の立場から明らかにしなければならない課題も多いと考えます。兵庫協会の薬科部でも大きな課題の一つにさせていただこうと考えています。今後の連携の中で各協会から教えていただければと思います。


大竹先生が仙台の花見からバスで30名の人を連れて戻られて、大槌町の人の「弘前の桜は日本一・世界一の桜だった」との声。宿泊(入浴と部屋割り)のオリエンテーションが終わって、関先生と私から挨拶させてもらい、そのあと女将から挨拶と「町の散髪屋さんがボランティアで散髪させてもらいます」と申し出があったので希望の方は私がお店まで案内します」とのこと。さっそくお風呂に入ってもらっている間に時間を見つけてわれわれの打ち合わせ。
浅虫で泊まり、血圧測定を軸にしてじっくりとお話しを伺ったり健康相談など受けさせてもらいたかったのですが、翌日午前は仙台の避難所を訪問を予定しており、午後に福島協会とそのあと夕方までにいわき市に着きたいこともあって仙台に戻りました。大竹先生、関先生、女将とみな玄関に送ってくれました。ここでも忘れがたいとてもいいチームワークでした。医師も事務局スタッフも旅館の女将はじめ職員さんに町の人たちみんな気持ちが一つになってそれぞれの持ち分で一所懸命やっているのがとても気持ちよかったです。またこちらにぜひ来させてもらいたいと思いました。






2日(月)  仙台 福島 いわき
 午前9時から避難所となっている宮城野区の岡田小学校とそこから30kmほど離れますが、亘理町の吉田小学校を訪問しました。それぞれ3月20日に訪問させてもらったところです。
岡田小学校ではしきりが入り口のみでプライバシーも保ちにくく、前回訪問したときと同じような敷物の状況でした。働きに出ている人、家を片付けに出ている人などいて比較的まばらで、作業員の人たちが多く見かけました。学校の先生・世話人の人によると現在250名で、その世話人の人に阪神・神戸の方からきて3月に医療支援で訪問させてもらったこと、このたび仙台・岩手・青森を回っての帰りでどうなっているかと立ち寄ったと伝えると親切にいろいろ答えてくれました。彼自身も阪神淡路大震災の時水道管の修繕に応援に行ったことがあるとのことで、修繕のための部品を持っている家庭が多く助かったのをよく覚えているとのことでした。
  支援の医療体制もいろいろ変遷があり現体制も連休明けまでとのこと、医療機関から比較的遠くバスの便がよくないとの話を伺っていたので、そこの世話人の人に聞くと、高齢者の医療機関の受診は幼稚園のバスなど借りていたのですが、遠方のため難しくなっていたところ避難所に定年退職したバスの運転手さんがいて週2回、その人の車で医療機関を一巡するようにしているとのことでした。 ここでも大変な中での助け合いがありました。 仮設住宅の入居が急がれますが今月の末にはという現場の人の意見でしたが、たまたま出会った教育委員会の人たちはその考え方に否定的で、まだまだ8月くらいかという感じでした。あと学校があるのが2カ月その間は無理と考えられているようでした。
  そのあと亘理町の吉田小学校を訪問しました。校庭で一人で草引きをしている初老の女性がいたので座り込んで話を聞きました。同じく3月に医療支援で訪問させてもらったことを話すと打ち解けて、「…この年まであんなおそろしい災害に遭うことは思いもしなかったです…」。ここは最大時1800名現在150名で避難所は体育館だけになっているとのことでした。避難所となっている体育館ではここもついたてはなしでした。町の職員さんから状況を詳しく聞きました。前回詳細に説明してくれた町の保健師さんは役場に戻ったところでした。 ここでも<被災地での生活と医療と看護>を数冊お渡ししました。仮設住宅の入居は今日3件あったとのこと。やはり8月末には全戸仮設入居は果たせると思うとのことでした。学校の隣の公園に<ふれあいセンター>も含めて仮設住宅の建設がすすんでいました。
  午後1時に福島市の福島県保険医協会の事務局を訪問し菅原事務局長が丁寧に対応してくれました。1480名の安否確認のアンケートを送り150名を残し回答を得たとのことでした。900施設回収時点で全壊は10施設でやはり海辺近くの施設の津波による被害が相当に大きかったとのことです(福島県保険医協会ホームページに菅原事務局長により詳述されています)。
  原発事故・放射線障害が大きな問題となりますが6月の総会で記念講演を開かれるとのこと。いろんな情報が飛び交う中でとにかく研究会活動を行い情報交換と発信に努めることが大切と考えました。こちらも事務局6名という少ない体制の中よく頑張られていて、引き続き同じく医療支援と原発・放射線障害についての情報発信と全国からの協力と交流・連携が大切と思いました。
 ・・・ここから side story みたいですが少しちょっと細かく書きます・・・
  福島からいわきに向かい、私の小学校時代からの友人でいわき泌尿器科の院長の川口洋医師を訪問しました。透析専門医療機関でまず断水で透析用の水とついでガソリンが供給がされなくなることが予想された段階で、移動できる間にということで東京方面に450名、新潟には150名一時的転院を行い、新潟には搬送に同行したとのことです。この作業は大変なことだったと思います。本人は一言もそのことについて触れませんでしたが、先が読めない中でのその判断はきっと難しかったことと思いますが、それを決断して実行に移したのは大切なことであり、その判断を支える現場の存在は日常の診療のあり方を示しているものと思いました。いまでは次第に患者さんたちも遠方から戻ってきているとのことでした。
  そのあと私の知人で木版画家の大久保草子さんのお家を訪問しました。小高い丘の中腹にあって湯本の温泉街の一部が望めます。「こんなときは誰かにきてもらえるのがとてもうれしい」とのこと。「風評被害などで物資が入ってこなかったのが大変だったけど、町の小さな雑貨屋さんも数日閉めただけで思い切って早々に再開してくれてありがたかった」など聞きました。地域の生活を支える拠点のあり方やサポートは大切と考えた次第です。そういった場は単にモノだけでなく情報交換や安心感に役立ちます。彼女が作成した<ヒョウタンから牛>という作品をお礼にもらいました。ご主人によると「原発周辺での動物たちの死に胸を痛めてそれが作品になったようです」とのこと。帰りには夕暮れがきれいでそれを見ながら送ってくれました。
  それから<新つた>に立ち寄り女将に渡し忘れていた劉揚氏のCDを届けました。「あれ、これは癒し系ね!」「額の縦じわも消えるかしらね」と早速館内放送でかけてくれました。ちょうど避難している人たちが仕事などから次々帰ってくるところで、「一緒に晩ご飯をどうぞ」といわれてみんなと一緒にその日の晩ご飯のカレーをごちそうになることになりました。あとおかずにほうれん草に鮭の身とモヤシごま油で味付けしたもので、食卓には醤油・ソース類はなし。とても健康に気を配った献立と考えました。そうこうしているとホールいっぱいに二胡の音色が響いてとてもほっとした雰囲気に。いままで音楽があまりなかったとのことでよかったと思います。お世話してくれているのはパートの地域の人たちで3~4人も二胡の音を楽しんでくれました。
  食事が終わると女将が食堂に集まっている人たちに「今日は私の知り合いの先生が来ているからね」「具合が悪い人は診てもらいなさい!」 さっそく子どもが一人やって来て、「ボクは喘息がときどき出るのですが見ていただけますか」としっかりととても礼儀正しく驚きました。「何年生?」「小学校4年生です」「どんなときに喘息が出るの?」それには母親が「季節の変わり目です」。聴診して異常ないことを説明して腹式呼吸と発作時の口すぼめ呼吸と水分を少しずつとることを説明しました。もう一人は咳をする小学校6年生の男児。この子も礼儀正しく顔色良好、食事も十分摂れているので心配ないことを説明して入浴後すぐ休むよう説明。薬での対応も大切ですが生活や療養の工夫や安心の保証を行うことは大切と考えます。
  一通り終わると女将がタオルと歯磨きの入った袋をぽんと私に渡して、「さあお風呂に入って下さい」。避難されている人たちとゆっくり入浴しました。
  女将は朝は5時から夜は10時まではたらきずくめ。食事の買い出しから食事の準備から職員もいまはいないなか工夫しながら一生懸命やってます。報道にあるように毎日余震が続いています。地震がありもし旅館が倒れて避難している人たちが怪我したらとか、旅館には責任はないといわれたものの責任とかそういうことでなく心から避難してきている人たちのことを心配しています。旅館業というのはいろんな人たち・いろんな考え方の人たちがお客さんとして泊まるわけで、傍から見ていてそうとうに懐の広さの普段から求められるというか鍛えられる仕事の一つとあらためて思いました。
  こちらでも帰りは丁寧に見送ってくれました。この湯本温泉の旅館29件はすべて休館で避難所あるいは原発作業員の宿泊施設になっています。一刻も早くみなが通常の生活に戻れるよう心から思いました。ここでこの夏までに元気の出る思い出に残る演奏会が開くことができればと思いました。

 おわりに  
①日常の医療の面での関わりでは、とりわけ血圧の管理を窓口(柱)とした健康管理が緊急の課題として大切と考えました。かかりつけ医への受診を促し治療の継続を確実なものにしていくことが大切(阪神淡路大震災の経験から医療職の中では看護師の役割が大きいと思いました)。
②同時に地域の感染症発生動向への注意を行い、情報の交換を行いながら地域の人々・行政と協力してすすめることが今後の大きな課題の一つと考えます。
③生活基盤の再建が社会的に支えられることとあわせて医療者側からは感情表現をささえるとりくみが大切であると考えられました(<被災地での生活と医療と看護>にも看護の立場から繰り返し書かれています)。
④これからも続く避難所生活・新たな仮設住宅での生活をより健康を損なわないものとするために、内外のふれあいの機会をもつことや文化的なとりくみをすすめられること、それに大きく協力していくことが課題で、医療者としてはその機会を通して健康相談をはじめ被災地の人々の気持ちや不安に応えていくという役割が果たせると思いました。
⑤仮設住宅ではふれあいセンターの「生活といのちを守る」という十全の機能の発揮が大切で、阪神淡路大震災での各地のふれあいセンターでのさまざまな記録を参考にしてもらうことも大切と思いました。
⑥各地で行われる放射線障害・防御、原発についての研究会の内容の交流を行うことが大切であり、それぞれ災害対策本部の役割と考えます。
⑦協会の対策本部の役割としてさまざまな医療ニーズの把握に努めるべく情報交換のセンターの役割を担うことが大切と考えました。そのためにも保団連対策本部・被災地各協会からの情報を大切にしていくことと考えます。同時に阪神淡路大震災の語り継がれる経験を発信していくことがあらためて求められると考えました。
  
  今回の訪問でお世話になった、宮城協会の北村龍男理事長、井上博之副理事長、青森協会の大竹進理事長、京都協会の関浩理事長はじめ、宮城協会の野地俊一事務局長、盛岡協会の畠山恒平事務局長、青森協会の広野晃久事務局長・中村寛二前事務局長、福島協会の菅原浩哉事務局長、保団連の中重治事務局長、避難されている人たちを受け入れている<新つた>女将の若松佐代子さん、かもがわ出版田島英二社長・沖田大介氏、CD寄贈の劉揚氏はじめ多くの方々にお礼を申し上げます。また3月にひきつづき今回の訪問も支えてくれた兵庫協会・池内春樹理事長、西宮芦屋支部・大森公一支部長、各協会と連絡手配にあたってくれた兵庫協会・藤田誠治事務局長に感謝いたします。


西宮市 広川内科クリニック
広川 恵一