ラベル レポート の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル レポート の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年3月15日土曜日

現地レポート50

東日本大震災 現地レポート50
被災地にあらわれる社会保障政策の貧困

副理事長  川西 敏雄
 協会は2月11日、12日に東日本大震災被災地への訪問活動を実施。岩手県大船渡市、一関市、陸前高田市、宮城県気仙沼市の仮設住宅などを、川西敏雄副理事長、広川恵一理事らが訪れ、住民や医師らと懇談した。川西副理事長のレポートを掲載する。

はじめに

 兵庫県保険医協会は今年2月1112日に岩手・宮城両県の被災地へ、広川理事・川西、事務局の藤田・楠・山下を派遣した。

 定期的に被災地を訪問されている広川理事を団長と頼り、私も参加させていただいた。今年の3月11日で、あの震災から丸3年。阪神・淡路大震災を経験した兵庫県保険医協会は、震災20年を来年に控えた時期での訪問である。この日は、全国的に雪、当地でも数年来の大雪だったそうだ。

・訪問場所と懇談者名

①大船渡市・越喜来甫嶺仮設住宅(及川氏)
②陸前高田市・朝日のあたる家(行本代表、気仙川土地改良区・熊谷理事長、公益社団法人 認知症の人と家族の会岩手県支部・今野世話人
③気仙沼市・ロカーレ(気仙沼市立本吉病院・川島院長、ボランティア村上氏、山梨市立牧丘病院・古屋院長、菊池看護師)
④一関市藤沢町・ちくちく工房(阿部氏他)

・懇談内容

1.被災地の現状と今後の課題については、前回訪問後の特集記事(兵庫保険医新聞1月25日・2月5日号)に詳細が載せられているので、ご参照いただきたい。
2.仮設・医療現場で、医科・歯科連携が従来以上に進んでいる。歯科の治療点数ならびに技術料が異常に低いことに、全員が驚いていた。
3.「引きこもり」が、特に男性で増加している。
4.仮設住宅の方々が手作りした物品を、兵庫県で紹介していることに感謝をいただく。

まとめ

・毎回の記述になるが、この国の社会保障政策の貧困が、被災者に如実に現れている。

・兵庫協会は大震災の洗礼を過去に受けたこともあり、現地における医療活動・窓口負担免除措置実現を求める運動・精神的な寄り添いなどを続けてきた。また今後も保団連とも協力し、活動を続ける予定である。

・現地への働きかけは、震災後経時的に内容も手法も変化する。今一度、ボランティアとは何か再認識が必要と考える。

2014年2月5日水曜日

特集・現地レポート49

特集 阪神・淡路大震災――東日本大震災 
被災地訪問と今後の課題(下)
広川 恵一 理事


 協会が、東日本大震災以後につづけている被災地訪問に関する報告の後半を掲載する。

11月と12月の被災地訪問

(上からのつづき)
 11月22・23日の被災地訪問は、亘理―南相馬―いわき・湯本。参加者は、川西敏雄副理事長、白岩一心理事、中西透評議員の各歯科医師と広川、事務局は黒木、楠の各氏。
 亘理・阿武隈川の下流では、護岸工事で再建を果たせた店が、立ち退き移転を求められ、昨年末で無期限休業に入った。
 南相馬市の精神科の堀有伸医師は「PTSDは言われるようにはみられず、むしろ広い家で3世帯7~8人で暮らしていて、仮設住宅に移られた高齢者の認知症が問題になってきていると感じる」とのこと。
 同市内の大町病院では病床再開と共に患者受け入れがすすみ、スタッフの外部研修と全国からの短期受け入れをすすめていること。
 いわき・湯本では他の旅館とともに、長らく広野町からの人々の避難所として機能した「新つた」を訪問。女将の若松佐代子氏から、事故地から29キロメートルにある温泉地の今後についての思いをうかがった。もとの歴史ある温泉地として、観光に栄えることを願うばかりである。
 12月21・23日は、盛岡―宮古―大船渡―陸前高田―気仙沼―千厩・藤沢町の訪問。兵庫協会からの参加者・広川、事務局・藤田、楠、山下4名に、青森協会から大竹進会長含め3名、岩手協会から小山田榮二副会長と畠山事務局長の2名、宮城協会から北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長の3名が現地参加。鳥取協会から家原猛理事(保団連財政部)、保団連から工藤、丸山事務局員の2名が通しで参加。地元協会の参加は被災地の人々にとってとても勇気づけられる。
 われわれの取り組みとして、地元の人々と医療機関をつなぎ、また医療連携に役立つことが今後も重要である。健康問題ではとりわけ高血圧、循環器系の疾患、精神疾患・認知症、そして放射線障害が予想され、その手立てに、地域住民・医療機関・協会・専門団体・ボランティア組織と手を携えてあたることが課題となると考える。
 地元医療関係では、陸前高田病院前院長の石木幹人医師、宮古・後藤泌尿器科・皮膚科(透析施設)の後藤康文医師、気仙沼では医療支援で地元ボランティアの村上充氏、山梨県・牧丘病院院長の古屋聡医師ほか、今回も多くの地元の方々、地元協会の方々に協力いただいた。
 後藤医師からは「阪神・淡路大震災から学びました」と、発電機を医院の屋上に設置し、水タンクを分割して確保したことから津波の際には200人の住民の避難所となり、それで透析をはじめ診療を継続でき、200人の住民の避難所を提供できたことをうかがった。
 移動の車中で昼食を簡便に済ますことを考えていたところ、予想もせず、大船渡では仮設集会所で昼食を用意していただいた。
 五右衛門ヶ原運動場仮設では、後に述べるお話をうかがい、赤岩牧沢テニスコート仮設では、集会所で夕食を用意していただいており3時間にわたる懇談が行われた。
 多くの参加があることは、人間関係が豊かにひろがり、にぎわいもあり情報も豊かになり、何よりもそれぞれの役割が顕在化してきて、とても人間的である。


 
地域の歴史知る大切さ

 一関市藤沢町の雇用促進住宅(仮設扱い)に入居され3人で小さな工房を立ち上げた方の「…津波は私の家も職場も流してしまったが、私の魂とこの腕(技術)は流せなかった…」は心に残ったひと言である。
 このように訪問先も次第に増え、継続する中であらたな学びがある。
 南相馬の建築会社の社長からうかがった話―南相馬には富山県からの支援物資が多かった。
 それは天明の飢饉(1783~84年)で人口が3分の1となった相馬中村藩に、富山の真宗(一向宗)が、親鸞聖人の旧跡参りと通行手形を入手して、前田藩の禁制(戻れば死罪)を破って移住してきたもの(薬売りが情報の中心となったらしい)。真宗は間引きが許されず人口が増えていたこと、また前田藩はその移動を見て見ぬふりをしていたらしい。もちろん風習が違うことから、長らくの間、地元の人とはぎくしゃくした関係が続いたこともあったらしい。
 また、亘理ではイチゴ農家が塩害で壊滅。亘理の亘理伊達氏が、戊辰戦争の敗戦処理で北海道に1870年、2700人で移住し伊達市をつくったことから、亘理町とは姉妹都市で、伊達市がイチゴ農家に声をかけ、誘致して栽培に成功している。
 歴史を知ることは大切で、単に現在の行政の区切りでは割り切れないものがあることも感じる。
 

窓口負担免除措置再開求める住民

 窓口医療費負担免除措置は、14年度末まですべての市長村国保の窓口負担免除としている岩手県、原発事故避難指示区域以外も含め免除されている福島県と違って、宮城県では財政難を理由に13年4月1日から打ち切りが行われ、25万人の被災者が3割負担(70才以上原則1割)に戻った。
 気仙沼の仮設では、「抗がん剤の治療を中断した」「2家族の高齢者介護をしていたうつ病の女性が服薬を中断し自殺された」など、もうたまらず、その思いに「背中を押されて」自治会長さんが、市長さんと一緒に、12月9日、財務省と厚生労働省の副大臣を訪問し、「これでは困る!」と免除再開の支援を求めた。
 4日後、(不十分ながら)手当の算段がついたと担当者電話があり、詳細を待っているとのこと。われわれが訪問したとき、自治会長さんご夫妻からうかがった。その翌日朝6時のニュースに低所得者に限り来年4月から窓口負担減免が決まったと報道された。
 岩手県は江戸時代、最も一揆が起こったところである。幕末に2回の三閉伊(へい)一揆があった。弘化の一揆(1847年)では、野田・宮古・大槌の農民1200人が、南部藩の役人の説得には「聞くな、聞くな」と大声だし耳を覆い、法螺をならし足踏みして遠野に集結し、遠野の役人を通して南部藩と交渉。
 嘉永の一揆(1853年)では同じく、農民が赤白タスキに「小○(こまる=困る)」と書いたむしろ旗を掲げて、釜石に1万6000人集結、半数が仙台領に入り伊達藩に直訴におよび、藩主交代ほか三閉伊の農民を伊達領民か幕府領民にせよという政治的要求3か条、具体的要求49か条と首謀者45人の命の安堵状を求めた。このたびの成果にその影を見いだすことができる。
 そのような歴史があり、やはり語り継ぐことの大切さを考えた次第である。


被災地に集まって/被災地から招いて
知恵出し合おう

 「被災地に集まって知恵を出し合おう」は12年8月に西宮・芦屋支部主催で協会会議室で開いた 「地域医療再生/まちづくりのための処方せん~被災地に集まって知恵を出し合おう~」(青森協会会長・大竹進医師)の講演テーマである。ここでは深刻な医師不足について、勤務医の定年延長、院内開業、医学生へのはたらきかけなどが報告された。
 「被災地から招いて知恵を出し合おう」では、日常診療経験交流会(日常診)プレ企画として、11年10月に大槌町・植田医院の植田俊郎医師、陸前高田病院の石木幹人医師、亘理の上原忍歯科医師を招いた。
 被災地での医療を続ける思いをうかがったところ、植田医師は「私は町の人間です、町の人に生活させてもらっています」、石木医師は「看護師さんから、『先生、患者さんが…』といわれれば動いてしまうものですね」、上原歯科医師は「残されたものの務めと思います」と語られた。
 12年の日常診プレ企画には大町病院の藤原珠世看護部長を招いた。
 「院長からベッドがなく患者を受けられないのは看護師がいないからだ、看護師がいないのは看護部長のおまえの責任だ」と言われたこと。それを真っ正面から受けて立ち、「できる人は1日でも2日でも…」と呼びかけ、被災地医療を経験し学ぶ場を広く提供することと合わせて、看護師が集まり、必要病床回復がはかられたという。ここに院長共々、医療者としての誇りと覚悟を見いだし学ぶことができた。
 13年には、気仙沼市・民生委員の小野道子氏と千厩の訪問看護師(もと被災地特例一人訪問看護師)で、気仙沼でボランティア活動をしている菊地優子氏とを迎えた。小野氏から被災直後の町の状況、菊池氏から一人訪問看護師の経過と仮設で精神を病む人が多く報道がなされていないこと、何よりも住宅が必要なことを報告された。
 今後も被災地と各地を結び、そして被災地の人たちを結ぶとりくみをすすめていきたい。つながることは日々の医療を豊かにし、社会保障充実をすすめ平和を守る確かな力である。


2015年1月17日―震災20年に向けて

 西宮・芦屋支部は、支部総会記念講演では、災害・原発事故を正面から捕らえて、12年7月にはチェルノブイリで6才のとき被曝したナターシャ・グジー氏の講演と歌と民族楽器・バンドゥーラ演奏、13年8月には映画監督・鎌仲ひとみ氏の「ミツバチの羽音と地球の回転」上映、10月には詩人のアーサー・ビナード氏による講演会「ぼくらは何を勉強したら生き残れるのか」を開いた。
 また、19年前の震災の経験から、心肺蘇生の実技研修を始めた。しばらく中断していたことから、20年のメモリアルに向けて街場と職場(無床診療所外来)それぞれを想定した心肺蘇生研修会を、年4回で始めることとした。また被災地訪問も検討中である。
 もうそれぞれ20歳年をとった、阪神・淡路大震災でお世話になった仮設住宅の方々、ボランティアの方々との関係もひきつづき大切にしていきたい。
 震災10年のメモリアルでは、名塩仮設住宅の同窓会をひらき、多くの人たちが参加された。このときの記念講演は、当時東京農大の小泉武夫先生で、テーマは「災害時での発酵食品の底ちから」。20年に向けて課題は山積みである。15年のメモリアルは前号冒頭にあるように書籍化した。
 「避けられる死をなくすこと」~その一点について毎日の診療内容を深めながら開業医としてできる知恵を出し合う機会を拡げていくことができればと考えている。 

2014年1月5日日曜日

現地レポート48 11/23~24被災地訪問参加記




協会は11月23,24日に東日本大震災被災地である、福島県南相馬市・いわき市、宮城県亘理町などを訪問した。広川恵一・白岩一心・中西透各理事が参加した。参加者のレポートを掲載する。


参加記(1)
被災者の将来見すえた しっかりしたサポートを
三田市・歯科  中西  透





1739_5.jpg
南相馬市の雲雀ケ丘病院で堀副院長(中央)と懇談
仙台空港近くの亘理町では、宅地復興の風景が見られるがまだまだ空き地が多く、当地区の住民に尋ねてみると、当地区での建築物の災害への対応は、今後自己責任であるということだった。
 その後、福島県南相馬市に向かう車窓から農地の除塩対策などの風景が見られたが、あまりにも広域で、復興には時間が必要であると実感した。
 南相馬市雲雀ヶ丘病院の堀有伸先生との懇談会の中で、震災後認知症が増加していて、その原因の一つは仮設狭小住宅ではないかとのことだった。
 また南相馬市の大町病院では、除染労働者の肝疾患の重症患者が多いこと、また復興の軌跡を藤原珠世看護部長にお話しいただき、ご苦労を痛感した。
 地元紙・福島民報では、30面中9面に震災・原発事故の関連記事が掲載されて、原発事故関連死も記載されていた。なおかつ、核廃棄物最終処分地を決定せず、福島第一原発周辺の土地を国有化して中間貯蔵施設を建設するのは疑問に思った。
 今なお避難生活を送っているのは、東京電力が充分な津波対策を講じてなかったことと危機管理のまずさのせいである。事故前と同じ水準の生活ができるように、被害者の気持ちを考えて対応してほしい。
 国の責任も少なくない。被災者向けの補助制度の充実と仮設住宅等で生活する人の新たな暮らしをサポートする必要がある。被災者の将来の見える、しっかりとした方針を示すことが重要だ。


参加記(2)
経験つなぎ 被災者によりそう

赤穂郡・歯科  白岩 一心



1739_6.jpg
いわき市湯本「新つた」旅館の女将と交流
私たち兵庫協会では、池内理事長の方針である、憲法13条「幸福追求権」、25条「生存権」に基づく医療運動の一環として、東日本大震災・被災地訪問を継続的に行うことによって、現地の問題点を洗い出し検証しつつ、被災者の方々や被災地から避難された方々との交流を続けている。
 協会は震災直後から今まで、医療支援や避難所各地で行ったコンサートなどの記録や課題などの発表も定期的に行っているが、いずれも継続性が求められ、継続的な被災地の人たちとの交流が大切である。
 11月23日・24日の訪問には、私も初めて参加した。
 最初の見学地である仙台市若林区荒浜周辺から仙台空港近辺の津波被害地は、いまだに傷跡が大きく、空港は再開しつつも空港ターミナル周辺の企業活動は全く再開されておらず、マスコミの報道も全くない。宮城県亘理町鳥の海、阿武隈川河口近辺の住宅街も町ごと消え去ったままである。消え去った町中に、多数の慰霊碑や新しい墓地だけが目立つ地域も多い。
 近隣の人たちの話では、震災直後に家屋を潰す期限を設けて助成金を出し、期限を過ぎれば出さないと発表して、被災者の気持ちはなおざりである。地域の医療再建も、住民の流動化により困難だと言える。
 福島県南相馬市では、人口7万人の都市が一時は1万人まで減少し、現在4万8千人まで戻っている。
 そのなかで、南相馬市では、介護認定や介護保険申請問題、急速な過疎化問題、少子高齢化問題など、原発事故が起こる以前からの潜在的問題が顕在化したことも明らかになった。
 避難することで食生活が変わり、高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、パーキンソン病、胆道疾患が増加することも知ることができた。
 いわき市湯本の数少ない温泉地での観光客減少、川内村や飯舘村、いわき市から南相馬市には、原発事故の影響で、郡山市経由でないと行けないことも知り得た。
 今後の医療問題として、原発事故によるあらゆる国民への情報開示に加え、甲状腺だけでなく、放射線の感受性の高い生殖器への影響、生活改善のための栄養指導、運動指導、健康診断を訴えていく必要性が高い。仮設住宅では、コミュニケーションに乏しいことや老々介護問題も深刻と聞く。
 仮設住宅の方々の医療費減免継続は当然であり、介護保険の充実も訴えていく必要がある。
 私は歯科医師であるが、歯科医師が、震災関連性疾患の肺炎予防のため、口腔ケアを行うことが必要である。自分の口で味わう喜びを回復してもらうための咀嚼機能を維持することも大切である。
 協会は、阪神・淡路大震災の経験を生かして、被災者の方々によりそうことができる。他人ごとではなく、わが身のこととして受け入れることが、阪神・淡路で全国から励ましていただいた、兵庫協会の責務である。
 幸福を追求しながら、自助や共助の強要でなく、公助の充実を推進する呼びかけや運動推進が急務である。
 協会の継続訪問は、今後も東北の方々に寄り添うため、そしてたくさんの個々の尊い命を学ばさせていただくためにも、必要不可欠である。
 同行していただいた、広川先生、中西先生、事務局をはじめとする兵庫協会に感謝を申し上げて報告としたい。

2013年8月25日日曜日

現地レポート47 7/13~15被災地訪問参加記

7月1315日に協会が実施した被災地訪問の参加記を掲載する。

まだまだできることがある

尼崎市・薬剤師 滝本 桂子

 

 最初の訪問先・大町病院では、猪又義光院長はじめ昨年の日常診プレ企画にも参加いただいた藤原珠世看護部長が業務の忙しい合間をぬって、病院の一室を手作りのコンサート会場にして迎えてくださった。私も、ロビンさんの演奏は初めてで民族音楽についてもほとんど知識のない中で興味津々だったが、まさにカルチャーショック!アフリカから南米、ヨーロッパ、世界中の手作りの民族楽器が奏でる音楽が聴衆の患者さんや病院で働く人たちの心の奥深く届く様子を目の当たりにし感動した。

2日目は、仮設住宅を回った。一関市千厩町では予定していた仮設住宅の集会場が参院選のため使えず急きょ「酒のくら交流施設」を使用することになった。

次の訪問地は、気仙沼市・五右衛門ヶ原運動場住宅。ここには宮城県保険医協会井上博之副理事長が参加され、被災地での医療の現状、特に3月で打ち切られた宮城県での医療費窓口負担免除の復活を求める運動について訴えがあった。

ロビンさんの演奏が始まると、不思議な形の不思議な音のする楽器に皆目を丸くし、彼の静かだけれどユーモアに富んだ語り口に引き込まれ、リラックスしていく様子がわかった。訪問看護師の菊地優子さんが同行してくださっていて、最後は彼女が率先して音頭をとって、炭坑節の演奏に合わせて盆踊りの輪が広がった。

2日目最後の訪問は、赤岩牧沢市営テニスコート住宅。後日、兵庫協会で被災地の課題を報告してくださった民生委員の小野道子さんの出迎えを受け、時間が経つにつれて仮設には高齢者、障害者といった社会的弱者が取り残されている現状についてお聞きしました。

3日目は、陸前高田市に向かった。テレビの映像は幾度となく見ていましたが、広大な土地が更地となり、今も取り壊さずに残る建物もある現状に言葉を失った。

「朝日のあたる家」は、その陸前高田市の小高い丘の上に建てられたコニュニティハウス。NPO法人福祉フォーラム東北の運営で、東京から来られた江連素実さんを館長に、4人がスタッフとして携わっておられた。ここを拠点に、コンサート、健康相談、食事会、体操教室、手芸教室と幅広い活動が続けられている。天然木の温もりのある心地よい空間のホールで、私たちは「健康相談と薬の話」をさせていただいた。

最後の訪問となったのは、こども図書館「ちいさいおうち」。ここには2年前の日常診でご講演いただいた県立高田病院前院長の石木幹人先生が来てくださった。

うれし野こども図書室高橋美和子理事長の絵本「アフリカの音」の読み聞かせとコラボで行ったロビンさんの演奏は、わずかな打ち合わせだけで即興だったにもかかわらず圧巻だった。図書館の関係者からは再演の申し出を受けた。私もその実現のための協力が出来ればいいなと思っている。

安全運転で長時間の移動を支え、企画を調整してくださった事務局の方々、何よりこのような機会を与えて下さった先生方に心よりお礼を申し上げます。

 

復興遅々として進まず 神戸から訪問続けたい

伊丹市・薬剤師  長光 由紀

 

被災より2年4カ月。福島県南相馬市、岩手県一関市、気仙沼市、陸前高田市を訪問した。メンバーはロビン・ロイドさん(民族音楽演奏家)、川西副理事長、広川理事、滝本薬科部代表、事務局2人と私の7人。13日午後、仙台空港到着、前線の影響から天候は悪く気温23度で伊丹とは10度も違う状況だった。

 初日は南相馬市大町病院。昨年日常診プレ企画講師として招いた藤原看護部長とスタッフに出迎えられ、猪又院長も演奏会に参加。院内患者やスタッフも含め、多くの参加者でロビン・ロイドさんと「七夕」などを演奏、参加者も楽器を演奏する形式で大変好評だった。

その夜、病院と関係のある地元建設会社・石川社長の話を伺った。原発被災時、防護服着用で立入禁止区域の作業をしたのは地域建設会社と自衛隊で、東京電力からは動きがなかったこと、社宅を高台に作り津波被害は受けていないことなど、原発立地に至った歴史、地域の江戸時代(大変な飢饉にみまわれた)からの状況など話は尽きなかった。特に「福島原発は東京電力のもの。東北のために全く使われず、こういう被害だけを受けたことは許せない」という言葉は胸に突き刺さった。

 2日目一関市千厩町。酒のくら交流施設は元酒蔵で涼しく、音がよく響く。仮設から離れていて参加者が少なく残念だったが、健康アドバイスの時間をもてた。被災後一人訪問看護師として活躍した菊池優子さんと合流。地域が広いため現在仕事は直行直帰とし、訪問スタッフが地域貢献をしているとのこと。午後は2カ所訪問。五右衛門ヶ原運動場住宅、赤岩牧沢市営テニスコート住宅へ。ほとんど高齢者が多く、震災による心の傷を少し発散された。津波で全てを失った民生委員・小野道子さんのリーダー力と人柄が大きいと感じた。宮城協会の井上博之副理事長も参加された。

 3日目陸前高田市。「朝日のあたる家」は東京、四国から震災後移住された館長江連(えづれ)館長、心の相談員行本さんがカフェや予約制の風呂を行う。山の緑が借景の小ホールで演奏会等を開催。早朝だったが参加者と薬相談をも気軽な形式でできた。高田病院・石木前院長も参加されたこども図書館「ちいさいおうち」では盛岡からの髙橋理事長、スタッフと共に絵本の読み聞かせとアフリカの音を味わうという贅沢な時間を持てた。

 今回の訪問で地震、津波で、家族を、家を、職場を、町を、地域全体を失い、山あいの仮設住宅に住んでおられる方々がまだまだ多く、海辺の地域の復興は遅々として進んでいないことを再確認した。医療においても特例として認められていたことが次々と解除され、被災された方々を更に苦しませる状況となっている。そして今後も心を生活を支えていかなければと感じた。

2013年5月25日土曜日

現地レポート46 4/20~21被災地訪問参加記


協会などが主催する被災地コンサートが4月2021日に、岩手県一関市、宮城県気仙沼市の仮設住宅2カ所で開催され、中国の伝統的な民族楽器「二胡」奏者の劉揚(りゅうやん)氏による演奏が行われ、仮設住宅居住者らが参加した。協会からは川西敏雄副理事長、広川恵一理事、中西透評議員が参加し、公立南三陸診療所などで懇談も行った。中西評議員と川西副理事長のレポートを掲載する。

 

再建のために医療へのアクセスを

三田市・歯科  中西  透


 4月20日~21日の被災地訪問と仮設住宅でのコンサートに広川、川西先生と私、劉夫妻、事務局3人の計8人で訪問いたしました。

 当日、東北地方の天気予報が、4月中頃にもかかわらず最低気温が0度近く、雪だと知り、服装にとまどいながら伊丹空港を出発し仙台へ。

 初日は一関市千厩(せんまや、意味:千の馬小屋)中学校跡地の仮設住宅集会所で1回目の劉夫妻の二胡のコンサートを開催し、約40人の被災者の方々が集まり、二胡のあたたかい音色にリズムを合わせておられました。

 その後、同市会議員の金野盛志氏、訪問看護ステーションの菊池優子さんとの懇談会を持ち、その中で被災地の復興が進んでいないのは、あまり報道されていないが、被害に遭遇されお亡くなりになられた人たちの相続が難航していることも、一つの原因であると述べられていました。

 最終日は、気仙沼の山間部は白くなり、その山の中に市営テニスコートに作られた仮設住宅が現れました。そこはバス停も遠く、お年寄りには生活に無理が出るような場所でした。

 集会所には20人ほど集まり、人の声に似ている、二胡のあたたかい音楽に聞き入っておられました。

 コンサート後、仮設住宅の方との懇話会では、「財力に余裕のある方から退所され、老人・弱者が置き去りにされていく」と切実に話されていました。

 国道45号線を、車窓から被災地を見ながら南下し、公立南三陸診療所(仮設)に着き、藤原靖士先生との懇談と見学をし、その中で休日・緊急・入院は約30キロメートル先まで搬送しなければならないと聞き驚きました。

 また2年後には高台への再建をめざしておられるので、被災地の再建とアクセスを考慮して臨んでほしいと伝え別れました。

 その後、帰路に向かう途中、巨大な自然エネルギーに直撃され、人工物の残骸が運び去られた風景を見ました。建造物を全て失った土だけを見ると、その風景が痛々しく感じ、車が行き交う国道45号線とさらに分岐する毛細血管的な道が、この被災地の生活の支えになっていることを痛感しました。

 300キロを運転していただきました事務局の方、今回被災地訪問に関係していただいた方々に深く感謝いたします。

 

住民・被災者中心の復興を

副理事長  川西 敏雄


 今回の訪問については、中西先生が詳細にご報告されているので、私からは特に印象に残ったことのみを述べる。

 気仙沼訪問は〝桜満開と雪景色のコラボ〟 であった。

 前回の訪問は昨年12月であった。中西先生の記事のごとく4月にも関わらず真冬の様相であったが、現地の仮設住宅の方々は(一見)元気そうで安堵した。

 ただ、1~2日だけの訪問では表面しか見えないので、現実のご苦労は察することができるものではないだろう。

 それにしても自治体・国の動きの遅さは目に余るというのが感想である。

 中西先生の記述にあった、懇談会で「仮設からの転出では社会的弱者が取り残される」と危惧されたのは、気仙沼市の小野道子民生委員であった。

 「神戸でも震災から20年近く経っても解決されていない問題がある。借上げ住宅追い出しなどが代表例。本当に困っている方々にお金がまわらずに多くの復興予算がハコモノに使われた」などと懇談した。

 そんな中すでに、東北メディカルメガバンク構想がスタートしている。

 神戸の医療産業都市構想と同じく、住民・被災者軽視の企画とならないことを祈るのみである。

2012年8月20日月曜日

現地レポート43 2012年7月14日~16日 被災地(大槌・気仙沼・仙台・亘理)訪問報告

 7月14日から16日にかけて、広川恵一先生(西宮市・広川内科クリニック)、八木秀満先生(尼崎市・八木クリニック)、清水映二先生(たつの市・清水内科医院)に加え、ソプラノ歌手の長谷川眞弓氏、ピアノ奏者の轟木裕子氏、兵庫協会事務局で被災地を訪問。地元協会の協力も得て被災地の現状と現在抱えている課題を学ぶとともに、仮設住宅で暮らす住民に音楽を届けるためのコンサートを開催した。
 参加した広川恵一先生からのレポートを紹介する。


2012年7月14日~16日 被災地(大槌・気仙沼・仙台・亘理)訪問報告

はじめに
 14日(土)から16日(月・休)大槌・気仙沼・仙台・亘理を訪問し多くを学ばせていただきました。
 訪問の目的は、
 第一に1年4か月経った被災地の現状・課題を現場の医師やボランティアの方々からうかがい、今後の震災対策に少しでも役立たせていただくこと、
 第二に宮城協会の北村辰龍男理事長・井上博之副理事長・鈴木和彦事務局長から被災地の人々の現在の健康状況・制度の問題や課題をうかがうこと、
 第三に昨年8月の福島協会との共催したいわき市・湯本での二胡コンサート・健康相談に引き続き、<音楽のプレゼント>として、岩手協会、宮城協会の協力を得てコンサート行うことでした。
 これは昨年10月29日と30日に協会日常診療経験交流会で震災・津波被害の報告された大槌町・植田医院・植田俊郎先生、陸前高田病院・石木幹人先生、亘理町・鳥の海歯科医院・上原忍先生との災害復興で何ができるかという話し合いの中でだされた中の一つを具体化したもので、植田先生、気仙沼市のある幼稚園の先生方、上原先生の協力で行うことができました。陸前高田病院では分散した仮設からの参加が困難でまた休日での対応が難しく石木先生と相談し次回の企画としました。
 訪問では、
 ①沿岸部の被災地の状況は依然として先の見えない中で変わっていません。大槌町、陸前高田、気仙沼の市街地中心は礎石のままで水につかったところも多く、地域をどこにどのように再建するか難しいことが感じられました。また震災前から人口減のつづく地域での医療過疎は厳然とありその実際を明らかにしていく必要があることが分かりました。たとえば気仙沼市は耳鼻咽喉科は市立病院だけで開業医は1軒もないことを訪問して初めて知ることができました。
 ②一方その中にあって、仮設入居の人たち、ボランティア、地域医療に直接関わる医師たち、仕事を作り上げていく人たちに被災からの再建の力強さを感じました。普段の毎日の会話・つながりを大切にしながら今後を探り、ありとあらゆる文化的な企画を打ち出して孤立しないとりくみ、仮設の人々のふれあいの機会を「できることは何でも」と明るくつくり続けている仮設内のセンターの人たち、行政への粘り強いはたらきかけをしながらしなやかにネットワークを駆使し情報発信しながら高齢者への弁当の宅配も行いながら仮設住宅を自主的訪問しているボランティアの人たち、医療や介護につなぐべく看護訪問のボランティアスタッフ
 ③<音楽のプレゼント>には仮設住宅の方々やボランティアの人たちから「クラッシックの音楽を生で聴くことは久しくなかった」などとの声を聞き、阪神淡路大震災を思い出しこれからも被災地との多彩な文化的なとりくみを通して共感と交流をすすめることの大切さの手応えを感じました。
 ④被災地での訪問はそれだけに終わるのでなく被災地の人々・参加したものどうしの共同の実際的なとりくみを通して今後にわたる人間関係がつくり上げられていくことが大切と考えます。その肌身で伝わる感情の拡がりが今後起こりうる災害に身近な人たちを思い浮かべての人間的な共感で関わることのできる精神的な支えにもなると思います。このたびの被災地訪問もわずか48時間でしたが被災地の人たちとの今後にわたる人間的関係とその手応えを持つことができました。また訪問したクルーの一生お思い出としての関係もできました。
 ⑤このたびの災害ではその復興は明らかに長期にわたるものですが、それだけ人間的な交流のあり方はそれを超えるものが求められ、それを存分に超えたものにしていくことが大切なのではないかと思います。何らかの形での被災地訪問とその交流が今後もあちこちですすめられていくことが大切と思います。とりわけ阪神淡路大震災の経験を身近に持つもつものとしてのかかわりの可能性を考えていきたいと思います。

今回の被災地訪問の日程・メンバー・内容

日程7月14日(土)~16日(月・休)
メンバー八木秀満(ギター)、清水映二、広川恵一
長谷川眞弓(ソプラノ) 轟木裕子(ピアノ)
黒木直明、楠真次郎(協会事務局)
内容
7月14日(土)伊丹16:00集合
伊丹空港16:55→いわて花巻空港18:20→レンタカー→遠野市19:45
翌日からのスケジュール・内容・意義について打ち合わせ
7月15日(日)【午前中】
遠野7:45→大槌町・植田医院9:00→懇談→和野っこハウス9:30
大槌第5仮設・和野っこハウス・ライフサポートアドバイザー 森田礼子さんから状況をうかがう
会場設営9:30開始→コンサート&健康相談10:30~1130
【午後】
和野っこハウス11:40→陸前高田旧県立病院跡地13:10
旧県立病院跡地13:20→(昼食20分)→気仙沼反松公園仮設住宅14:15
反松(そりまつ)公園仮設14:20→赤沢牧沢テニスコー仮設14:30
ボランティア 村上充氏・仮設入居者・看護ボランティア 岸田広子看護師から状況をうかがう
健康相談14:30~15:20→反松公園仮設15:30
会場設営14:30開始→コンサート15:30~16:30
村岡正朗医師から状況をうかがう15:40~16:30
【夕方】
反松公園仮設17:00→(一関・東北自動車道)→仙台19:45
【夜】
宮城協会・北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長から現状をうかがう20:00
7月16日(月・休)仙台7:45→鳥の海→鳥の海歯科医院・上原忍先生9:00
鳥の海歯科医院9:10→亘理町公共ゾーン仮設住宅9:15
上原先生夫妻はじめ仮設入居者の方から状況をうかがう
コンサート会場設営開始9:15→コンサート10:30~11:30
上原先生夫妻案内で<かとうや>12:45~12:50・鳥の海ふれあい市場13:00
長谷川さん・轟木さん、中浜小学校先生の案内で旧校舎訪問12:00~14:00
仙台空港14:00集合 仙台空港14:45→伊丹空港16:05

 今回の企画の具体化は昨年10月29日の日常診療経験交流会プレ企画<被災地の医療を語る>で話し合われ、1月7~9日の被災地訪問での現地への打診から始まり、6月2日の参加者のの打ち合わせ会議から具体化に向けて意見交換をすすめました。企画段階では ①訪問先を確定する、②現地の人たちから現在の課題についてうかがうこと、③協力を得られる仮設でのコンサートをできるだけ行うこと、④移動には無理がなく・事故がないよう細心の注意を払うことでした。
 八木・清水・広川・黒木はこれまでの現地訪問で地理的な関係・移動に要する時間的感覚はつかめていてそれをもとに旅程をつくり、現地でのコンサートの設定・日程調整はすべて黒木が窓口となり現地と相談し、気仙沼は長谷川さん・轟木さんたち音楽家連盟が震災以後支援活動を通じてもたれていた関係で現地での協力を得ました。移動は楠がほぼ全行程を安全運転で担当し写真記録とコンサートの協力にあたりました。移動に車中での時間を要し設営も含めた演奏もあるため初日は遠野で一泊し無理をさけ15日全日と16日の午前に集中できるように工夫しました。

1、遠野-「魂」のこと
 被災地の課題で大切なことに「犠牲になった人たちのことを忘れない」、「悲劇を忘れないで語り継いでいく」「風化させない」ことがあります。阪神淡路大震災では多くの方の検死にかかわりました。中学校の技術の教室の机の上の高校2年生の男子で泥まみれの遺体に対面したとき、「この子はその前日まで考えることもなかった」と思い、「この子の思い(魂)が浮かばれるとするならそれはどういうときか」を考え、その後の私の被災地医療の原点になりました。
 こちらから東北の被災地には土曜日午前の診療を終えて向かうと夕方から夜にかけての到着になります。数回の被災地訪問の中で初めて遠野で翌朝からの活動に備えて宿をとりました。翌朝は小雨でしたが6時から7時前まで遠野の町中を一人で歩きました。宿舎のすぐ裏手が遠野市博物館で今年が柳田國男没後50年ということで特別展<柳田邦夫の生涯>(6月9日から9月30日まで)が開かれており、もちろん時間も早く時間もないので入館は出来ませんでしたが、「亡くなった人たちの魂の行方」を問う柳田民俗学に訪問の初日に触れたことにはっとしました。津波・地震で予想もしない死を遂げた人たちの魂をどう自ら感じかかわるかは大切なことで、東北の文化や伝統の中にこの災害を乗り越えていくものがあると考えます。宮沢賢治のイーハトーブ・<グスコーブドリの伝記>その思想もその一つになるのではと思っています。あえて言えば「思いをとらえる想像力」といえるかと思います。昨年1月、協会西宮芦屋支部・協会から出した<阪神淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ/被災地での生活と医療と看護/避けられる死をなくすために>(クリエイツかもがわ)の表題にはまさにこの思いが込められています。


2、岩手県大槌町・和野っこ(わのっこ)
大槌町・植田俊郎先生の仮設診療所で

 大槌町では植田俊郎医師が仮設診療所で待っていただいていました。これから災害医療で来られていた長崎の先生が来院されるとのことでした。植田医師から「被災地をみてどう思われますか?」と問われ、地盤沈下して浸水域が残りまだ礎石だけの市街地の様子から「一言で言うと・・変わらない・・ですね」と答えると「その通り、ほんと変わらないです(確かに一部変わってきているのもありますが)変わりませんね」とのこと。まちの再建をどのようにするかが定まらない中では変わりようがないと思います。沿岸部には戻りたくない人たちも多く、高台での現在の仮設設置の状況を見てもおそらく分散は避けられずもとあったコミュニティも大槌の文化も維持か困難となると思います。きわめて難しい問題です。
 しかし彼の答えの中に必ず新しい展開が起こることの手ごたえを感じました。というのは昨年10月の日常診療経験交流会で、「先生を被災地医療に突き動かしているものは何か」とうかがった際に、「私はまちの人間で、まちの人たちに食べさせてもらっているのです・・」と答えられたのが印象的で、また大槌町は医療過疎の地で、それだけに診療所と病院の関係・連携はよく、開業医どうしのつながりも深いとのことで、弱みを強みに変えている逆転の実践がそこにあるわけで、「あれもないこれもない」の被災地での不便を乗り越える住民視点での逆転の発想を感じたからです。
 大槌川にそって上流にある大槌第五仮設の中にあってコンサート会場となった<和野っこ>は、社会福祉協議会で運営されています。カフェを常設し、①相談対応・見守り支援、②入浴が困難な方への入浴サービス、③地域の方々が趣味活動や健康維持活動などを行う場の提供、④関係機関と連携した介護予防教室等の開催、⑤障がい者の方、健常者の方が共に活動できるようなイベントの開催といった、さまざまな活動をしていきます。
 ここでライフサポートアドバイザーの森田礼子さんほかスタッフの方からうかがうことができました。この仮設住宅は422世帯分あり、うち357世帯入居。独居高齢者52世帯、高齢者二人暮らし34世帯、高齢者同居68世帯。直接のサポートは行政が企業に要請して派遣されている地域支援員が行っています。大槌川、小槌川それぞれに沿って使える土地・できるところからか(聞いた限りではわかりませんでしたが)仮設につく番号は地図上では規則性がみられずこの大槌第五仮設A~Eは大槌川に沿って一番奥に位置します。【参考:大槌町ホームページ 応急仮設住宅マップ(PDF)
コンサートには30人が参加し、楽しいひと時を過ごした

 ここでのコンサートは<和野っこ>スタッフの全面的協力の中での30名の参加でとても楽しい1時間となりました(コンサートプログラム(PDF))。健康相談はなかったですが、この集いそのものが「健康を支える会」になりました。健康相談の名をうつのでなく自然な日常生活をうかがう中で役割は果たせるものと思いました。昨年8月いわき・湯本での健康相談では「離れている子供達に福島に帰ってきていいと言っていいのでしょうか」という女性からの重要な質問は健康相談でなく会場での自然な話し合いの中で出たものでした。

3、仮設の状況・温度差
 会場で気分不良の人がいたので声をかけると「いいんです・・、いいんです・・」とのこと。森田さんによると、この地の人は「いいんです・・いいんです」と言って耐えてしまうところがあってまた何かを要求して率先してされる機会が少ないですとのこと。この仮設住宅はまだ自治会が作られておらずその中で生活援助員やライフサポートアドバイザーがその支えの役割を果たしています。
 医療機関や生活上での移動の足が気になりますが和野地区と県立釜石病院を結ぶ県交通バスと町民バスを使っての本数は平日1日5本(午前6時台~午後6時)・土日祝日は3本(午前8時台~午後3時台)で所要時間は1時間あまり。仮設大槌病院外来までは平日6本(午前6時台~午後6時台)・土日祝日は3本(午前7時台~行き午後5時台・帰り午後3時台)で10分。かなり限られています。
 大槌町は被災地域全体がそうであったのですが震災前から高齢化・過疎化で人口減少がすすんでいたところで、沿岸部の復興の見通しが立たない中でさらに人口流失は著しく、もともとの人口が16000名のところ津波での死者・方向不明者1300名近くでほぼ1割でした。現在は5000人の人口減があると聞きます。転居先は北上、遠野、花巻で、花巻が一番多いようだとのことでした。
 このような中でもおなじ東北の中で被災の受け止め方に違いがあると聞くとのこと。森田さんは「でも私は楽天的なのですよ」と言いながら語る明るさに復興の一つの鍵を見いだしました。沿岸部と内陸、太平洋側と日本海側、東北と関東・北海道、東日本と西日本。もし思いに差があればそれを最少にすることが大切となります。「被災地に集まって知恵を出し合おう」という言葉があるように、お互いが身近な関係であることがより自らの問題として受け止めることができると考えます。お互いがさまざまに情報共有・共感の中で身近な関係になっていくことが大切な一つだと思います。
 
4、陸前高田・国道45号線 
 和野っこでコンサートを11時半に終えてすぐ陸前高田病院跡地を経て気仙沼へ。陸前高では旧県立高田病院を訪れました。周辺の瓦礫の山が幾分移動されたくらいで地盤低下のため浸水域はこれまで訪問した時と変わらずの状態でした。いま手元に石木先生から送ってもらったばかりの<保存版写真集-未来へ伝えたい陸前高田>という写真集があります。その見開きに海から眺めた被災前の陸前高田の写真を背景に書かれた詩

「おらぁ やっぱり こごがいい
大津波で全部なぐなっても
地震でぼっこっこされでも
やっぱ この街が好ぎだ
やっぱ こごに居だい
こごぁ 一番だ
二度と同じけしぎぁ見れねぁども
二度と同じ建物ぁただねぁども
おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる
わっせるごどねぁ あの景色
おらどの街
やっぱり こごがいい」

この思いに胸がうたれました。
 自分たちの思いでなく、被災地の人々に受け入れられ、人々の思いや暮らしを聞かせていただき関わらせていただくことがわれわれにできる復興につながるひとつとつくづく思います。 
 国道45線は青森-仙台間の主要道路です。このたびは釜石から気仙沼を通りました。訪問する度に思うことですが、どうしても東北自動車道・東北新幹線・花巻空港と沿岸を結ぶ距離が長くレンタカーの使用が必要で、冬期は積雪でいっそう移動が困難になります。国道45号線そのものと花巻、一関とこの沿岸の国道を結ぶ公共交通機関の充実が被災地の復興を支える一つになると思います。大槌から石巻にいたる道路に沿っては1~2軒ほどのお店があるばかりです。地元に負担になるだけの単なるハコモノは不要ですが公的な責任で地元の産業を紹介し前向きに人を受け入れ・人の移動を支えること・交通網の整備の大切さが被災地を見て思うことの一つです。

赤沢牧沢テニスコート仮設で仮設住宅の状況を詳しく聞いた

5、宮城県気仙沼・反松公園仮設住宅・赤岩牧沢テニスコート仮設
 気仙沼訪問では、現地で対応いただくことになった村上充ボランティアとその数日前から事前を打ち合わせを始めました。おもに仮設住宅の状態と健康問題です。またその前日、まだお会いしたことはないのですが山梨県の牧丘病院・古屋聡医師から「訪問されることをお伺いしたので」とわざわざ電話をいただきました。彼は2週間に1度現地を訪問されていて、現地の状況を詳しく教えていただき、「何か困ることがあればその場でいつでもお電話を下さい」とのことでした。こういうネットワークはきわめて人間的でありがたいものです。おかげで現地で担当された村上さんとも旧知の関係のように打ち解け速やかな訪問をさせてもらうことができました。
 その反松公園住宅仮設は宮城県気仙沼市上田中の反松公園にあり96世帯あります。村上さんに自治会長さんを紹介してもらいましたが、自治会長さんが全面的に村上さんを信頼しているのが手に取るように分かりました。ここでコンサートを午後3時半から。その設営の間、村上さんと赤岩牧沢テニスコート仮設に。ここは55世帯の仮設で36世帯が高齢独居。入居の7割の人が高齢者です。入居は抽選で決められたのでお互いに顔見知りのない仮設となっています。世話役をされているうちのお一人があまりにいろいろなことがあって言葉でできなかったのだと思いますが「やはり人間関係が何につけても大切です」と繰り返されていたのが気になったことです。ここは街の中心から離れた山中にあるテニスコートで気仙沼市民病院から4-5kmの所にあります。車がないと移動が困難で、仮設住宅敷地では道路に出るための迂回路はあるものの階段は手すりがなく足の不自由な方や高齢者には危険です。行政からは予算の問題とのことで手すりの設置はできず、市の財産なので勝手に手すりの設置は禁じられているとのことでした。
 ここではボランティアナースと一緒に2人の健康相談を受けましたが見通しのない中での閉塞感を感じました。先に触れたように気仙沼人口72000人から65000人で市民病院を除いて開業の耳鼻咽喉科がありません。現実的には他科がカバーしているとしても医療過疎の現実を被災地を訪問して初めて心に染みて分かることがあります。
気仙沼市で開業する村岡正朗先生から
災害時に医療を守るための経験と教訓を伺った

 反松公園仮設に戻り村岡正朗医師に会いました。彼の書かれた月刊保団連2011年10月号の特集<避難先でも、医者だった-被災から2日間の記録>は事前に目を通していましたが、震災・津波で避難所となった救護所・訪問診療ボランティアでの医療と先の見えない中での自院の再建と大変なとりくみをされたことを感じました。患者の窓口負担免除の必要性は患者を守り地域医療を守る上でとても大切なことであると指摘されました。これは17年前の阪神淡路大震災でもまったく同じことでした。医療機関再建について行政が助成金について当初提示したのはもとの地に建てることを条件としたことなど現場を見ず時間的にも内容的にも実情にそぐわないものであったことを指摘され、宮城県保険医協会発行の<2011.3.11あのときを忘れない-東日本大震災-活動の記録>で、先が見えないことでの政府の無能さを感じられたこと、「高齢化約30%、医師数115.3人/10万人のこの地域でおきた震災による医療の停滞は、日本の地方都市で今後徐々に起きるであろう状況が急激に顕在化したと思っています。この地域の医療を含めた再生は今後のモデルケースにもなりうるのではないでしょうか」と述べられており、ここに被災地に関わらせていただくわれわれの課題があると思います。
 コンサートは30名の参加で楽しく集合写真を撮って終わりました。その帰り最後まで見送ってくれた村岡医師と村上ボランティアが仮設の人が親しく話しをされている姿に地域医療を担っている医師と心強いボランティアの姿を見ました。


6、仙台・宮城協会での懇談会・窓口一部負担金減免のとりくみ 
 気仙沼の仮設でのコンサートを終え午後5時に出発。午後8時前に仙台に到着。午後8時から北村龍男宮城協会理事長・井上副理事長・鈴木和彦事務局長と八木、清水、広川、黒木、楠と保団連新聞部から取材に当たった長田逸生事務局員も参加して懇談しました。内容は多方面にわたりましたが、被災地の問題では窓口負担免除の延期が必要と言うことでした。宮城協会の会員へのアンケート(回答156)と通院患者に対する「医療費自己負担免除アンケート」(回答794)を行い、負担金免除で医療機関にかかりやすくなったが78.2%。そのうち免除される前は我慢していたが31.2%、回数を控えていたが59.9%だったとのことでした。会員アンケートの自由記載欄では「仮設での生活の落ち込み」「やっと通院する気になった被災者」「仮設で何もする気にならない」「食べてテレビを見て、私でないみたい」などみられているとのことです。なんとか減免措置の継続が続けられるよう運動をしていく必要があると話しあいました。
 9月末での被災地での患者負担免除打ち切りは十分な医療が行えなくなり地域・医療の復興の深刻な停滞が予測されます。保団連も今月12日、被災前の生活に戻るまで窓口一部負担金免除措置を延長し国が財政措置を講じるよう緊急要請を行っていましたが、厚生労働省は7月24日、東日本大震災で被災した国民健康保険加入者らの医療費自己負担分などを免除措置について、9月末で期限を迎えた後も既存制度を活用して負担軽減を続けることを決めたという報道が入りました。国保や介護保険の保険料軽減も継続するとのことですが、医療費などの減免に必要な費用を国が全額負担する現行措置は見直して国保を運営する市町村に減免費用の最大8割を支給するということで、国の財政措置とはならないことでこのままでは自治体の負担が大きな問題となると考えられます。

7、宮城県亘理町・公共ゾーン第三集会所 
 亘理町は仙台市から南に26km、仙台空港から南に車で15分ほどの位置にあり果樹・花卉栽培や特にイチゴの東北一の産地です。阿武隈川河口の海浜部には汽水胡の鳥の海(とりのうみ)があります。津波で沿岸部300名の方が亡くなりました。イチゴ農家380戸のうち356戸が津波被害を受け塩害で数年間イチゴの栽培が危ぶまれていましたが、今回の訪問では車窓から被害の少なかったところからイチゴ栽培が行われているのが分かりました。
 今回コンサート会場の準備や案内にはチラシや地元FM放送での紹介などで鳥の海歯科診療所の上原忍先生に全面的にお世話になりました。田んぼの中に建てられた公共ゾーンと名付けられた町内一大きな558戸で約2,000人が入居している仮設住宅があります。公共ゾーンでは、建設された順に第1、第2、第3集会所と分かれ、その中でも最も戸数が多い第3集会所(計256戸)でコンサートが行われました。張り紙や案内チラシもたくさんありさまざまなコンサートやイベントが行われています。
 会場の設営は集会所の世話人の人たちやみんなで寄ってすすめ、電子ピアノの搬入も予定通りで、リハーサルから賑やかで、コンサートは50名の参加で盛り上がりました。宮城協会はコンサート・健康相談の後援で鈴木事務局長が参加してくれました。保団連からは長田事務局員が取材にあたりました。
 仮設の外は風がやむとアスファルトの敷地の熱気がこたえますが、田んぼから風が仮設住宅に吹くと意外に涼しく、クーラーを回している住宅も余り見かけませんでした。田んぼでは網を持って虫取りをしている母親と子供の姿もみられました。集会場の外にも風に乗って音が流れ不思議に子供時代の懐かしさを感じました。

 
8、ふるさと復興商店街・<菊一>商店 
 仮設の一角に30軒近くの荒浜地区商店街の人たちが再開した東郷地区仮設施設・仮設店舗「ふるさと復興商店街」があります。郵便局やパーマ屋さん、鍼灸院、鮮魚店に惣菜屋さんなどなどあります。設営の合間の時間をみて私が入ったその仮設店舗の中に<菊一>というコロッケの店があります。5~6人の女性が窓から見える調理室で生き生きと働いてられて、お店自体はテーブル1台だけでコロッケ1個70円。揚げ物中心でアルコールはおいてありません。店長さんに聞くとスタッフは一人除いてみな津波で家を流されたとのこと。亘理町では仮設の妊婦さんに仮設だけで使える週1000円のクーポン券を支給しており、妊婦さん達がそのクーポン券を持ってコロッケなどを買いに来てくれるとのこと。あちこちから話しを聞いて仮設内外から買いに来てくれる人たちや、近くのデイサービスの職員さんがまとめて買いに来てくれるのでとやりがいがあるとのことでした。とてもおいしい気合いの入ったコロッケでこれからの復興の励みの一つの場所となることと思います。ほかのお店の紹介はできませんでしたが力づよい復興の一歩を感じました。

9、中浜小学校・手打ちそば専門店<かとうや> 
 コンサートを終えて長谷川さん、轟木さんは中浜小学校の先生に被災地と中浜小学校の案内をしてもらうことになりました。海岸から300mの所にあった中浜小学校は一旦は体育館に避難するも校長の判断で全生徒が2階建て校舎の屋上にかけ上がりその結果全員が助かったところです。校舎が全壊したことでいまは坂元小学校で授業されているとのことでした。
亘理町<かとうや>前で
鳥の海歯科・上原忍先生らと

 われわれは上原先生の奥さんの友人がこの7月8月に阿武隈川の堤防に沿った荒浜に再開・開店したばかりの手打ちそば専門店をすすめてくれました。名前は<かとうや>。
 河北新報によると、元の名前の加藤屋は地域の人々に親しまれ80年前から営業していたのですが津波で1.7m浸水。店主の磯田俊一さんが修繕して昨年末にようやく再開したその3週間後に製麺機に巻き込まれて急死。「この場所で生きたかった父の意志を継ぎたい」と娘さんの磯田美恵さんが、父の死を招いた機械には抵抗があり、大学時代の友人を誘い手打ちそば店での再開を決意。最初反対した母親の磯田恵子さんも根負けして店が守り続けた味のつゆ作りと花番を買って出たとのことです。荒浜では自宅を再建した人たちが少しずつ戻りはじめ、先に触れた仮設住宅の人々も多く、一方営業を再開した飲食店はまだわずかで「地域の方が再び集まって交流を深める場にしたい」のこと。
 店主の美恵さんに店の真正面にある6.2mの阿武隈川の堤防に案内してもらいました。この堤防は国交省が津波防災のため1mのかさ上げを計画。のり面にある県道の拡幅がされると今の場所は立ち退きになるとのこと。このままでは街並みがなくなってしまうこの計画に反対する美恵さんは「さまざまな困難に『勝とうや』の思いを込め」、屋号を<かとうや>としたとのことでした。
 亘理を訪問されればぜひ<かとうや>に。

10、鳥の海ふれあい市場
 <かとうや>から空港に向かう道で偶然<鳥の海ふれあい市場>を見かけました。昨年の12月23日にオープン。土日の営業で限られますが地元の季節の野菜や鮮魚、ジャムなどの加工品など仮設住宅の人たちがつくった竹かごやストラップなど。こういった所での品物はお土産などにして手渡すと被災地とその人の気持ちを近づけるものになります。地元での交流や活気がたかまりや被災地を訪れる人たちとの交流のいい場所になると思いました。お店の人の感じもよく亘理の街を少しでも復興していこうという気持ちにあふれていました。そういった気持ちにぜひとも応えていきたいと思います。

11、コンサートについて
 ソプラノの長谷川さん、ピアノの轟木さん、ギターと司会の八木先生の一見急ごしらえの演奏はは気も心も通ったものでした。お疲れ様でした。八木先生をプロの音楽家と思っていた人も多く「産婦人科の先生ですよ」と言ったら驚いている人たちがいました。
 「クラッシック音楽をつい身近に聴くことがなかった」と感想をうかがいました。「元気をもらいました」「今日は一日幸せです」「また来て下さい」と楽しんでいただき、いつまでも見送ってもらいました。再建の励みにもなり、仮設内外の人達とのはばひろい交流もでき、参加された方々にとってとてもいい機会になったことと思います。肩を音楽に合わせて揺すり続けた人たちの姿を思い出します。
 今後もさまざまな形でのあらゆる分野で協会としてふさわしい協力ができればと考えます。

12、まとめ
 訪問先でお会いできた先生方はみなそれぞれ手応えをつかんでおられるのが感じられました。たとえば、上原先生は数ヶ月間の休診にも関わらず「医院の再開ではもとのスタッフ全員が揃ってくれた」など・・。普段の日常診療がそのまま返ってくることもよくわかります。
 被災地の訪問は復興の課題をその地に暮らす人達を通して教えていただき学び、さまざまな形で地域再建に少しでもつながる形で返させてもらうとりくみで今回も多く学ばせていただき今後のつながりも深まりました。その結果を協会活動につなげていきたいと思います。
 これは「被災地に集まって知恵を出し合おう」「被災地から招いて教えてもらおう」というとりくみの一つでもあり、こういったとりくみを通して少しでも共通の認識に高まっていくことが被災地の災害からの復興と今後この国のどこにでも起こりうる災害の防災・減災につながるものだと思われます。
 これからもより多くの協会会員の被災地訪問の機会をつくり現地で医療過疎の現実をみてその解決をともに考える機会を持つこと。仮設住宅住民の生活上の安全性・今後にかかわる内容を地元のボランティアに協力し、行政が行う施策に役立つ地域住民の自主的な地域のとりくみに協力する。地域の文化伝統復興に協力する。今回は訪問できていないが福島の課題を病院訪問などを通じて明らかにすることなど考えました。
 長谷川さん、轟木さん、八木先生、清水先生、黒木さん、楠さん、ハードなスケジュールおつかれさまでした。

2012/07/28 広川 恵一

2012年5月24日木曜日

現地レポート42 廣川秋子氏(看護師)より


 西宮市・広川内科クリニック看護師の廣川秋子氏から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
 同行した長光由紀先生(協会薬科会員 伊丹市・ウイング調剤薬局)の訪問記は現地レポート41を参照いただきたい。

東日本大震災から1年  
福島県南相馬市大町病院を訪れ看護師として感じたこと

 2012年3月21日、福島県南相馬市の大町病院を訪れた。大町病院は、前年に起こった東日本大震災と原発事故により、一時活動停止を余儀なくされるも同年4月4日いち早く診療を再開した病院である。猪又病院長、藤原看護部長より復興への軌跡というテーマで、震災後一年の経過を聞かせていただいた。
 大町病院はもともと188床を有していたが、2012年3月現在稼働しているのは3分の1の60床ほどである。その理由の一つには看護師が不足している実態がある。震災に関連する事象により不本意にも現地を離れなければならなかった看護師もいる。病院が稼働を始めたあと、看護部長はそういった看護師を訪問し復職を呼びかけたそうである。現実的に復職が困難な看護師もいたが、直接看護部長が足を運んだということからは、震災によってこれまで一緒に働いてきた関係が絶たれるものではないのだという強い結びつきを感じることができた。一方で、当初原発から30㎞という地点でその影響もわからない状況下、復職を呼びかけること自体に大きな葛藤があったことも強く感じる。
 現在看護師募集をかけている大町病院では、正規雇用の看護師だけでなく、短時間勤務・短日勤務の看護師も積極的に受け入れている。そこには切実な看護師数の不足とともに、柔軟な病院側の受け入れ態勢がある様子がわかる。震災直後より医師や看護師、地域住民、ボランティアなど多くの人が出入りし、病院が主体となって力を合わせてやってきたことが人を受け入れる態勢作りと自信になっているように感じられた。
 藤原看護部長はこの一年のエピソードを多くの人の写真や名前とともに話して聞かせてくれた。それぞれに疲弊した中で支え合って乗り越えてきた当時の状況と、これまでに築かれてきた他医療機関との連携と震災以降の新たなつながりをもって、看護師を含む様々な職種で各地から応援があり、またその経験や呼びかけが情報発信され応援の輪が広がっていく様子がまざまざと伝わってきた。津波の爪痕が1年経ても残る周辺状況からは震災以降の変化が感じられにくい一方で、この一年で病院が機能を回復してきた過程と、暮らしの中で刻々と変化してきた状況や思いを痛感することとなった。
 震災直後より患者移送に関しての手配や関連機関への応援要請、また病院再開への決断などにおいて、院長がトップダウンで現場を指揮されたことも、即断即決で物事を進めていかなければならない中で、トップが強く方針を打ち出すことが関わる多数の人間を結束させ同じ方向に導く基盤となっていたように感じる。そのリーダーシップがあったことは、個々の状況判断が求められる中でも、病院機能の回復という大きな目標の中でスタッフを孤立させずにそれぞれに役割と責任を与えることになったと思う。その役割を支持されることは、現場の看護師にとって周囲の状況が変化しても目の前の事象に集中して取り組むための土台となったのではないだろうか。
 震災によって既存の仕組みが破綻した状況下で、生命と生活を最優先に奮闘した大町病院は地域の病院としてその存在を示した。看護師は混乱の中で試行錯誤しながら臨機応変に目の前の事象に取り組み、その経験の積み重ねで柔軟な看護を作り上げてきた。多様な看護師の受け入れ態勢からみえる自信もこの経験によって裏打ちされたものだと感じる。大町病院はまさに実践を通して看護師が獲得した知恵や経験が生かされてきた現場であると感じた。今回の大町病院訪問を通して、看護は実践の中で獲得されていくものなのだと実感するとともに、その体験を伝えていくことも看護師としての役割であると気づいたことは大きな学びであった。
 この度貴重な時間をいただき震災一年の軌跡を聞かせてくださった猪又病院長、藤原看護部長に感謝いたします。

2012年5月19日土曜日

現地レポート41 長光由紀先生より


 協会薬科会員・長光由紀先生(伊丹市・ウイング調剤薬局 管理薬剤師)から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
 同行した廣川秋子氏(西宮市・広川内科クリニック・看護師)の訪問記は現地レポート42を参照いただきたい。

2011年3月11日 東日本大震災そして福島原発事故
被災地を訪ねて・・2012年3月20日21日


 震災直後から兵庫県保険医協会の活動として被災地にかかわり現地の状況を伝えて下さった広川恵一医師の個人的な被災地訪問に今回同行し、板倉弘明薬剤師、廣川秋子看護師とともに、岩手県、宮城県、福島県の被災地を訪ねました。
 雪の積もる花巻空港から3月20日午前10時前レンタカーで出発。岩手県大槌町を目指しJR釜石遠野線と併走する国道283号線を進みました。その後遠野市から六角牛山(1293m)を頂く雪の峠道を板倉薬剤師の運転で雪ぞりに乗っているかのように下り、栗林小学校付近で初めての仮設住宅群を車窓に見て釜石市へ。県道35号線を進み大槌町へ入りました。
 川沿いの道から太平洋側へ。映像でしか見ていなかった津波で流された三陸海岸。多くの方々が生活を営まれていた町並みは消えてしまい、まだまだがれきの残る広い空間となってしまった海までの景色。言葉が出ません。阪神・淡路大震災の時は「復興」という兆しが見えていた一年目。一年が経った東北では、まだまだとても厳しい状態で被害にあった場所での家の再建などは難しいのだと感じました。
 午前11時40分ころ昨年10月開催の兵庫県保険医協会日常診療経験交流会にお招きした植田先生の旧医院あたりへ到着しました。22mもの高さの津波が押し寄せた地域のガレキの多くは片付けられていましたが、阪神・淡路大震災の時のようにアスファルトの舗装道がむなしく区画を割っているだけの復興とは程遠い状況でした。続けて高台の小槌地区に開かれた仮設の植田診療所を訪問。植田先生は墓参で外出されておられ、お会いできなかったのですが地域の患者さん達に必要とされている診療所は地元の方々の好意と支えで開かれたとのことでした。横にはきちんと仮設の調剤薬局も建ち、在宅訪問のための薬局の車も止まっていました。これからもこの地が先生方の地域のための医療拠点となるようでした。
 午後0時45分大槌町を出て、錆びた三陸鉄道の線路を見ながら国道196号線を陸前高田市へ向かいました。移動時間が長いので時間節約のため昼食は道の駅「さんりく」で調達した簡単なものを車中ですませました。午後2時過ぎに被災した県立高田病院に到着。パワーショベル車が3台だけ頭をたれて止まっていて人影は見当たりません。5階建ての病院建物はそのままの状態で、近くの5階建ての職員寮も4階まで津波に襲われた跡がくっきりと見えました。患者さんを守った屋上の機械室。寒さに耐えながら助けを待たれた屋上。震災の日にここで亡くなられた患者さん、職員のことを思うと建物のそばで涙が出そうでした。その後山あいに建てられ、ようやく病棟も稼働し始めた仮設の県立高田病院へ。コンパクトながら診察室が並び、受付・処方箋お渡し口・薬局へのFAX無料送信コーナーのそろった待合室。小道をはさんだ山沿いには門前薬局も2軒並んでいました。奥様を津波で亡くされながらも病院の医療チームを守り、地域のための診療を続けられた石木院長先生の気迫が伝わってきました。
 その日は福島県いわて湯本温泉で泊まるため東北自動車道より磐越自動車道へ。福島第一原発に一番近い29軒のホテル、旅館がある日本三大古泉として由緒ある温泉郷です。東日本大震災の影響で湯質が変わったり建物の被害があったとはいえ一番大きいのは風評被害で、お客様は来なくなり原発工事関係者が泊られるのみとなっています。その中で古く「シャボン玉」等の童謡で有名な野口雨情が定宿としていた「新つた」は震災時より広野町をはじめとして多くの被災者の方々を受け入れ避難所となっていました。福島保険医協会と兵庫県保険医協会は協力してその玄関ホールで健康相談を行い劉揚さんによる二胡コンサートを被災者の方々に楽しんでいただいた縁があったので今回宿泊させていただきました。訪問直前(3月17日)にリニューアルオープンされた「新つた」は、唯一の旅館として一般のお客様の受け入れを再開することを決め食事にも工夫を加え、逆境に立ち向かおうとされていました。到着時間を決めることができなかった為、夕食は原発事故被災の浪江町より避難されてきた人が手作りではじめた「浪江そば」のお店へ。案内して下さった「新つた」の女将さんの苦しい胸の内は温泉郷全体の声なき声を代表するもので地震被害だけでなく原発事故の地域へ及ぼす今後の影響の重大さを物語るものでした。特に他のホテル・旅館はまだ原発工事関係者の受け入れでなんとか維持されているところ、一般客への営業再開を果たした女将さんの一番つらい点の一つだと感じました。
 翌21日 女将さんと別れを惜しみつつ、市内の常盤会病院訪問へ。震災時には透析患者さんをいち早く新潟県の病院へ搬送(「新つた」も依頼を受け搬送時の布団を提供された)して、水不足の危機を逃れ、事なきを得たそうです。今回訪れるとりっぱなPET透析センターができていて、患者さん達が多く受診され地域の支えとなっていると感じました。原発事故の影響がなければ温泉地として賑わっていた町、いわき湯本。どうなっていくのでしょうか。JR湯本駅近くの化石館(残念ながら月1回の休館日でした)の前には恐竜像が立っていて石炭を過去のものとして原子力発電に向いてしまった人類を笑っているかのように見えました。
 その後 原発事故の警戒区域にかかるため国道6号線が通れたら30分ほどで行ける距離を、わざわざ東北高速道路経由で大きく迂回し3時間近くもかけて大町病院のある磐梯山を望む南相馬市へ入りました。途中放射線の影響をさけて全村避難をしている飯館村を通過。沿道の家々の窓のカーテンが全て閉められ、人っ子一人見かけない村はのどかな高原風景の中、物悲しいものでした。途中では村を守っている警官とポニーを一頭見かけただけでした。この地に再び村民の方々は戻ってくることが出来るのでしょうか。
 ようやく到着した大町病院ではお忙しい中、猪又院長と藤原看護部長から震災時の病院の様子、その後のボランティアの皆さんの活躍についてプレゼンテーションをしていただきました。原発事故の影響で避難された多くの方々には看護師さんも含まれ、現在震災前の約半分の人員で業務を行われているそうです。震災翌月に業務を再開すると猪又院長が決断されたおりには、全ての物資の流通が滞っている状況でした。患者さんへの薬の提供にあたり、以前より連携されていた地域の薬剤師と協議され医薬品確保の為の卸業者さんの流通も考えて7日分ずつ院外処方箋を発行するということで再開されたそうです。しかし同地区の他の病院がそれぞれの門前薬局が震災の影響で閉店したままだったのに、同じ日に28日分処方の院外処方箋発行をはじめたため大町病院前の薬局に処方箋が集中し、全ての患者さんに薬を渡すのに深夜までかかるという大変なことになってしまったというお話をうかがいました。それをきっかけとして地域全体の薬局薬剤師との交流がより深まり、現在も地域の住民もまじえ色々な行事を開催しているということでした。医療の地域貢献には全ての医療に携わる職種の方々の協力なくしては成し遂げられないということを実感しました。そして地域の患者さんではない住民との交流も盛んに行われ、支えていただく体制を作っていく大町病院の底力を見せていただきました。
実は南相馬市の沿岸部は津波でも被災しています。大町病院の介護施設「ヨッシーランド」は入所者の内36名の方々が亡くなり現在も1名の看護師が行方不明だそうです。まだ建物がそのままで中を見せてもらいました。付近は砂浜のようになってしまい 風が吹き荒れ砂塵が舞っていて窓ガラスのなくなった窓からカーテンがむなしくバタバタと手を出しているようにはためいていました。多くの花束が今もたむけられ、わずかな違いで運命を分けた自然の威力に言葉がありませんでした。
 「相馬野馬追」祭りが開かれる時にはその沿道が多くの観客で埋まっていたという国道を仙台へ。途中の店で聞くところによると今までは地元産の牛乳使用ということで人気だったアイスクリームに北海道産牛乳使用と掲げないと売れないと嘆かれていました。たとえ放射線の数値が下がったとしても原発事故による地元の方々の苦しみは癒えないままです。途中盛り土の上に作られた自動車道の右と左では全く違う世界が広がります。海側は津波に襲われた水浸しの世界、山側はのどかな田園風景。非情な運命はなんと表現すればよいのでしょうか。この盛り土が偶然防波堤となったのでした。仙台空港では返却に寄ったレンタカー営業所のスタッフがつぶやかれました。「自然はすごい、潮水につかったのに仙台空港のまわりに今年も緑の雑草が生えてくる。」と。地球の上では短い人類の歴史、もっと長く生き抜いてきた生命である植物にはかないません。
 今回駆け足での被災地訪問でしたが、今後の人生を塗り替えるほど激しく気持ちを揺さぶられました。人間としてこれまで以上に強く生きていき、発揮できていない力を精一杯振りしぼらなければならないと実感しました。また医療者として多くの方々と手を取り合い、弱い立場の方々に手を差しのべることを長く続けるよう努力していきたいものです。
 最後に この機会を与えて下さった広川先生、全行程を運転して下さった板倉先生、ずっと一緒にいて下さった廣川秋子さん、ありがとうございました。

2011年12月26日月曜日

現地レポート40 姫路市・津田賢治先生より

9月23~25日の東日本大震災被災地歯科医療支援に参加した、協会評議員の津田賢治先生(姫路市・歯科)の参加記を紹介する。


 初日は飛行機で仙台へ。宮城県災対連東日本大震災共同支援センターを訪問、「被災者に歯ブラシを届けよう」募金を託しました。
 その後、宮城県内でのシンポジウム「震災復興と医療再生」に参加しました。シンポジストには、宮城県医師会から桜井芳明副会長、宮城県歯科医師会から細谷仁憲会長、宮城県保険医協会から北村龍男理事長、宮城県災害拠点病院・坂総合病院から今田隆一院長、行政から宮城県保健福祉部・佐々木淳次長、宮城県の各組織や医療団体の代表が参加していました。
 私は歯科医師ですので、5人のシンポジストの中で宮城県歯科医師会の細谷会長の発表が一番印象に残りました。歯科の窮状、高齢者医療における歯科の重要性、歯科からの医療界や行政への要望などを熱心に話されていました。
 シンポの最後に、川西敏雄先生(兵庫協会副理事長)が16年前の阪神・淡路大震災の経験について話されました。先生自身が震災で自宅が全壊し、先生のお父様の診療所と自宅が全壊という状態で再出発されたこと、その時の行政の対応に砂を噛むような想いをたくさんされたこと、同じ経験を東日本大震災被災者にしてほしくないこと、大多数の方々が避難所から仮設住宅への入居が決まってきたこの時期からの注意点、仮設住宅での生活が1年、2年と長引いてきたときに起こる諸問題など、阪神・淡路の経験、データなどを配布しながらお話されました。
 その中で、「被災者は行政に受身の態度で『してもらう』のを待つのではなく被災者自ら一人一人が声を上げてください」とのお話が参加者の胸を打ち、今後の復興の取り組みの背中を押したように感じました。
 2日目は、朝一番に東松島市鳴瀬歯科診療所の五十嵐公英先生のところへ表敬訪問しました。次に、川西先生と小寺修先生の思い出の場所の東松島市矢本保健相談センターと、現在も避難所となっている釜小学校、矢本運動公園の仮設住宅を訪問しました。仮設住宅の自治会副会長2人が口をそろえて仰ったのは、「何もかもが初めての経験で分からないことだらけ。
全てが手探り状態。悩んでばかり」ということです。ここでも川西先生が持参した阪神・淡路の仮設住宅でのデータが喜ばれました。
 3日目は、現在も避難所でもあり震災ボランティアセンターにもなっている湊小学校に行きました。ボランティア団体の「チーム神戸」が支援に入っており、避難所の運営を任されていました。ここでは3月から9月まで歯科往診に来てくれたのは2回きりとのことで、義歯が痛かったり義歯がゆるくて食べにくいと訴えられる方がたくさんおられました。ここで、小寺先生が大活躍されました。手持ちの限られた機械と材料で義歯のリベースや調整をなさり、避難所の方々も大満足の笑顔でした。
 最後に、宮城県の女川市周囲は今回見た中でも被害が最も大きいところでした。まるで原爆投下直後の広島の写真の風景を実際に目で見ているようでした。
 被災者を励ますつもりで行ったにもかかわらず、逆に被災者の笑顔に励まされました。自分の小ささと無力さを恥ずかしく思いました。同じ日本人が大変な事実を受け入れ前向きに頑張っておられます。砂を噛むような思いを笑顔で吹き飛ばしておられます。
 私にとって、とても勉強になった3日間でした。参加させていただき、本当にありがとうございました。

2011年11月10日木曜日

現地レポート39 姫路市・池内春樹先生より

協会の池内春樹理事長は、10月14~15日、東日本大震災の被災地である岩手、宮城、福島を訪問。地域医療を続ける県立病院や、仮設住宅、被災協会を激励するとともに、関係者に現状を聞き、改めて被災地のニーズの把握を行った。その上で、阪神・淡路大震災時に協会が取り組んだ「仮設住宅調査」の内容を伝え、仮設や復興住宅で起こった孤独死の悲劇を繰り返さないためにも、医療・福祉拡充を求める運動を強める必要性を各所で訴えた。池内理事長のレポートを紹介する。

 伊丹から空路、花巻へ。空港では、震災直後から岩手県の支援を続ける青森協会の中村寛二参与、事務局の藤林渉さんの案内で、民話の里・遠野を経て、一路陸前高田へ。
 陸前高田では、二つの仮設団地を訪問。竹駒町相川の仮設団地では、青森協会が中心になり、避難所の人たちを招待した「浅虫温泉慰安ツアー」で元気になられた方の住居に案内していただく。この仮設住宅は、新築の文化住宅のようにきれいでしっかりしているものの、「4畳半二間で狭いのが困る」とのこと。先日も、お孫さんが来て7人で寝たとの話。医療機関へは巡回バスの送迎があるそうだ。
 陸前高田第一中学校の仮設団地は、高台で多くの人が逃げのびてきたところに建っている。ここの仮設住宅は、工事現場の建物のよう。断熱剤が入っていないので、後から取り付けたとのことだが、冬に向かい不安がつのる。仮設の岩手県医師会・高田診療所が併設されている。
 続いて仮設の岩手県立高田病院へ。ここで陸前高田市教育委員会・横田祐佶委員長に話を伺う。横田先生は先述の高田一中の避難所長も務めておられたそうだが「常に皆が顔をあわせていた避難所と違い、いかに仮設住宅でコミュニティをつくるかが重要。心のケアの問題等、十分に配慮して取り組みたい」と、課題を語ってくれた。
 高田病院院長で、10月30日の日常診療経験交流会にも来ていただいた、石木幹人先生に病院を案内していただく。「仮設の40床の入院病棟を新たにつくる許可がでた」と、ひとまずほっとしておられた。
 夕方には盛岡の岩手協会で、箱石勝美会長にお会いする。岩手の現状をお聞きし、被災地訪問の感想を伝えた。岩手県は山が多く平野が少ないので大変とのこと。
 翌日15日は宮城協会を訪ね、北村龍男理事長から現状をいろいろお教えいただいた。中でも東北大学医学部が中心となる「メディカルバンク構想」は、阪神・淡路大震災後の「医療産業都市構想」そのもの。その後福島へ移動し、保団連公害視察会に合流した。
 被災三県はこれから冬に向かい寒さ対策、インフルエンザの蔓延など、課題が山積している。また、コミュニティを作るために、集会場も完備した恒久的な県営住宅の建設が待たれる。
 今回の訪問では、訪問した各所で、仮設や復興住宅での孤独死など阪神淡路大震災の経験をお話し、協会が当時行った「仮設調査」の結果から、予想される課題を伝え、資料をお渡しした。ハコモノ復興でない、人間本位の復興のために、大きな運動をつくっていく必要性を痛感した。

2011年9月12日月曜日

現地レポート38 西宮市・広川恵一先生より

いわき湯本<ほっと一息コンサート>・<健康相談>と
仙台・宮城協会事務所にて<鳥の海歯科医院>上原忍歯科医師との懇談

兵庫県保険医協会 西宮芦屋支部
広川内科クリニック 広川 恵一

 今回の目的

     
  • いわき・湯本での被災地コンサートと健康相談(健康と医療を語る会)の実施
  •  
  • この経験を今後の被災地でのコンサート・健康と医療を語る会につなぐ
  •  
  • 亘理・鳥の海歯科医院の上原歯科医師に企画内容を説明し被災状況のお話を伺う
 
 

 8月20日・21日はいわき湯本での福島協会の協力を得て<ほっと一息コンサート><健康相談>のとりくみと翌日宮城協会事務局での亘理・鳥の海歯科医院の上原忍歯科医師との懇談を行いました。

 参加は兵庫協会から清水映二研究部長と黒木直明次長。福島協会から木村守和理事・緑川靖彦医師、菅原事務局長、保団連から取材に工藤事務局員。

 私は午前の診療をスタッフの協力を得て早々に終えて、午後1時前に新大阪駅で奏者の劉揚夫妻に合流し現地に向かいました。湯本駅では女将が黒木次長と一緒に車で迎えに来てくれました。

 劉揚は阪神淡路大震災では中国人留学生の民族音楽集団<長城楽団>で各所の避難所・仮設住宅でのボランティア演奏を続け、その後も協会西宮芦屋支部で震災1年・10年・15年メモリアルで長きにわたって協力してくれています。

50人が参加し二胡の演奏に心を和ませた
 <ほっと一息コンサート>は午後7時から8時半まで行われました。この日は地域の盆踊りと重なってしまい参加者は避難生活をしている人20数名を中心に50名。このネーミングは青森協会の<ほっと一息プロジェクト>から借用したものです。


 受入はいわき・湯本<新つた>で原発事故現場から49kmで事故現場から国内の温泉地としては一番近いところにあり、緊急時避難準備区域に指定されているおもに広野町からの人々の避難所、原発関連・仮設住宅関係の人たちの受け入れ施設となっています。旅館協同組合の28軒ある旅館が避難所・震災関連の宿泊施設となり休館状態で営業再開の将来の見通しがもてない状態が続いています。地域の人々はあとで触れるように十分な情報がない中で被曝の不安を大きくもって生活されています。このたび会場を快く提供していただき受け入れてくれました。

 <新つた>は野口雨情の常宿宿また美空ひばりもときどき利用していたということで、雨情のメドレーや美空ひばりの<川の流れのように>は参加者だけでなく旅館の女将・ご主人・スタッフの喜んでもらえるところになり、ご主人がおばあさんから聞いた雨情の話やひばりの思い出など聞かせてもらいました。



健康相談では被災地の深刻な不安が寄せられた
  <健康相談>では別室にコーナーを設け、血圧の測定や発作性頻拍の相談などがありました。同施設で避難していて、母親が老衰で亡くなられ、その日、葬儀があった(そういうこともあってその日<新つた>は朝からとてもあわただしい日となっていました)60歳前後の息子さん夫婦が演奏会に来られていて、女将からそれを聞き、私がお悔やみの声をかけたところ相談されました。車の運転の仕事をしていたが津波で会社がなくなり失業中。かかりつけの医師から胸の下側に丸い影が見つかったのでCTを撮るようにいわれているが怖くて行けないということ。木村医師はかかりつけの医師をよく知っていて安心して先生のお話しの通りするようわかりやすく説明してくれました。

 もう一人の40才代の女性は子どもたち二人が離れたところの学校に行っているのだけれどいまの状況で戻っておいでと行ってもいいものだろうかという質問がありました。何よりも正しい情報が示されていない事からの不安です。すべての人たちがもっている不安で湯本にも線量計が自主的に設置されモニターされています。
 原発事故責任をとらせること、正しい情報が責任もって提供されること、健康管理が国の責任で行われることが大切と考えられます。具体的な対象や内容は早々に詳細に決定される必要があります。福島はじめ広範な被災地域には世界に情報の発信と共有をはかり国と自治体の地域住民の健康管理と治療の完全責任を果たさせる役割があると思われました。

 演奏会・健康相談が終わって、午後9時から夕食をとりながら当日を振り返りながら奏者も交え福島協会の先生方と話し合いました。日常診療では在宅医療・緩和医療・病院から診療所への病診連携など難しさなどどう解決していくかそれぞれの経験や思いを語り合いながら、今回の津波被害と原発被害について話がすすみました。午後10時半には木村先生・緑川先生は翌日の研究会の講師などあり戻られ、あと5人での話が続きました。菅原事務局長が協会に勤務した1983年に当時の桐島会長の発言が協会活動のあり方の基準になっているという言葉にうれしく思い話が弾みました。

 翌日は午前6時に朝食、7時過ぎに菅原事務局長の運転で福島に向けて出発しました。劉揚夫妻については女将が午前中、市内とそれぞれちょうど1ヶ月前から再開が果たせた<いわき石炭化石館・ほるる>・<アクアマリンふくしま>に案内してくれました。今後阪神淡路大震災でボランティアワークしてきた人たちをはじめ多くのアーチスト達の被災地でのイベントがさらにひろがることと思います。車中ではわれわれは菅原事務局長から福島の状況・課題について詳しくうかがうことができ同じく今後の交流の拡がりの可能性を感じることができました。

 午前9時40分には宮城協会に到着。日曜日にもかかわらず野路事務局長・事務局の方が準備してくれていました。ちょうど10時に上原先生がこられお話しを伺いました。上原先生には10月30日の兵庫県保険医協会・日常診療経験交流会に前日から来ていただくことになっておりその企画内容の打ち合わせと被災状況と現在の状況についてうかがうことが目的でした。

 上原先生の医院は海岸から1kmのところにあり3月11日地震のあと、津波がくるとの警報で患者さん・スタッフを帰宅させたあと、2階で後片付けをしていると、あっという間に2階の高さまでの津波の直撃を受け、1階の診察器具・諸機器・パソコン・カルテ・書類はあっという間に押し流されてしまい、人や車が流されていくのが目に入り一時は覚悟したとのことですが、1階部分は鉄骨で建てていたので奇跡的に助かることができたとのことでした。
 津波は7km内陸まで到達し、水が退かず翌日漁船の人のゴムボートで中学校の3階に避難し、その翌日自衛隊のヘリコプターで隣の岩沼市に脱出し、そこから歩いて25km離れた仙台の娘さんのお家にたどり着かれたとのことです。そのあとも地区歯科医師会・会長の役割で安否確認や死体検案に参加されています。
 幸いなことにご家族もスタッフのみなさんも無事でしたが診療所は全壊判定を受け、これまで蓄積してきた研究の記録も流されてしまい、今後の診療再開をさまざまに考えられながら、生かされたという思いの中で被災地の人々のために尽くしたいという気持が自然にわき上がり、別の地に仮設診療所を建て9月7日から診療を再開されることにされました。
 上原先生と1時間半ばかりお話ししてお別れしてから、私自身これまで避難所を二回にわたって訪問した亘理に向かいました。東部自動車道からみる海岸部はまだ土地は黒っぽく枯れて茶色になった草が残り一部に損壊した車がまだ散見されましたが新しく緑もひろがりをみせ5ヶ月の時の流れを感じさせてくれました。汽水胡の鳥の海の周辺は瓦礫が山積みとなっており、近くの上原先生の医院とその周辺をみせていただきましたが津波の激しさを今も残しています。

 亘理から近くにある仙台空港から帰路につきました。この度も被災地で静かに被災地に向き合っている医師達や多くの人々に出会いこれからの日本全体の災害対策に心を寄せ合っていく思いをつよく持つことができ、兵庫協会の震災対策のとりくみに少しでも役立つことができればと思った次第です。

現地レポート37 西宮市・広川恵一先生より

7月16日(土)~17日(日)(18日(月・休))
いわき・湯本、仙台・宮城協会、陸前高田、盛岡被災地訪問報告



兵庫県保険医協会 西宮芦屋支部
広川内科クリニック 広川 恵一

目的

今回は兵庫協会としてできる震災対策の一環として

  1. 地震・津波・原発事故の被災地の課題をさまざまな立場から身近に聞かせていただくこと
  2. われわれのとりくみでできることを明らかにすること
  3. 被災地と兵庫協会・会員の距離をさらに近づけること
  4. 協会の10月の日常診療経験交流会での交流と講師をお願いする
  5. とりわけ協会および講演を引き受けていただける先生に現地で直接お願い~連絡を取る
  6. あわせて<被災地の生活と医療と看護>の講演をいただく先生方への献本と
  7. 西芦支部としては阪神淡路大震災後から交流のある旧名塩仮設住宅の自治会長・北田昭三氏が仮設在住時からいまも人々の交流の目的で手作りされている大きな24面体サイコロを二日前に託されそのうち7個を現地に届ける
以上のことがありました。

参加者は清水映二研究部長と黒木直明次長と私の三名。


行程

(16日)東海道線→常磐線→いわき・湯本/湯本泊
(17日)湯本→いわき→郡山→仙台→仙塩街道→大和IC→関IC→陸前高田病院→花巻南IC一→盛岡南IC/盛岡泊

訪問先

16日(土)
ゆもと・新つた/女将・若松佐知子氏
17日(日)
宮城協会/北村会長・井上副会長・野路事務局長
陸前高田/青森協会 大竹会長・広野事務局長・中村前事務局長
盛岡/石木幹人県立高田病院院長


16日(土)は福島・いわき・湯本で原発事故現場から49kmのところです。
いわき・湯本には小学校時代からの友人がこちらの病院で勤めています。
新大阪を午後1時47分に発って湯本には午後7時9分の着でした。

湯本は事故現場から温泉地としては一番近いところにあり、住民は十分な情報がなく被曝の不安を大きくもって生活されています。

緊急時避難準備区域に指定されているおもに広野町からの人々(最大時80名余り現在49名)と原発関連で作業している人たち(最近では愛知県からの機動隊50名)を受け入れています。
ここでは3月11日以降繰り返す地震と原発事故被害について詳しく現場のお話しをうかがいました。

28軒ある旅館がすべて宿泊できない休館状態で営業再開の将来の見通しがもてない状態。
災害時での雇用保険の失業手当受給期限が来年5月まで延長可能となったことからそれまで再開は無理ということかとか、原発事故収束に数十年かかるということは再開は無理かとかという不安があり、毎日の生活のこととしては、一日前初めて戸外で布団を干したが大丈夫だろうかということをはじめとして 、被爆はどれほど深刻なものかなど情報が入っていないこと多くの問題がありました。

スーパーでの野菜は「福島県産」・「茨城県産」・「その他」と書かれていて、福島県産はただのような値段だそうです。

地震が続いていますがその中でも4月11日・7月11日(7月10日でなくその翌日)には湯本を震源地とする地震があったが全国的には大きく報道されず、それは原発が近くにあるからではないかとのことでした。

それに別に有名な人に来てもらおうとは思っていないが来てくれる人もなく、この地は忘れられているようでそれがさびしく感じられるということでした。

彼女には阪神淡路大震災でのボランティア活動以後、西芦支部での震災メモリアルでも協力を得ている二胡奏者・劉揚のCD二作目を前回5月の訪問時に手渡して館内放送をしてもらって、避難されている人たちに喜んでもらっています。
女将からも劉揚の奥さんに電話で話してその模様を伝えられています。

このたび一作目のCD(これは劉揚の手元にも在庫がありません)を届けました。
彼自身そのようなことがあったので現地で演奏会ができることをつよく希望しており、女将も場所や声かけなど市役所とも協力して日程を調整してコンサートを企画したいとのことです。
今回訪問の3名がその協力に当たることになりました。
宿泊は<新つた>に便宜的に泊めてもらいました。
朝は職員の方に挨拶して6時に出たところそれを聞いた女将が駅まで追っかけてきて、朝食に用意してくれていた握りたてのおにぎりを二個ずつ三人に届けてくれました。

17日(日)は午前6時30分に湯本を発って仙台に午前9時26分着。
午前10時から宮城協会北村会長・井上副会長・野路事務局長と1時間懇談・打ち合わせ。
診療はほぼ復旧していますが(診療科によっては無医地区状態のところはまだあります)、
仮設でのPTSD、アルコール・精神領域の問題や孤独死に対する対応をすすめるため震災を経験した兵庫協会からケアマネ・ヘルパー・保健師などスタッフにサポートができる医師などの派遣のお願いを受けました。
これはこちらの方で宮城協会と連絡をとりながら整理して具体的に対応できるようすすめたいと考えます。

阪神淡路大震災の経験や記録が十分に活かされているとは言い難く、一部負担金の免除の要件が厳しく失業手当をもらっている場合は免除の打ち切りとなるようで運動面で取り上げてほしいとのことでした。

この秋の協会の日常診療経験交流会にお話しに来ていただける歯科医師の紹介を宮城協会にお願いしていたところ、亘理町で津波に診療所を流された鳥の海歯科医院の上原忍先生より協会での会談の時間中に奥様から電話が入り、先生からの伝言で「これは被災を受けた私たちの義務と思います」と快諾をいただきました。

仙台から塩竃までの仙塩街道を通り大和ICから東北自動車道に入り一関ICで降り、午後3時過ぎに県立陸前高田病院の跡地で青森協会の大竹先生、広野事務局長、中村前事務局長と合流しました。

高速道路は一関IC出口混雑で2kmに半時間かかりました。
これも問題になっていることで、被災証明・罹災証明・罹災証明届出証明で申請すると自動車道が無料となることで(ETCはその点検ができないので)、通過する車はほとんど無く一般出口がその点検作業もあるので時間がかかった次第です。


県立高田病院の周囲は無人で瓦礫が所々に山のように寄せ集められ、それ以外に回りに何もなく荒漠とした状態で、太陽がぎらぎら照りつける中砂埃が舞いハエがまとわりついてくる中で立ったまま15分話し合いを行いました。
陸前高田の人口は2万4千人でうち死者・行方不明者およそ2千人、倒壊した家屋は3千戸。10人に一人が犠牲となるという大きな被害を受けています。

未だ荒漠とした病院前で意見交換を行った
三陸での長期の医療支援が必要であることで、行政は1ヶ月の期間の医師支援がほしいとのことですが、それは診療の継続もさることながら交通費を気にしてのことのようでもあるようだ、とのことでした。

研修医の派遣という意見も出されているとのことですが、あくまで被災地の中で学ぶことのできる指導医などの条件と健康・精神面を支える体制があってのことで、単なる労働力にしないようにすることが大切で研修医派遣の場合はそのあたりの注意が必要になります。

岩手・三陸については青森・岩手協会と連絡をとりながら、医療ニーズをつかむことが課題になると思いました。

陸前高田は1mの地盤沈下がありもとの住所に戻りたいという人、戻りたくない人・決めかねている人たちさまざまで、陸前高田市の再建は極めて難しいものがあるようです。
大槌町の同じく医院を流され学校にあった机一つから仮設診療所を作って診療を開始された植田俊郎先生にその場で電話して快諾を得ました。
大槌町には車では午後5時到着となりその時間は植田先生にすでに予定が入っておられ、お会いできる時間がとれず電話でのお願いになりましたが、日常診療経験交流会の趣旨はじめ今回の目的について十分にお話しすることができました。

帰りは車の中にハエがたくさん入り込んでいて、すべて追い出すのに一関のインターまでかかりました。
青森協会はハエ取り紙を現地に届けて喜ばれたそうです。
現場に身を置くこと・話しをよく聞くことの大切さをあらためて感じました。
こちらのハエはそう大きくはなかったですが大竹先生によると、釜石のハエはかなり大きいそうです。

また青森協会はインターネットでの通信環境をととのえるということで、連携のとれる医療機関にパソコンの提供などすすめて情報の収集や対応に役立てているとのことでこのことも学ばせてもらいました。

花巻南のインターに向かい盛岡南で降り、午後7時に盛岡で待ち合わせして陸前高田病院の石木幹人院長とお会いできました。
病院の被害は甚大で津波は病院の4階の高さまで押し寄せ、15人の患者さん・8人の職員が犠牲になり、病院の屋上で160名が取り残されました。
陸前高田市は先に触れたようにもともと2万4千人の地域で高齢化率34%。
市民の76%が被災し(南三陸町、大槌町は被災率50%、)開業医が7人中2名がなくなり、県立高田病院の先生一人が辞職され、「陸前高田から高校も病院もなくなるのではないか」と心配する市民の声もあるとのことです。
医療課題も医療への期待もきわめて多く、石木先生は職員と力を合わせて被災地医療の責任を果たされています。
この模様はNHK・ETV特集<失われた3万冊のカルテ~陸前高田・ゼロからの医療再生~>で報道されています。

被災の状況とわれわれが何かお手伝いできることなどうかがい、兵庫県保険医協会日常診療経験交流会についてこれまでの歴史から説明させていただき、あらためてこの秋に来ていただけること快諾をいただきました。
(個人的なことですが、私が中期研修にお世話になった指導医の野宮順一先生が彼のいとこにあたることが分かりお互いにとても身近な感じを持つことができました)

翌日は午前7時半に盛岡を発ち車で仙台に、仙台から東北新幹線で帰りましたが、おそらくは<東北六魂祭>と三連休ということもあってか、東京駅まで指定席は終日満席でした。

被災地の課題の多さに16年前を思い出しますが、広域であり津波被害に加えて原発事故でもともと医療過疎であったところでの災害だけにその被害の実態には依然として筆舌に尽くせないものがあります。
これは自分たちの課題であり、考えられることをすすめていくことができればと思います。

宮城協会での会議で繰り返しお話ししたことですが 、今回の日常診療経験交流会への講師のお願いということでおわるのでなく、震災へのとりくみは長期につづきこれからもさまざまな形で交流を続けていくことができればと考えています。
今回は実にいろいろな意味で大切な機会になったと考えています。

震災・災害対策は発災後からはじまるのでなくそれまでからあるということを今回のいわき・宮城・陸前高田・盛岡の訪問でまた痛感した次第です。

今回を踏まえてこれからのとりくみ

  • 宮城協会から依頼があったPTSD・精神疾患・孤独死などについてのケアマネ・ヘルパー・民生委員・保健師サポートのための講師派遣
  • 日常診療経験交流会の東日本大震災企画のとりくみ
  •  1)前夜の座談会・交流内容 2)翌日の講師の移動にあわせたプログラム編成
  • いわきでの(原発事故にかかわる)講演会とコンサート(”ほっと一息コンサート”)と健康相談(健康と医療を語る会)
  •  ボランティア活動をはじめとしてさまざまな形のかかわりについて検討することなど。 とくに健康相談では地域の医療課題が鮮明に見いだせる場所であることを位置づける。 1)該当協会への報告・相談と協力をいただく 2)保団連・被災地各協会からの協力をいただくようにする 3)地元・行政との協力を得るなど 4)兵庫協会の震災対策で位置づけ
  • 被災地から日常診療経験交流会に来ていただく先生とこれからの交流
  • 青森協会・宮城協会・岩手協会・福島協会との連絡・連携
  • その他

おわりに

東北は遠く移動にとても時間がかかります。
従って現地では事前に準備しておいて短時間に要件をすませていく段取りが重要になり同時に(逆に)移動の時間を使って問題点の整理や共通の認識を深めることもできます。
今回は三名の参加メンバーでこの二つがきめ細かくできてよかったと思います。

2011年5月28日土曜日

現地レポート36 三田市・小寺修先生より


2011年5月3日~5日 東日本大震災被災者支援

                                           小寺歯科医院 小寺 修

 この度は、未曾有の大震災において、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災されたすべての皆様に心よりお見舞い申し上げます。


 4月14日の三田での支部幹事会において、三田市から、仙台若林区に災害派遣された保健婦の鹿嶽様と西中様、そして兵庫県保険医協会から派遣された中津先生のお話をお伺いして、「行かねばならない。」との強い思いが、私の心にフツフツと湧いて参りました。
保険医協会にお電話を差し上げて、5月3日から5日に被災地支援に行きたいとお願いしたところ、日程もさし迫っていたにも関わりませず、各方面に調整頂きまして、この度の災害派遣を実現して頂きました事務局に心より御礼申し上げます。

 5月3日、川西先生、井尻先生、そしてなんと徳島支部から単身参加された紅一点、都築先生、事務局の黒木さんと岡林さん、そして、小寺の計6名が、7:30伊丹に集合して、8:15発のJALにて仙台へ。
仙台空港着陸前の機窓から、空港周辺が津波で、何もかも無くなってしまった、生々しい大地が一面に広がっているのが、望まれました。
とうとう被災地にやって来たんだと云う、不安と闘争心の入り交じった思いが、湧いて参りました。
空港到着後、タクシーにて仙台市内のリッチモンドホテルに、事前に送っておいた機材をピックアップし、コンビニでおむすびを買って、車内で食べながら、そして途中文具店を見つけ、カルテ複写用に、クリップボードとカーボン紙を購入し、東松島市の矢本保健相談センターに。
保健相談センターでは、保団連宮城協会副理事長の井上先生と保健師の桜井さんが待って居て下さいました。


お二人に指示して頂き、3日から三日間の東松島市矢本保健相談センターを拠点に東松島市と石巻市の避難所巡りが、始まりました。
川西先生をリーダーに、二人一組で行動することにしました。
第一日目は、川西先生/都築先生組と井尻先生/小寺組にて、矢本東市民センターに参りました。天気が良かったので、お家の片付けに帰られており、実際には、4名の被災者にお会い出来ました。
最初は警戒されましたが、川西先生に上手にお話を初めて頂き、徐々に心を開いて頂く事が出来ました。
我々のチームは、92歳のおばあちゃんと、34歳のお孫さんの男性の家族で、おばあちゃんは上下総義歯で、六甲歯研にお借りした、充電式モーターとポイント類で調整しました。そして義歯洗浄剤と義歯用ブラシと粘膜用スポンジブラシをお渡ししました。
お孫さんは、震災以来お風呂に入ってないそうです。うがい薬や歯ブラシと糸ようじをお渡しして、お二人に口腔衛生のお話をしました。


その後、保健センターの桜井さんに報告に上がりました。
仙台で一台だけ残っていた6人乗りのレンタカーが、塩釡の日本レンタカーにあるとの事でしたので、塩釡へ向かう事に。
矢本駅で本塩釡駅までの切符を買いましたが、 まだJR仙石線が不通の為、東塩釡駅まで代替えバスで、そこから電車で本塩釡駅にやっと到着しました。地元の皆様は何から何まで、ご苦労されておられるのを身を以て体験致しました。
レンタカー受け取りの待ち時間に、地元の八百屋さんに薦めて頂いた居酒屋「ひなた」で地元の魚と宮城の地酒で復興を願って乾杯しました。
復興地酒「日高見」最高に旨かった。

 第2日目(4日)は、9:30に東松島市矢本保健相談センターに集合し、宮城協会理事の五十嵐先生にご案内頂いて、井尻先生/都築先生組と井上先生/小寺組にて、関ノ内地区センターに向かいました、その前の矢本運動公園では、仮設住宅が100戸ほど建設中でした。この日も天気が良く、ほとんどの被災者が、お家の片付けに帰っておられましたが、帰ってこられた女性は、あまりのひどさに、やる気を無くしました。と仰っておられました。
ここでは、井尻先生チームが動揺歯の咬合調整と投薬にて対応しました。


井上チームは口腔衛生用品を主任さんにお渡ししました。
次は、石巻市の青葉中学に行きました。ここは、自衛隊がしっかり入っており、料理車両や仮設のトイレとお風呂が設営されていました。


しかしながら、午後から別の歯科医師のグループが入るとの事でしたので、寄って来て下さった方、2・3人にうがい薬など口腔衛生用品をお渡しして次の釡小に向かいました。
ここも1,5mの潮を冠ったそうです。水道は来ていますが、電気はまだ来てい無いそうです。
ここでは、歯ブラシは足りているとの事でしたので、まず管理されている市職員さんに、スポンジブラシやうがい薬や入歯洗浄剤をお渡し致しました。


その後体育館左右二組に分かれて、回りました。なかなか心を開いて貰えませんでしたが、神戸から来ましたと、井上先生が上手にお話して下さり、だんだんと心を開いて、お話して頂けるようになりました。あまり押売的にいくよりも、お話をお伺いするのが良いのかなーと感じました。


水道はこの3つの蛇口で全員が歯磨きも手洗いもされているそうです。
ただ衛生には、非常に気を使われているようです。
ほとんどのコンビニが津波で閉鎖されているなか、やっと開いてる店を見つけて、おむすびやお茶を買って、五十嵐先生にご案内頂いて石巻港を見下ろせる日和山公園で、変わり果てた石巻を見下ろしながら昼食をとりました。


午後からは、石巻工業港から500mにある、釡会館に向かいました。
ここは、本当に厳しい状況で、何もかもが、津波に破壊されていました。
釡会館は、海側に飼料工場があり、その飼料と潮と油と排水が混ざったヘドロを冠っており、何とも云えない悪臭が漂っていました。思わずマスクをしました。この会館は1階は完全に津波に巻き込まれ、今も全く使えない状況で、2階が避難所になっていました。


ここでは、2人の義歯のティッシュコンディショニングをしました。
井尻先生のライト付き2.5倍ヘッドルーペは特に、私の釣り具屋で買って来たヘッドライトも非常に役立ちました。
釡会館の前の崩れたお墓の片付けをされていた男性にうがい薬をお渡ししたところ、ヘドロが乾燥して粉が舞い喉がやられてしまったそうで、非常に感謝されました。家族にも欲しいとの事でしたので、沢山お渡ししました。



その後水没した、大曲地区を通って、五十嵐先生の東松島市鳴瀬歯科診療所にお邪魔しました。診療所は、海から3kmも離れているにも関わらず、津波の潮を(川西、井尻先生が手で示されている所まで)1.5m冠り、ヘドロを被り、チェアーは全てオシャカになり、床も剥いで、何もかもほおり出されておられました。この状態でも、絶対に元通りに診療するんだと、強い意志を持っておられました。先生の不屈の精神に感服致しました。



五十嵐先生の勧めで、野蒜地区を経由して仙台に戻りました。
野蒜地区は4m以上の津波に襲われ、本当に悲惨でした。


 第3日目(5日)は、川西先生/井尻先生組と都築先生/小寺組でまず、小松文化会館に向かいました。
ところがこの日は、身元確認された地元の方のお葬式があり、会館には3人のみでした。
川西チームは。義歯のティッシュコンディショニングを行い、都築チームは、認知症のお母さんとお嫁さんのペアを診ました。
お母さんは、上下総義歯で調子が良いとの事でしたので、義歯を洗浄して、スポンジブラシでの口腔清掃のお話をしました。お嫁さんには、歯ブラシとうがい薬をお渡ししました。


次は、昨日通った野蒜地区の避難所の中下地区センターで、5人家族で家ごと津波に流された母娘の口腔健診をしました。お母さんは持続的な治療をなるべく早く受けるべきと思われましたが、 かかりつけの歯科医院も流されて、先生は亡くなられたそうです。
午後から、五十嵐先生の診療所に、京都府歯科医師会から無償、無期限で借与された検診車の見学に伺いました。配りきれなかった衛生用品や、使いきれなかった歯科機材と、武中先生と岡本先生に頂いた薬をお渡ししました。
その後、保健相談センターの桜井様に報告にお伺いして、帰路につきました。


今回3日間で、東松島市と石巻市の7箇所の避難所を巡り、歯科医師4名で、28名の被災者のお口を見せて頂く事が出来ました。
天気が良くお家の片付けやお葬式などで避難所には、すべての方がおられた訳では有りませんでしたので、診察出来たのは、実際に避難されている方の一部のみでしたが、その分一人一人時間をかけてお話を伺う事が出来た事は、非常に良かったと感じました。

今回の被災者支援に赴くに際し、中津先生よりアドヴァイスを受けていた事は、非常に役立ちました。我々も次に支援に行かれる先生に向けて、気づいた事を列記致します。
1)飛行機で現地に入りましたが、それでも1日目と3日目の活動は、半日になってしまいますので、少なくとの今回の様に3日は必要だと思います。
2)仙台空港から各被災地までは距離も有りますし、物資も沢山有りますので、ワゴンタイプのレンタカーを事前に確保いておくのが良いと思います。
3)カルテの1号用紙のコピー100枚強(裏は白紙でもOK、事前にバインダー用に2穴あけておく)、クリップボード、複写用カーボン紙、2穴バインダー、筆記用具。
4)手鏡:患者さんの口腔ケア指導時にご自身の口を見てもらう為。
5)ザルとボール(デンチャー洗浄、排唾用)
6)充電式モーター(ストレート・コントラハンドピース、5倍速コント
ラ)電気の来ている所も有りますので、電源用延長コード。
7)歯牙切削用バー、デンチャー調節用のバー・ポイント
8)ウエットティッシュ、ゴミ袋(スーパーのポリ袋ぐらいの大きさ)
9)エアダスター(可燃性は機乗前に没収されますので、仙台で購入すべし)(仙台東部道路 仙台港北ICの仙台よりの45号線南側に大きな文具屋が有ります。)
10)ティッシュコンディショナー、デザインナイフ、曲の金冠バサミ、咬合紙、(リベース材を持って行きましたが、使いませんでした。)
11)ライト付き拡大鏡、ヘッドライト
12)ゴム手袋、マスク、白衣、
13)うがい薬(アズノール等の粉末が良い)入歯洗浄剤、入歯ケース、スポンジブラシ、入歯用ブラシ。
14)靴は脱ぎ履きしやすいもの(避難所はすべて靴脱ぎます)、スリッパ

そして、今回支援に赴いて、感じた事を列記致します。
1)支援にあたっては、今回事務局にして頂いた様に、地元の社団連と保健センターとの事前の打ち合わせが必須だと実感しました。
2)義歯修理など、実際に治療する事も大切ですが、それ以上に、被災者の言葉に耳を傾け、お話を伺いながら、ケアして行く事こそが、一番大切だと感じました。
3)歯科医療も口腔ケアも行き届いてない被災地がまだまだ有る様に感じました。自治体自体が機能していない所も有るでしょうから、地元の医師、歯科医師、医療関係者との間に立つ機関としての保険医協会の役割は非常に大きいのではないかと、感じました。
4)被災されているのは、医師、歯科医師などの医療機関も同様ですから、その先生方にも、お役に立てる仕組みを構築すべきだと思います。
5)支援者はその日限りですが、被災者はつづく訳ですし、復興してもそうですから、カルテなり、地域連携パスなりの記録を本人と保険医協会と保健センターが持っておく様な、仕組みを構築すべきだと考えます。
6)被災された医療機関支援のため、中古の医療機器を全国から保険医協会を通じて、お譲りする仕組みの構築。その為には、10年なりの期間を設け、被災地に関しては現在のPL法の対象外にするような 特別措置法の立法を国会と政府に働きかけなければならないと、考えます。

 今回の支援に際し、アドヴァイスを頂きました中津先生、鹿嶽様、西中様。お薬を託していただきました武中先生、岡本先生。協賛品を提供して頂きました(KK)モリタ神戸支店様、歯科商店のササキ様、ミヤワキ様、大河様。充電式モーターとバーセットを貸して頂きました六甲歯研様。現地でお世話して頂きました宮城協会の井上先生、五十嵐先生、東松島市保健相談センターの桜井様。3日間お世話頂きました黒木様、岡林様。そして3日間ご一緒して頂きました川西先生、井尻先生、都築先生に心より感謝を申し上げます。

2011年5月23日月曜日

現地レポート35 協会と保団連は医療機関再建に全力を

518()は前日に引き続き、岩手県北上市内の会員医療機関2件を訪問した。訪問した会員から「協会・保団連の震災支援活動には頭が下がる」「今こそ結集して被災医療機関を支援して欲しい」など支援活動に感謝の声や地元協会・保団連へ今後の取り組みに期待の声が寄せられた。
大槌町避難所
午後からは、青森協会会員からの支援物資(衛星インターネットノートPC)を県沿岸部の大槌町で被災された会員(津波で診療所が全壊)へ届けるため車で約3時間かけ大槌町の避難所に訪問。避難所では、被災された会員が不在のため直接支援物質をお渡しすることができなかったが、医療支援のため現地入りした大阪の開業医から今後の支援活動の課題など話を伺った。以下、報告する。
1、M歯科
 被害は壁にヒビ、PC・照射器・バキュームなど機器が断線のため故障した。震災当初は、石油不足のためスタッフが通勤困難、連絡も取れず5日間休診した。被災患者を数人診ている。被災者には当面無条件で窓口負担を免除するべき。協会・保団連を通じて要請して欲しい。この間、沿岸部へ医療支援のため避難所を訪問したが、口腔状態が悪化した避難者が多数いた。口腔ケアまで手が回らないのではないか。限られた物資なので避難者に丁寧に診療ができなかったことが歯がゆい。被災者への医療支援は、今後も可能な限り続けたい。協会は沿岸部で被災された医療機関の再建に全力を尽くして欲しい。歯科医師の友人は、沿岸部で被災し診療所が全壊した。来月からその友人への支援も兼ねて当院で勤務医として受け入れる予定。厳しい状況だが、自分ができる支援は今後も続けたい。
2
M医院
 被害は軽微だった。震災当初は、停電したが診療に影響は特になかった。内陸に避難している被災者を10人程診ている。沿岸部の被災者はあれ程の被害を受けたにも関わらず、地元に帰りたがっている方が多い。また、避難者は独居の高齢者もおり心配。沿岸部住民のコミュニティが震災で破壊された。国は復興支援を急ぐべき。政府は、危機管理能力が欠如している。財源論を展開することは、全くナンセンス。被災者の窓口負担の問題も同様で7月で線引きならそれまでに被災者の生活基盤の整備をする事が大前提。この間の国の対応には憤りを感じる。
 それに対し保団連の支援活動には頭が下がる思い。今こそ保団連・協会の頑張りどき。県内陸部はいいので沿岸部の被災された会員の再建に全力を尽くして欲しい。内陸部の先生方は、沿岸部の先生方への支援は惜しまない。そう思う先生方を協会・保団連は、組織化して大きな支援の力として欲しい。
また、被災者の生活再建も今後の課題。自治体は、早急にグランドデザインを作成し、住民主体の町の再建に取り組んで欲しい。
3、大槌町避難所(弓道場) 避難所への訪問途中,被害が大きかった釜石市、大槌町の被害状況を確認した。津波により町は壊滅状態。町に人影はなく、数人作業員が重機で瓦礫の撤去作業を行っていた。残った建屋も3階近くまで浸水した形跡があり、沿岸部の津波被害の大きさが見て取れる。震災後2カ月経つが、瓦礫の多くは残ったままの状態。早急に撤去作業が必要である。
避難所である弓道場に到着し、青森協会からの支援物資を地元大槌町の会員I先生に届ける予定だったが、I先生が一週間不在にされていたため医療支援に来られていた大阪で開業のT先生に託けた。T先生より医療支援の有り方などお話いただけた、以下報告する。
 「大阪府医師会の要請でに518日から21日まで大槌町の避難所で医療支援を行う予定。阪神・淡路大震災の際も当時救急専門医だったが事も有り、避難所だった兵庫高校で3カ月常駐していた。多くの避難者は地域の先生方を頼りにしている。我々は、地域の先生方の再建のため影ながらサポートするスタンスで取り組むことがポイント。仮設であれ早期に診療所が再開されることが望まれる。大阪府医師会としての支援は5月末までとなる。組織的に継ぎ目なく支援を継続して行く事が重要である。

2011.5.20
兵庫県保険医協会事務局 足立俊彦

現地レポート34 施設利用者の25%が死亡 壮絶な現場の実態

津波到来時で止まった時計
 5月10日も、被害の甚大だった気仙沼市と塩釜市、多賀城市、七ヶ浜町、大和町、大衡村の会員医療機関を愛知協会、富山協会、京都協会から参加した4人の事務局員が訪問。合計17人の会員に直接会い、お見舞金を渡すとともに、政府への要望などの聞き取りを行った。兵庫協会の平田と愛知協会の澤田事務局次長は人口比で死者・行方不明者の割合が一番高いといわれる山元町を訪問。同地で開業しているある会員は、診療所が冠水。診療所の中は泥だらけで、時計は津波が到来した午後4時2分を指したままとまっていた。震災後、栃木県から訪問診療車を借りて、避難所を回って診療にあたっている。ただ、診療所の復旧の見込みは立っていない。先生は「この地域は、震災後、最近まで立ち入り禁止区域だった。最近ようやく日中のみ立ち入りが許可されるようになった。多くの患者さんが亡くなったし、助かった患者さんも避難生活を送っている。現在診療所の近くを走っている常磐線も、震災を契機に内陸部を通すという話もある。そうなれば駅も移転してしまうし、地域が元に戻るのは難しいだろう。同じ場所で再開しても、患者さんが戻ってくるのか分からない。地域の患者さんが避難している地域には、すでに多くの歯科医院があり、そこで開業するのは困難」と今後についての不安を語った。また、「この地域では、建物を行政に取り壊してもらうのかを決める期限が迫っている。復興計画などが決まっていない中で、家や診療所をどうするか決めさせるのは酷だ」と述べた。先生は同地で開業して15年になるが、「あと5年で借金も完済するのに、また、大きな借金を抱えることになりそうだ」と先行きの厳しさを語った。
 診療所が冠水した会員は、5月20日から、診療所の隣に仮設診療所で診療を再開する予定。仮設診療所の設置に至った経緯について、「浸水した診療所の復旧には、建築用の部材が手に入らず、時間がかかる。それで、仮設診療所を設置した。診療所の復旧後には、仮設診療所に新しく設置するチェアを移設する予定」と述べた。仮設診療所は買取で設置する場合は、最低限の医療機器を含めても1000万円以上かかる。先生は、仮設診療所の建物をレンタルすることにし出費を抑え、診療所の復旧に注力する考え。診療所は、復旧作業がある程度進み、内部の泥は取り除かれていたが、泥をかぶったカルテはそのまま。「検死のために歯型がほしいという遺族からの問い合わせがあるが、なかなか見つけることができない」と述べた。
プレハブの仮設診療所
 また、名取市でオーナーを務めていた診療所、特養、ケアハウス、グループホーム全てが全壊した会員は、現在は、被害の少なかった若林区の特養に診療スペースを開設して、診療を再開していた。先生は当日を振り返り「名取市の診療所で診療を行っていたが、地震が発生した。地震で防災無線が破壊され、正確な情報が無かったが、地域で唯一の3階建ての建物であるケアハウスに、特養の入所者などを避難させるように指示をし、自身も特養に向かった。特養に入ったところで、津波に襲われながらも、流される入所者を助けた。津波は首までの高さに達し、それぞれの施設が孤立状態に。その後、入所者や他施設の利用者など特養にいた人を大広間に集めて、暖をとるために火をおこした。厨房にあった油を使ってたいまつを作り、明かりをとった。また、津波により自宅の2階などで孤立した人を、いかだを作り助けたりした。2日目には、流れてきた船を利用し、避難者全員を陸まで避難させた」と壮絶な体験を語った。「避難中に特養の中で、朝までに多くの人が亡くなった」とし、「医師は医療機器や薬が無ければただの人だということを実感した」と無念そうに語った。最終的には入所者など関連施設の利用者164人のうち25%が亡くなり、職員も4人が犠牲になったと悲惨な実態を明らかにした。助かった施設利用者は、現在は同法人の特養に入っているが、定員の140%になっているとのこと。「行政は、いつまでその状態を続けるのかといってくる」「名取市の施設は全壊ではなく、強半壊とされ、今後補助金の交付対象などから外れるのではないのか」と行政の対応に不満を述べた。
 
2011.5.11
 兵庫県保険医協会事務局 平田雄大