2014年7月23日水曜日

東日本大震災から3年
被災地インタビューその②

見えない分断を越えて
福島県南相馬市・大町病院 猪又義光院長、藤原珠世看護部長

 保団連は4月26日から29日にかけて、兵庫・京都歯科協会とともに青森・岩手・宮城・福島協会の協力も得て東北被災地訪問を行った。前回掲載した福島県南相馬市の雲雀ヶ丘病院・堀有伸副院長のインタビューに続き、今回は、看護師不足や在宅医療体制の未整備と向き合いながら、同市の地域医療を支える大町病院・猪又義光院長と藤原珠世看護部長への保団連・住江憲勇会長のインタビューを掲載する(文責は編集部)。

■医療を必要とする人 いかに多いか

住江 震災から3年がたちました。この間、筆舌に尽くしがたいさまざまなことがあったことと思います。

猪又 この3年間、保団連・兵庫協会が被災地や当院を訪問し続けていただいていることに感謝します。全国からの物心両面の応援に、いつも勇気づけられています。もし南海トラフ地震が起きたら、今度は私たちが支援する番ですね。
 3年という時間が経過した気がせず、奇異な感じがしています。原発事故後の3月21日に、全入院患者126人を他の地域へ搬送しました。その頃には地域の住民もほとんどいなくなっていましたが、今振り返ると、大震災・原発事故直後の混乱の中でも「ここに留まっていたい」という気持ちが自分にはあったのだと思います。南相馬に残り医療を必要とする人々に対して、「医療機関がなくなったらどうする」との思いに強くかられ、「私の仕事は医療を提供すること。できることだけやろう」と、翌月の4月4日に外来診療を再開しました。

住江 震災・原発事故からわずかな時間での再開ですね。驚かされます。

猪又 再開できた大きな要因は、常勤医師が戻ってきてくれたことです。外来を中断している間、1日1回は常勤医に連絡をとっていました。診療再開の意思を伝えると、全員が快く「わかりました。すぐ行きます」と言ってくれたのです。
 親しくしている商店街の方が必死になって、門前の調剤薬局一軒一軒に「大町病院が4月4日から再開するぞ」と連絡し、薬剤師に戻ってきてもらったことも大きかったですね。

住江 医療者、地域の方に支えられて再スタートできたわけですね。

猪又 外来診療を再開し、医療を必要としている人がいかに大勢いるかを知りました。外傷の人も含め、たくさんの患者が待合室にあふれ、門前薬局には車や人の長蛇の列ができました。当院だけでなく、他の医療機関から処方箋をもらった患者も、大町病院の再開を聞きつけ門前薬局に駆け込んできたのでしょう。当時、県の地域医療課からの通知で「入院は5床、72時間まで」という規制があり、現場を考えない非常に形式的な措置がとられていました。しかし「責任は俺がとるから」と、手術や入院など、必要な人には必要な医療を提供するよう努めました。なるべく日常診療に近づけていこうと職員に話し、医師・看護師、スタッフらも皆、目の前の診療に徹してくれました。
 病院が医療を提供することは当然ですが、今は、治療内容など医療の質をより一層高めていくことが大事だと思っています。

■原発事故補償の差がスタッフ間に影落とす

住江 患者さんや地域住民の方々の健康状態はいかがですか。

猪又 受診者は県外から来ている除染作業員が多く、毎晩酒盛りをして肝硬変を患う人がいます。また、高血圧症でも糖尿病でも、重症者が増えている印象です。食事の影響も大きいと思います。
 在宅療養も困難になっています。入院してきたおじいちゃん、おばあちゃんが回復して自宅に戻られても、すぐに悪化してまた病院に戻ってこられます。震災後、住環境の変化などもあり、在宅で面倒をみる余裕が家族の方になくなっているのです。

藤原 強制的な退院・避難などで多くの患者が医療的に保護されず、仮設住宅入居後も精神的、内科的な疾患を悪化させています。在宅医療・地域医療を支える本格的なチームワークが求められていますが、訪問看護師、訪問看護ステーションも不足しています。地域医療を支えるスタッフをいかに集めるかが常に課題です。
 当院においても、もともと100人いた看護師が80人くらいまでは戻ってくれていますが、不足は続いている状態です。来年は何人入ってくれるだろうかと考えると先が不安になります。避難先で子どもの学校も始まって生活が定着し、南相馬に戻りにくくなっています。加えて、震災・原発事故後から地域に残り頑張ってきたスタッフも、3年が経過して相当疲れが出ています。

住江 看護師の皆さんが戻ってこられるような環境づくりも、大事ですね。

藤原 ええ。それには学校など生活基盤を整えていくことが必要です。そうしないと、看護師を含め若い世代の人たちが南相馬に戻ってこられません。
 それに、原発事故が当院の看護師を含め職員間にも大きく影を落としており、住んでいる地区によって元の家に戻れる人と戻れない人、窓口負担が免除されている人とされてない人など、3年たっても分断が起きています。住民に医療を提供しなければならないという思いで一緒に仕事をしていますが、福島第一原発の廃炉や放射線の影響について展望が見えないなかで、同じ気持ちで前に進んでいくことが困難になり、いろいろな心の葛藤があるのが現実です。 
 看護師間の気持ちの分断を乗り越え、どう心をまとめていけるか、今年の課題だと感じています。「病院全体が地域医療を支える立場で動こう」と院長が方針を出しているので、そこに向かって看護師としてどう医療を提供するのか、本来の医療従事者としての魂に響くものを病院内でつくり出していきたいと思っています。

■問われる国・県の役割

住江 生活再建の将来展望を示さず、しかも被災者の間に分断を持ち込むようなことは許されません。 
 3年前の震災直後に被災地へ行ったとき、ある被災者から「阪神・淡路大震災では、復興にどれくらい時間がかかったのですか」と聞かれました。長い期間がかかると答えて落胆させることもできないし、かといって無責任に期待を抱かせることもできない。何とも言いようのない気持ちにさせられました。そういう方々が震災・原発事故から立ち直っていくのを後押しすることこそが、県政や国政の役割のはずです。しかし実際に国がしていることは、原発政策でも被災者の気持ちを踏みにじってばかりです。

猪又 先ほどの入院ルールも同様ですが、震災後、県や国は被災者の実態を顧みず、何かと規制するときだけ出てくるのも現場の者としては妙な感覚を抱きました。

藤原 放射線の影響で福島に「見えないものによる分断」がある現状は、全国に伝えていかなければとも感じています。

住江 私たち保団連・各協会も被災地訪問を通じて、被災地の現状を全国に伝え続けたいと思います。本日はありがとうございました。




■猪又義光(いのまた・よしみつ)
大町病院院長。専門は消化器科。1944年福島県生まれ。東京慈恵会医科大学卒。医学博士。日本消化器病学会専門医。日本消化器内視鏡学会専門医。

■藤原珠世(ふじはら・たまよ)
 大町病院看護部長。1958年福島県浪江町生まれ。87年より前身医療法人の猪又病院に勤務。2005年より現職

■大町病院
 1877年(明治10年)に開設した前身の医療法人慈誠会・猪又病院時代を含め、約130年の歴史を持つ。2004年に猪又病院を引き継ぎ、医療法人社団青空会・大町病院として診療開始。震災時は一般病床104床、療養病床84床。14年7月現在は一般80床、療養60床。常勤医11人。全国各地からボランティア看護師などを受け入れている。福島第一原発から25キロに位置する。

(全国保険医団体連合会発行 全国保険医新聞 2014年7月25日付掲載)