2012年10月29日月曜日

全国災害対策連絡全国交流会・プレ企画参加記

 保団連も参加する全国災対連(災害被災者救援と災害対策改善を求める全国連絡会)主催の全国交流集会とプレ企画が、10月6日から3日間、宮城県と福島県内で行われ、全国から260人が集まった。協会から池内春樹理事長、武村義人副理事長らが参加した。宮城県名取市や岩沼市、福島県南相馬市の被災地の現状を視察するとともに、講演と討論を通じて、住民生活と暮らしの再建を最優先する復興施策に必要な課題を整理し、運動の方向性を模索した。池内理事長のプレ企画参加記を掲載する。


復興と原発ゼロ願う

兵庫県保険医協会
理事長 池内 春樹

 伊丹から仙台までは近くだ。昔、保団連の「味わいと文化の旅」で四万十川を見学した時乗った飛行機は、上がったと思うともう下降に入ったが、富士山や日本アルプスを見ながらお茶を飲んでいると、もう仙台空港だ。
 仙台空港は、津波で甚大な被害を受けた仙台南部の名取市にある。ここから空港ライナーで仙台市へ。仙台駅の玄関口の空中回廊は健在だ。
 地下のレストラン街で、カキフライ定食を食べる。仙台駅地下にはカキの燻製やおいしい笹かまぼこやずんだ餅のお店があり、おみやげにお勧めだ。仙台というと牛タンだが、厚切りのため前回食べた時は少し固く、今回はカキにした。身が大きくてやわらかくおいしい。松島湾のカキが不漁とのこと、地震の影響か心配だ。
 仙台駅前から、北は北海道、南は九州から集まった災対連のみなさんと大型バスに乗り込む。地元の実行委員会の遠藤さんがツアーガイドをして下さる。

名取市・岩沼市
全国の支援で復興へ

生産組合の組合長からお話を聞いた
まず名取市小塚原へ。ここでは高速道路のすぐそばまで海水が流れ込み壊滅的な被害を受けたカーネーションハウスを見学し、花卉(かき)生産組合の菅井俊悦組合長から話をうかがった。沖縄からの赤嶺政賢衆議院議員も一緒だ。
 ハウスそのものはかろうじて持ちこたえたものの塩害がひどく、井戸水で海水を洗い流し土を入れ替えるのに、全国のボランティアに助けてもらったとのこと。組合長はわれわれもボランティアと思われたようだ。1年半が経過して、きれいにカーネーションが咲いたハウスの中で、さわやかに笑う息子さんに明日の希望を見た。

赤嶺衆院議院も一緒に
現地の状況を視察
次いで、公民館から小学校への避難中に津波が来て、多くの方が亡くなったという、五差路になった陸橋をくぐって日和山へ。ここは小高い丘だ。海岸線にできた廃棄物焼却場の煙突がみえる。まわりは基礎部分だけ残した更地で、遠藤さんは「おじさんの家があり、子どものころはよく遊びに来た。ここに津波が来るとは思わなかった」と話された。
 津波の跡がまだ残っている仙台空港付近を経由して、岩沼市の千年希望の丘へ。ここは長い堤防を作るのでなく、ガレキを集めた小高い盛り土に植樹して津波を分散しようという実験場だ。


南相馬市
被災時のままの原発10キロ地点

渡辺南相馬市議で南相馬市へ
亘理町や鳥の海を見ながら、国道6号線を一路南下、福島県南相馬市へ。線量計は0・2マイクロシーベルト毎時だ。
 渡辺寛一南相馬市議の案内で、やっと日中の立ち入りが許された小高区へ。
 中心の商店街には建てたばかりのような瀟洒なレンガ造の診療所、道路をはさんだ反対側には歯科診療所。年商2億円を稼いでいた洋菓子屋さんもある。蔵造りの旧家や馬繋ぎ場もある。線量計は0・4マイクロシーベルト毎時と、今回のツアーで一番高い値を示している。
 「南相馬の田んぼは埋め立て地で、強力なポンプで排水していたが、地震で壊れ排水できない。大型コンバインを700万円で購入したが、シートを被っている。あの高台に貝塚の遺跡がある。ここまで海だった」農道を通りながら、渡辺市議が説明される。
 道路も冠水しているが、大型免許を持っていると巧みにバスを誘導してくださる。福島原発から10キロメートルの地点だが、線量計の表示は0・3マイクロシーベルト毎時だ。
 雨が降り出した。明日は今夜の宿、遠刈田温泉さんさ亭のご主人のご厚意で、蔵王のお釜だ。
 東日本大震災からの人間の復興を祈ろう。
            

2012年10月12日金曜日

国による被災者の生活再建を求める運動に全力で取り組もう

全国災対連が全国交流集会・プレ企画を開催

 保団連も参加する全国災対連(災害被災者救援と災害対策改善を求める全国連絡会)主催の全国交流集会とプレ企画が、10月6日から3日間、宮城県と福島県内で行われ、池内春樹理事長、武村義人副理事長らが参加。名取市や岩沼市、南相馬市の被災地の現状を視察するとともに、講演と討論を通じて、住民生活と暮らしの再建を最優先する復興施策に必要な課題を整理し、運動の方向性を模索した。

宮城県内では復興が遅れ広大な更地が広がっているものの、震災・津波瓦礫は集積・分別処理され、塩害処理をかさねつつ農業が再開されるなど、現地視察では、少しずつでも前進が伺える。名取市ではボランティア等の協力を得ながら再開したカーネーション栽培農家から支援への感謝が述べられた。しかし、悲惨さを極めていたのは南相馬市小高地区。福島第一原発から10~20㎞圏内で今年4月まで立ち入り制限されていた「警戒区域」にあたり、現在も1/3が帰宅困難地域や居住制限区域に指定されている。南相馬市小高地区では、被災直後から放射線被害により人の立ち入りが不可能になったため、1年7カ月を経過した今日も、瓦礫は遺体捜索目的で仮に路肩に寄せたれたまま。地震・津波で破壊された家屋は放置されたままであり、被災直後から放置・遺棄されている状況にある。


 
 20㎞県内では今も夜間の立ち入りが禁止され、水道も復旧していないため、居住できない。小高市中心街で計測した放射線量は0.42~0.45マイクロシーベルト毎時と高く、歯科医院、小児科医院、病院など、患者も医療者もいない医療機関が、人影のないゴーストタウンに放棄されていた。線量計で計測しながら現状を確認した池内春樹理事長は「関係者の無念いかばかりか。復興はおろか自宅への帰還もかなわない住民の気持ちを考えると、あらためて原発ゼロでなければ」と、核と人類は共存できないとの思いを分科会で表明し、一人ひとりが線量計を持て汚染マップを作り、「子どもを放射線から守ろう」と訴えた。

 蔵王町内で行われた全国交流会には260人が参加、被災3県の代表や各自治体の職員、県・市会議員らが、核汚染、医療、職業、住居、教育の課題と取り組みについて討論・交流した。また、記念講演では岡田知弘京大教授が「『惨事便乗型』復興から『人間の復興へ』」と題し、復興庁のすすめる多国籍企業奉仕の「復旧でない創造的復興」論について、「病人にオリンピックを目指せ言うもの」と批判するとともに、「地域循環型」「地域内再投資力」重視の経済政策で、住民の暮らしと生業を支援することが、いち早い地域社会の復活につながると解説した。
住江憲勇保団連会長は、まとめの挨拶で大企業の利益を最優先し、復興予算を食い物にする政治姿勢を改めさせ、今後起こりうる災害に備えるためにも、国による被災地・被災者の生活再建を求める運動に全力で取り組もうと訴えた。また、小山栄三大阪歯科保険医協会理事は脱原発や生活再建の運動を進めるためにも、橋下維新の会など「第3の勢力」の欺瞞性を批判しようと呼びかけた。

2012年8月20日月曜日

現地レポート43 2012年7月14日~16日 被災地(大槌・気仙沼・仙台・亘理)訪問報告

 7月14日から16日にかけて、広川恵一先生(西宮市・広川内科クリニック)、八木秀満先生(尼崎市・八木クリニック)、清水映二先生(たつの市・清水内科医院)に加え、ソプラノ歌手の長谷川眞弓氏、ピアノ奏者の轟木裕子氏、兵庫協会事務局で被災地を訪問。地元協会の協力も得て被災地の現状と現在抱えている課題を学ぶとともに、仮設住宅で暮らす住民に音楽を届けるためのコンサートを開催した。
 参加した広川恵一先生からのレポートを紹介する。


2012年7月14日~16日 被災地(大槌・気仙沼・仙台・亘理)訪問報告

はじめに
 14日(土)から16日(月・休)大槌・気仙沼・仙台・亘理を訪問し多くを学ばせていただきました。
 訪問の目的は、
 第一に1年4か月経った被災地の現状・課題を現場の医師やボランティアの方々からうかがい、今後の震災対策に少しでも役立たせていただくこと、
 第二に宮城協会の北村辰龍男理事長・井上博之副理事長・鈴木和彦事務局長から被災地の人々の現在の健康状況・制度の問題や課題をうかがうこと、
 第三に昨年8月の福島協会との共催したいわき市・湯本での二胡コンサート・健康相談に引き続き、<音楽のプレゼント>として、岩手協会、宮城協会の協力を得てコンサート行うことでした。
 これは昨年10月29日と30日に協会日常診療経験交流会で震災・津波被害の報告された大槌町・植田医院・植田俊郎先生、陸前高田病院・石木幹人先生、亘理町・鳥の海歯科医院・上原忍先生との災害復興で何ができるかという話し合いの中でだされた中の一つを具体化したもので、植田先生、気仙沼市のある幼稚園の先生方、上原先生の協力で行うことができました。陸前高田病院では分散した仮設からの参加が困難でまた休日での対応が難しく石木先生と相談し次回の企画としました。
 訪問では、
 ①沿岸部の被災地の状況は依然として先の見えない中で変わっていません。大槌町、陸前高田、気仙沼の市街地中心は礎石のままで水につかったところも多く、地域をどこにどのように再建するか難しいことが感じられました。また震災前から人口減のつづく地域での医療過疎は厳然とありその実際を明らかにしていく必要があることが分かりました。たとえば気仙沼市は耳鼻咽喉科は市立病院だけで開業医は1軒もないことを訪問して初めて知ることができました。
 ②一方その中にあって、仮設入居の人たち、ボランティア、地域医療に直接関わる医師たち、仕事を作り上げていく人たちに被災からの再建の力強さを感じました。普段の毎日の会話・つながりを大切にしながら今後を探り、ありとあらゆる文化的な企画を打ち出して孤立しないとりくみ、仮設の人々のふれあいの機会を「できることは何でも」と明るくつくり続けている仮設内のセンターの人たち、行政への粘り強いはたらきかけをしながらしなやかにネットワークを駆使し情報発信しながら高齢者への弁当の宅配も行いながら仮設住宅を自主的訪問しているボランティアの人たち、医療や介護につなぐべく看護訪問のボランティアスタッフ
 ③<音楽のプレゼント>には仮設住宅の方々やボランティアの人たちから「クラッシックの音楽を生で聴くことは久しくなかった」などとの声を聞き、阪神淡路大震災を思い出しこれからも被災地との多彩な文化的なとりくみを通して共感と交流をすすめることの大切さの手応えを感じました。
 ④被災地での訪問はそれだけに終わるのでなく被災地の人々・参加したものどうしの共同の実際的なとりくみを通して今後にわたる人間関係がつくり上げられていくことが大切と考えます。その肌身で伝わる感情の拡がりが今後起こりうる災害に身近な人たちを思い浮かべての人間的な共感で関わることのできる精神的な支えにもなると思います。このたびの被災地訪問もわずか48時間でしたが被災地の人たちとの今後にわたる人間的関係とその手応えを持つことができました。また訪問したクルーの一生お思い出としての関係もできました。
 ⑤このたびの災害ではその復興は明らかに長期にわたるものですが、それだけ人間的な交流のあり方はそれを超えるものが求められ、それを存分に超えたものにしていくことが大切なのではないかと思います。何らかの形での被災地訪問とその交流が今後もあちこちですすめられていくことが大切と思います。とりわけ阪神淡路大震災の経験を身近に持つもつものとしてのかかわりの可能性を考えていきたいと思います。

今回の被災地訪問の日程・メンバー・内容

日程7月14日(土)~16日(月・休)
メンバー八木秀満(ギター)、清水映二、広川恵一
長谷川眞弓(ソプラノ) 轟木裕子(ピアノ)
黒木直明、楠真次郎(協会事務局)
内容
7月14日(土)伊丹16:00集合
伊丹空港16:55→いわて花巻空港18:20→レンタカー→遠野市19:45
翌日からのスケジュール・内容・意義について打ち合わせ
7月15日(日)【午前中】
遠野7:45→大槌町・植田医院9:00→懇談→和野っこハウス9:30
大槌第5仮設・和野っこハウス・ライフサポートアドバイザー 森田礼子さんから状況をうかがう
会場設営9:30開始→コンサート&健康相談10:30~1130
【午後】
和野っこハウス11:40→陸前高田旧県立病院跡地13:10
旧県立病院跡地13:20→(昼食20分)→気仙沼反松公園仮設住宅14:15
反松(そりまつ)公園仮設14:20→赤沢牧沢テニスコー仮設14:30
ボランティア 村上充氏・仮設入居者・看護ボランティア 岸田広子看護師から状況をうかがう
健康相談14:30~15:20→反松公園仮設15:30
会場設営14:30開始→コンサート15:30~16:30
村岡正朗医師から状況をうかがう15:40~16:30
【夕方】
反松公園仮設17:00→(一関・東北自動車道)→仙台19:45
【夜】
宮城協会・北村龍男理事長、井上博之副理事長、鈴木事務局長から現状をうかがう20:00
7月16日(月・休)仙台7:45→鳥の海→鳥の海歯科医院・上原忍先生9:00
鳥の海歯科医院9:10→亘理町公共ゾーン仮設住宅9:15
上原先生夫妻はじめ仮設入居者の方から状況をうかがう
コンサート会場設営開始9:15→コンサート10:30~11:30
上原先生夫妻案内で<かとうや>12:45~12:50・鳥の海ふれあい市場13:00
長谷川さん・轟木さん、中浜小学校先生の案内で旧校舎訪問12:00~14:00
仙台空港14:00集合 仙台空港14:45→伊丹空港16:05

 今回の企画の具体化は昨年10月29日の日常診療経験交流会プレ企画<被災地の医療を語る>で話し合われ、1月7~9日の被災地訪問での現地への打診から始まり、6月2日の参加者のの打ち合わせ会議から具体化に向けて意見交換をすすめました。企画段階では ①訪問先を確定する、②現地の人たちから現在の課題についてうかがうこと、③協力を得られる仮設でのコンサートをできるだけ行うこと、④移動には無理がなく・事故がないよう細心の注意を払うことでした。
 八木・清水・広川・黒木はこれまでの現地訪問で地理的な関係・移動に要する時間的感覚はつかめていてそれをもとに旅程をつくり、現地でのコンサートの設定・日程調整はすべて黒木が窓口となり現地と相談し、気仙沼は長谷川さん・轟木さんたち音楽家連盟が震災以後支援活動を通じてもたれていた関係で現地での協力を得ました。移動は楠がほぼ全行程を安全運転で担当し写真記録とコンサートの協力にあたりました。移動に車中での時間を要し設営も含めた演奏もあるため初日は遠野で一泊し無理をさけ15日全日と16日の午前に集中できるように工夫しました。

1、遠野-「魂」のこと
 被災地の課題で大切なことに「犠牲になった人たちのことを忘れない」、「悲劇を忘れないで語り継いでいく」「風化させない」ことがあります。阪神淡路大震災では多くの方の検死にかかわりました。中学校の技術の教室の机の上の高校2年生の男子で泥まみれの遺体に対面したとき、「この子はその前日まで考えることもなかった」と思い、「この子の思い(魂)が浮かばれるとするならそれはどういうときか」を考え、その後の私の被災地医療の原点になりました。
 こちらから東北の被災地には土曜日午前の診療を終えて向かうと夕方から夜にかけての到着になります。数回の被災地訪問の中で初めて遠野で翌朝からの活動に備えて宿をとりました。翌朝は小雨でしたが6時から7時前まで遠野の町中を一人で歩きました。宿舎のすぐ裏手が遠野市博物館で今年が柳田國男没後50年ということで特別展<柳田邦夫の生涯>(6月9日から9月30日まで)が開かれており、もちろん時間も早く時間もないので入館は出来ませんでしたが、「亡くなった人たちの魂の行方」を問う柳田民俗学に訪問の初日に触れたことにはっとしました。津波・地震で予想もしない死を遂げた人たちの魂をどう自ら感じかかわるかは大切なことで、東北の文化や伝統の中にこの災害を乗り越えていくものがあると考えます。宮沢賢治のイーハトーブ・<グスコーブドリの伝記>その思想もその一つになるのではと思っています。あえて言えば「思いをとらえる想像力」といえるかと思います。昨年1月、協会西宮芦屋支部・協会から出した<阪神淡路大震災の経験と記憶を語り継ぐ/被災地での生活と医療と看護/避けられる死をなくすために>(クリエイツかもがわ)の表題にはまさにこの思いが込められています。


2、岩手県大槌町・和野っこ(わのっこ)
大槌町・植田俊郎先生の仮設診療所で

 大槌町では植田俊郎医師が仮設診療所で待っていただいていました。これから災害医療で来られていた長崎の先生が来院されるとのことでした。植田医師から「被災地をみてどう思われますか?」と問われ、地盤沈下して浸水域が残りまだ礎石だけの市街地の様子から「一言で言うと・・変わらない・・ですね」と答えると「その通り、ほんと変わらないです(確かに一部変わってきているのもありますが)変わりませんね」とのこと。まちの再建をどのようにするかが定まらない中では変わりようがないと思います。沿岸部には戻りたくない人たちも多く、高台での現在の仮設設置の状況を見てもおそらく分散は避けられずもとあったコミュニティも大槌の文化も維持か困難となると思います。きわめて難しい問題です。
 しかし彼の答えの中に必ず新しい展開が起こることの手ごたえを感じました。というのは昨年10月の日常診療経験交流会で、「先生を被災地医療に突き動かしているものは何か」とうかがった際に、「私はまちの人間で、まちの人たちに食べさせてもらっているのです・・」と答えられたのが印象的で、また大槌町は医療過疎の地で、それだけに診療所と病院の関係・連携はよく、開業医どうしのつながりも深いとのことで、弱みを強みに変えている逆転の実践がそこにあるわけで、「あれもないこれもない」の被災地での不便を乗り越える住民視点での逆転の発想を感じたからです。
 大槌川にそって上流にある大槌第五仮設の中にあってコンサート会場となった<和野っこ>は、社会福祉協議会で運営されています。カフェを常設し、①相談対応・見守り支援、②入浴が困難な方への入浴サービス、③地域の方々が趣味活動や健康維持活動などを行う場の提供、④関係機関と連携した介護予防教室等の開催、⑤障がい者の方、健常者の方が共に活動できるようなイベントの開催といった、さまざまな活動をしていきます。
 ここでライフサポートアドバイザーの森田礼子さんほかスタッフの方からうかがうことができました。この仮設住宅は422世帯分あり、うち357世帯入居。独居高齢者52世帯、高齢者二人暮らし34世帯、高齢者同居68世帯。直接のサポートは行政が企業に要請して派遣されている地域支援員が行っています。大槌川、小槌川それぞれに沿って使える土地・できるところからか(聞いた限りではわかりませんでしたが)仮設につく番号は地図上では規則性がみられずこの大槌第五仮設A~Eは大槌川に沿って一番奥に位置します。【参考:大槌町ホームページ 応急仮設住宅マップ(PDF)
コンサートには30人が参加し、楽しいひと時を過ごした

 ここでのコンサートは<和野っこ>スタッフの全面的協力の中での30名の参加でとても楽しい1時間となりました(コンサートプログラム(PDF))。健康相談はなかったですが、この集いそのものが「健康を支える会」になりました。健康相談の名をうつのでなく自然な日常生活をうかがう中で役割は果たせるものと思いました。昨年8月いわき・湯本での健康相談では「離れている子供達に福島に帰ってきていいと言っていいのでしょうか」という女性からの重要な質問は健康相談でなく会場での自然な話し合いの中で出たものでした。

3、仮設の状況・温度差
 会場で気分不良の人がいたので声をかけると「いいんです・・、いいんです・・」とのこと。森田さんによると、この地の人は「いいんです・・いいんです」と言って耐えてしまうところがあってまた何かを要求して率先してされる機会が少ないですとのこと。この仮設住宅はまだ自治会が作られておらずその中で生活援助員やライフサポートアドバイザーがその支えの役割を果たしています。
 医療機関や生活上での移動の足が気になりますが和野地区と県立釜石病院を結ぶ県交通バスと町民バスを使っての本数は平日1日5本(午前6時台~午後6時)・土日祝日は3本(午前8時台~午後3時台)で所要時間は1時間あまり。仮設大槌病院外来までは平日6本(午前6時台~午後6時台)・土日祝日は3本(午前7時台~行き午後5時台・帰り午後3時台)で10分。かなり限られています。
 大槌町は被災地域全体がそうであったのですが震災前から高齢化・過疎化で人口減少がすすんでいたところで、沿岸部の復興の見通しが立たない中でさらに人口流失は著しく、もともとの人口が16000名のところ津波での死者・方向不明者1300名近くでほぼ1割でした。現在は5000人の人口減があると聞きます。転居先は北上、遠野、花巻で、花巻が一番多いようだとのことでした。
 このような中でもおなじ東北の中で被災の受け止め方に違いがあると聞くとのこと。森田さんは「でも私は楽天的なのですよ」と言いながら語る明るさに復興の一つの鍵を見いだしました。沿岸部と内陸、太平洋側と日本海側、東北と関東・北海道、東日本と西日本。もし思いに差があればそれを最少にすることが大切となります。「被災地に集まって知恵を出し合おう」という言葉があるように、お互いが身近な関係であることがより自らの問題として受け止めることができると考えます。お互いがさまざまに情報共有・共感の中で身近な関係になっていくことが大切な一つだと思います。
 
4、陸前高田・国道45号線 
 和野っこでコンサートを11時半に終えてすぐ陸前高田病院跡地を経て気仙沼へ。陸前高では旧県立高田病院を訪れました。周辺の瓦礫の山が幾分移動されたくらいで地盤低下のため浸水域はこれまで訪問した時と変わらずの状態でした。いま手元に石木先生から送ってもらったばかりの<保存版写真集-未来へ伝えたい陸前高田>という写真集があります。その見開きに海から眺めた被災前の陸前高田の写真を背景に書かれた詩

「おらぁ やっぱり こごがいい
大津波で全部なぐなっても
地震でぼっこっこされでも
やっぱ この街が好ぎだ
やっぱ こごに居だい
こごぁ 一番だ
二度と同じけしぎぁ見れねぁども
二度と同じ建物ぁただねぁども
おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる
わっせるごどねぁ あの景色
おらどの街
やっぱり こごがいい」

この思いに胸がうたれました。
 自分たちの思いでなく、被災地の人々に受け入れられ、人々の思いや暮らしを聞かせていただき関わらせていただくことがわれわれにできる復興につながるひとつとつくづく思います。 
 国道45線は青森-仙台間の主要道路です。このたびは釜石から気仙沼を通りました。訪問する度に思うことですが、どうしても東北自動車道・東北新幹線・花巻空港と沿岸を結ぶ距離が長くレンタカーの使用が必要で、冬期は積雪でいっそう移動が困難になります。国道45号線そのものと花巻、一関とこの沿岸の国道を結ぶ公共交通機関の充実が被災地の復興を支える一つになると思います。大槌から石巻にいたる道路に沿っては1~2軒ほどのお店があるばかりです。地元に負担になるだけの単なるハコモノは不要ですが公的な責任で地元の産業を紹介し前向きに人を受け入れ・人の移動を支えること・交通網の整備の大切さが被災地を見て思うことの一つです。

赤沢牧沢テニスコート仮設で仮設住宅の状況を詳しく聞いた

5、宮城県気仙沼・反松公園仮設住宅・赤岩牧沢テニスコート仮設
 気仙沼訪問では、現地で対応いただくことになった村上充ボランティアとその数日前から事前を打ち合わせを始めました。おもに仮設住宅の状態と健康問題です。またその前日、まだお会いしたことはないのですが山梨県の牧丘病院・古屋聡医師から「訪問されることをお伺いしたので」とわざわざ電話をいただきました。彼は2週間に1度現地を訪問されていて、現地の状況を詳しく教えていただき、「何か困ることがあればその場でいつでもお電話を下さい」とのことでした。こういうネットワークはきわめて人間的でありがたいものです。おかげで現地で担当された村上さんとも旧知の関係のように打ち解け速やかな訪問をさせてもらうことができました。
 その反松公園住宅仮設は宮城県気仙沼市上田中の反松公園にあり96世帯あります。村上さんに自治会長さんを紹介してもらいましたが、自治会長さんが全面的に村上さんを信頼しているのが手に取るように分かりました。ここでコンサートを午後3時半から。その設営の間、村上さんと赤岩牧沢テニスコート仮設に。ここは55世帯の仮設で36世帯が高齢独居。入居の7割の人が高齢者です。入居は抽選で決められたのでお互いに顔見知りのない仮設となっています。世話役をされているうちのお一人があまりにいろいろなことがあって言葉でできなかったのだと思いますが「やはり人間関係が何につけても大切です」と繰り返されていたのが気になったことです。ここは街の中心から離れた山中にあるテニスコートで気仙沼市民病院から4-5kmの所にあります。車がないと移動が困難で、仮設住宅敷地では道路に出るための迂回路はあるものの階段は手すりがなく足の不自由な方や高齢者には危険です。行政からは予算の問題とのことで手すりの設置はできず、市の財産なので勝手に手すりの設置は禁じられているとのことでした。
 ここではボランティアナースと一緒に2人の健康相談を受けましたが見通しのない中での閉塞感を感じました。先に触れたように気仙沼人口72000人から65000人で市民病院を除いて開業の耳鼻咽喉科がありません。現実的には他科がカバーしているとしても医療過疎の現実を被災地を訪問して初めて心に染みて分かることがあります。
気仙沼市で開業する村岡正朗先生から
災害時に医療を守るための経験と教訓を伺った

 反松公園仮設に戻り村岡正朗医師に会いました。彼の書かれた月刊保団連2011年10月号の特集<避難先でも、医者だった-被災から2日間の記録>は事前に目を通していましたが、震災・津波で避難所となった救護所・訪問診療ボランティアでの医療と先の見えない中での自院の再建と大変なとりくみをされたことを感じました。患者の窓口負担免除の必要性は患者を守り地域医療を守る上でとても大切なことであると指摘されました。これは17年前の阪神淡路大震災でもまったく同じことでした。医療機関再建について行政が助成金について当初提示したのはもとの地に建てることを条件としたことなど現場を見ず時間的にも内容的にも実情にそぐわないものであったことを指摘され、宮城県保険医協会発行の<2011.3.11あのときを忘れない-東日本大震災-活動の記録>で、先が見えないことでの政府の無能さを感じられたこと、「高齢化約30%、医師数115.3人/10万人のこの地域でおきた震災による医療の停滞は、日本の地方都市で今後徐々に起きるであろう状況が急激に顕在化したと思っています。この地域の医療を含めた再生は今後のモデルケースにもなりうるのではないでしょうか」と述べられており、ここに被災地に関わらせていただくわれわれの課題があると思います。
 コンサートは30名の参加で楽しく集合写真を撮って終わりました。その帰り最後まで見送ってくれた村岡医師と村上ボランティアが仮設の人が親しく話しをされている姿に地域医療を担っている医師と心強いボランティアの姿を見ました。


6、仙台・宮城協会での懇談会・窓口一部負担金減免のとりくみ 
 気仙沼の仮設でのコンサートを終え午後5時に出発。午後8時前に仙台に到着。午後8時から北村龍男宮城協会理事長・井上副理事長・鈴木和彦事務局長と八木、清水、広川、黒木、楠と保団連新聞部から取材に当たった長田逸生事務局員も参加して懇談しました。内容は多方面にわたりましたが、被災地の問題では窓口負担免除の延期が必要と言うことでした。宮城協会の会員へのアンケート(回答156)と通院患者に対する「医療費自己負担免除アンケート」(回答794)を行い、負担金免除で医療機関にかかりやすくなったが78.2%。そのうち免除される前は我慢していたが31.2%、回数を控えていたが59.9%だったとのことでした。会員アンケートの自由記載欄では「仮設での生活の落ち込み」「やっと通院する気になった被災者」「仮設で何もする気にならない」「食べてテレビを見て、私でないみたい」などみられているとのことです。なんとか減免措置の継続が続けられるよう運動をしていく必要があると話しあいました。
 9月末での被災地での患者負担免除打ち切りは十分な医療が行えなくなり地域・医療の復興の深刻な停滞が予測されます。保団連も今月12日、被災前の生活に戻るまで窓口一部負担金免除措置を延長し国が財政措置を講じるよう緊急要請を行っていましたが、厚生労働省は7月24日、東日本大震災で被災した国民健康保険加入者らの医療費自己負担分などを免除措置について、9月末で期限を迎えた後も既存制度を活用して負担軽減を続けることを決めたという報道が入りました。国保や介護保険の保険料軽減も継続するとのことですが、医療費などの減免に必要な費用を国が全額負担する現行措置は見直して国保を運営する市町村に減免費用の最大8割を支給するということで、国の財政措置とはならないことでこのままでは自治体の負担が大きな問題となると考えられます。

7、宮城県亘理町・公共ゾーン第三集会所 
 亘理町は仙台市から南に26km、仙台空港から南に車で15分ほどの位置にあり果樹・花卉栽培や特にイチゴの東北一の産地です。阿武隈川河口の海浜部には汽水胡の鳥の海(とりのうみ)があります。津波で沿岸部300名の方が亡くなりました。イチゴ農家380戸のうち356戸が津波被害を受け塩害で数年間イチゴの栽培が危ぶまれていましたが、今回の訪問では車窓から被害の少なかったところからイチゴ栽培が行われているのが分かりました。
 今回コンサート会場の準備や案内にはチラシや地元FM放送での紹介などで鳥の海歯科診療所の上原忍先生に全面的にお世話になりました。田んぼの中に建てられた公共ゾーンと名付けられた町内一大きな558戸で約2,000人が入居している仮設住宅があります。公共ゾーンでは、建設された順に第1、第2、第3集会所と分かれ、その中でも最も戸数が多い第3集会所(計256戸)でコンサートが行われました。張り紙や案内チラシもたくさんありさまざまなコンサートやイベントが行われています。
 会場の設営は集会所の世話人の人たちやみんなで寄ってすすめ、電子ピアノの搬入も予定通りで、リハーサルから賑やかで、コンサートは50名の参加で盛り上がりました。宮城協会はコンサート・健康相談の後援で鈴木事務局長が参加してくれました。保団連からは長田事務局員が取材にあたりました。
 仮設の外は風がやむとアスファルトの敷地の熱気がこたえますが、田んぼから風が仮設住宅に吹くと意外に涼しく、クーラーを回している住宅も余り見かけませんでした。田んぼでは網を持って虫取りをしている母親と子供の姿もみられました。集会場の外にも風に乗って音が流れ不思議に子供時代の懐かしさを感じました。

 
8、ふるさと復興商店街・<菊一>商店 
 仮設の一角に30軒近くの荒浜地区商店街の人たちが再開した東郷地区仮設施設・仮設店舗「ふるさと復興商店街」があります。郵便局やパーマ屋さん、鍼灸院、鮮魚店に惣菜屋さんなどなどあります。設営の合間の時間をみて私が入ったその仮設店舗の中に<菊一>というコロッケの店があります。5~6人の女性が窓から見える調理室で生き生きと働いてられて、お店自体はテーブル1台だけでコロッケ1個70円。揚げ物中心でアルコールはおいてありません。店長さんに聞くとスタッフは一人除いてみな津波で家を流されたとのこと。亘理町では仮設の妊婦さんに仮設だけで使える週1000円のクーポン券を支給しており、妊婦さん達がそのクーポン券を持ってコロッケなどを買いに来てくれるとのこと。あちこちから話しを聞いて仮設内外から買いに来てくれる人たちや、近くのデイサービスの職員さんがまとめて買いに来てくれるのでとやりがいがあるとのことでした。とてもおいしい気合いの入ったコロッケでこれからの復興の励みの一つの場所となることと思います。ほかのお店の紹介はできませんでしたが力づよい復興の一歩を感じました。

9、中浜小学校・手打ちそば専門店<かとうや> 
 コンサートを終えて長谷川さん、轟木さんは中浜小学校の先生に被災地と中浜小学校の案内をしてもらうことになりました。海岸から300mの所にあった中浜小学校は一旦は体育館に避難するも校長の判断で全生徒が2階建て校舎の屋上にかけ上がりその結果全員が助かったところです。校舎が全壊したことでいまは坂元小学校で授業されているとのことでした。
亘理町<かとうや>前で
鳥の海歯科・上原忍先生らと

 われわれは上原先生の奥さんの友人がこの7月8月に阿武隈川の堤防に沿った荒浜に再開・開店したばかりの手打ちそば専門店をすすめてくれました。名前は<かとうや>。
 河北新報によると、元の名前の加藤屋は地域の人々に親しまれ80年前から営業していたのですが津波で1.7m浸水。店主の磯田俊一さんが修繕して昨年末にようやく再開したその3週間後に製麺機に巻き込まれて急死。「この場所で生きたかった父の意志を継ぎたい」と娘さんの磯田美恵さんが、父の死を招いた機械には抵抗があり、大学時代の友人を誘い手打ちそば店での再開を決意。最初反対した母親の磯田恵子さんも根負けして店が守り続けた味のつゆ作りと花番を買って出たとのことです。荒浜では自宅を再建した人たちが少しずつ戻りはじめ、先に触れた仮設住宅の人々も多く、一方営業を再開した飲食店はまだわずかで「地域の方が再び集まって交流を深める場にしたい」のこと。
 店主の美恵さんに店の真正面にある6.2mの阿武隈川の堤防に案内してもらいました。この堤防は国交省が津波防災のため1mのかさ上げを計画。のり面にある県道の拡幅がされると今の場所は立ち退きになるとのこと。このままでは街並みがなくなってしまうこの計画に反対する美恵さんは「さまざまな困難に『勝とうや』の思いを込め」、屋号を<かとうや>としたとのことでした。
 亘理を訪問されればぜひ<かとうや>に。

10、鳥の海ふれあい市場
 <かとうや>から空港に向かう道で偶然<鳥の海ふれあい市場>を見かけました。昨年の12月23日にオープン。土日の営業で限られますが地元の季節の野菜や鮮魚、ジャムなどの加工品など仮設住宅の人たちがつくった竹かごやストラップなど。こういった所での品物はお土産などにして手渡すと被災地とその人の気持ちを近づけるものになります。地元での交流や活気がたかまりや被災地を訪れる人たちとの交流のいい場所になると思いました。お店の人の感じもよく亘理の街を少しでも復興していこうという気持ちにあふれていました。そういった気持ちにぜひとも応えていきたいと思います。

11、コンサートについて
 ソプラノの長谷川さん、ピアノの轟木さん、ギターと司会の八木先生の一見急ごしらえの演奏はは気も心も通ったものでした。お疲れ様でした。八木先生をプロの音楽家と思っていた人も多く「産婦人科の先生ですよ」と言ったら驚いている人たちがいました。
 「クラッシック音楽をつい身近に聴くことがなかった」と感想をうかがいました。「元気をもらいました」「今日は一日幸せです」「また来て下さい」と楽しんでいただき、いつまでも見送ってもらいました。再建の励みにもなり、仮設内外の人達とのはばひろい交流もでき、参加された方々にとってとてもいい機会になったことと思います。肩を音楽に合わせて揺すり続けた人たちの姿を思い出します。
 今後もさまざまな形でのあらゆる分野で協会としてふさわしい協力ができればと考えます。

12、まとめ
 訪問先でお会いできた先生方はみなそれぞれ手応えをつかんでおられるのが感じられました。たとえば、上原先生は数ヶ月間の休診にも関わらず「医院の再開ではもとのスタッフ全員が揃ってくれた」など・・。普段の日常診療がそのまま返ってくることもよくわかります。
 被災地の訪問は復興の課題をその地に暮らす人達を通して教えていただき学び、さまざまな形で地域再建に少しでもつながる形で返させてもらうとりくみで今回も多く学ばせていただき今後のつながりも深まりました。その結果を協会活動につなげていきたいと思います。
 これは「被災地に集まって知恵を出し合おう」「被災地から招いて教えてもらおう」というとりくみの一つでもあり、こういったとりくみを通して少しでも共通の認識に高まっていくことが被災地の災害からの復興と今後この国のどこにでも起こりうる災害の防災・減災につながるものだと思われます。
 これからもより多くの協会会員の被災地訪問の機会をつくり現地で医療過疎の現実をみてその解決をともに考える機会を持つこと。仮設住宅住民の生活上の安全性・今後にかかわる内容を地元のボランティアに協力し、行政が行う施策に役立つ地域住民の自主的な地域のとりくみに協力する。地域の文化伝統復興に協力する。今回は訪問できていないが福島の課題を病院訪問などを通じて明らかにすることなど考えました。
 長谷川さん、轟木さん、八木先生、清水先生、黒木さん、楠さん、ハードなスケジュールおつかれさまでした。

2012/07/28 広川 恵一

2012年5月24日木曜日

現地レポート42 廣川秋子氏(看護師)より


 西宮市・広川内科クリニック看護師の廣川秋子氏から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
 同行した長光由紀先生(協会薬科会員 伊丹市・ウイング調剤薬局)の訪問記は現地レポート41を参照いただきたい。

東日本大震災から1年  
福島県南相馬市大町病院を訪れ看護師として感じたこと

 2012年3月21日、福島県南相馬市の大町病院を訪れた。大町病院は、前年に起こった東日本大震災と原発事故により、一時活動停止を余儀なくされるも同年4月4日いち早く診療を再開した病院である。猪又病院長、藤原看護部長より復興への軌跡というテーマで、震災後一年の経過を聞かせていただいた。
 大町病院はもともと188床を有していたが、2012年3月現在稼働しているのは3分の1の60床ほどである。その理由の一つには看護師が不足している実態がある。震災に関連する事象により不本意にも現地を離れなければならなかった看護師もいる。病院が稼働を始めたあと、看護部長はそういった看護師を訪問し復職を呼びかけたそうである。現実的に復職が困難な看護師もいたが、直接看護部長が足を運んだということからは、震災によってこれまで一緒に働いてきた関係が絶たれるものではないのだという強い結びつきを感じることができた。一方で、当初原発から30㎞という地点でその影響もわからない状況下、復職を呼びかけること自体に大きな葛藤があったことも強く感じる。
 現在看護師募集をかけている大町病院では、正規雇用の看護師だけでなく、短時間勤務・短日勤務の看護師も積極的に受け入れている。そこには切実な看護師数の不足とともに、柔軟な病院側の受け入れ態勢がある様子がわかる。震災直後より医師や看護師、地域住民、ボランティアなど多くの人が出入りし、病院が主体となって力を合わせてやってきたことが人を受け入れる態勢作りと自信になっているように感じられた。
 藤原看護部長はこの一年のエピソードを多くの人の写真や名前とともに話して聞かせてくれた。それぞれに疲弊した中で支え合って乗り越えてきた当時の状況と、これまでに築かれてきた他医療機関との連携と震災以降の新たなつながりをもって、看護師を含む様々な職種で各地から応援があり、またその経験や呼びかけが情報発信され応援の輪が広がっていく様子がまざまざと伝わってきた。津波の爪痕が1年経ても残る周辺状況からは震災以降の変化が感じられにくい一方で、この一年で病院が機能を回復してきた過程と、暮らしの中で刻々と変化してきた状況や思いを痛感することとなった。
 震災直後より患者移送に関しての手配や関連機関への応援要請、また病院再開への決断などにおいて、院長がトップダウンで現場を指揮されたことも、即断即決で物事を進めていかなければならない中で、トップが強く方針を打ち出すことが関わる多数の人間を結束させ同じ方向に導く基盤となっていたように感じる。そのリーダーシップがあったことは、個々の状況判断が求められる中でも、病院機能の回復という大きな目標の中でスタッフを孤立させずにそれぞれに役割と責任を与えることになったと思う。その役割を支持されることは、現場の看護師にとって周囲の状況が変化しても目の前の事象に集中して取り組むための土台となったのではないだろうか。
 震災によって既存の仕組みが破綻した状況下で、生命と生活を最優先に奮闘した大町病院は地域の病院としてその存在を示した。看護師は混乱の中で試行錯誤しながら臨機応変に目の前の事象に取り組み、その経験の積み重ねで柔軟な看護を作り上げてきた。多様な看護師の受け入れ態勢からみえる自信もこの経験によって裏打ちされたものだと感じる。大町病院はまさに実践を通して看護師が獲得した知恵や経験が生かされてきた現場であると感じた。今回の大町病院訪問を通して、看護は実践の中で獲得されていくものなのだと実感するとともに、その体験を伝えていくことも看護師としての役割であると気づいたことは大きな学びであった。
 この度貴重な時間をいただき震災一年の軌跡を聞かせてくださった猪又病院長、藤原看護部長に感謝いたします。

2012年5月19日土曜日

現地レポート41 長光由紀先生より


 協会薬科会員・長光由紀先生(伊丹市・ウイング調剤薬局 管理薬剤師)から寄せられた被災地訪問の記録を紹介する。
 同行した廣川秋子氏(西宮市・広川内科クリニック・看護師)の訪問記は現地レポート42を参照いただきたい。

2011年3月11日 東日本大震災そして福島原発事故
被災地を訪ねて・・2012年3月20日21日


 震災直後から兵庫県保険医協会の活動として被災地にかかわり現地の状況を伝えて下さった広川恵一医師の個人的な被災地訪問に今回同行し、板倉弘明薬剤師、廣川秋子看護師とともに、岩手県、宮城県、福島県の被災地を訪ねました。
 雪の積もる花巻空港から3月20日午前10時前レンタカーで出発。岩手県大槌町を目指しJR釜石遠野線と併走する国道283号線を進みました。その後遠野市から六角牛山(1293m)を頂く雪の峠道を板倉薬剤師の運転で雪ぞりに乗っているかのように下り、栗林小学校付近で初めての仮設住宅群を車窓に見て釜石市へ。県道35号線を進み大槌町へ入りました。
 川沿いの道から太平洋側へ。映像でしか見ていなかった津波で流された三陸海岸。多くの方々が生活を営まれていた町並みは消えてしまい、まだまだがれきの残る広い空間となってしまった海までの景色。言葉が出ません。阪神・淡路大震災の時は「復興」という兆しが見えていた一年目。一年が経った東北では、まだまだとても厳しい状態で被害にあった場所での家の再建などは難しいのだと感じました。
 午前11時40分ころ昨年10月開催の兵庫県保険医協会日常診療経験交流会にお招きした植田先生の旧医院あたりへ到着しました。22mもの高さの津波が押し寄せた地域のガレキの多くは片付けられていましたが、阪神・淡路大震災の時のようにアスファルトの舗装道がむなしく区画を割っているだけの復興とは程遠い状況でした。続けて高台の小槌地区に開かれた仮設の植田診療所を訪問。植田先生は墓参で外出されておられ、お会いできなかったのですが地域の患者さん達に必要とされている診療所は地元の方々の好意と支えで開かれたとのことでした。横にはきちんと仮設の調剤薬局も建ち、在宅訪問のための薬局の車も止まっていました。これからもこの地が先生方の地域のための医療拠点となるようでした。
 午後0時45分大槌町を出て、錆びた三陸鉄道の線路を見ながら国道196号線を陸前高田市へ向かいました。移動時間が長いので時間節約のため昼食は道の駅「さんりく」で調達した簡単なものを車中ですませました。午後2時過ぎに被災した県立高田病院に到着。パワーショベル車が3台だけ頭をたれて止まっていて人影は見当たりません。5階建ての病院建物はそのままの状態で、近くの5階建ての職員寮も4階まで津波に襲われた跡がくっきりと見えました。患者さんを守った屋上の機械室。寒さに耐えながら助けを待たれた屋上。震災の日にここで亡くなられた患者さん、職員のことを思うと建物のそばで涙が出そうでした。その後山あいに建てられ、ようやく病棟も稼働し始めた仮設の県立高田病院へ。コンパクトながら診察室が並び、受付・処方箋お渡し口・薬局へのFAX無料送信コーナーのそろった待合室。小道をはさんだ山沿いには門前薬局も2軒並んでいました。奥様を津波で亡くされながらも病院の医療チームを守り、地域のための診療を続けられた石木院長先生の気迫が伝わってきました。
 その日は福島県いわて湯本温泉で泊まるため東北自動車道より磐越自動車道へ。福島第一原発に一番近い29軒のホテル、旅館がある日本三大古泉として由緒ある温泉郷です。東日本大震災の影響で湯質が変わったり建物の被害があったとはいえ一番大きいのは風評被害で、お客様は来なくなり原発工事関係者が泊られるのみとなっています。その中で古く「シャボン玉」等の童謡で有名な野口雨情が定宿としていた「新つた」は震災時より広野町をはじめとして多くの被災者の方々を受け入れ避難所となっていました。福島保険医協会と兵庫県保険医協会は協力してその玄関ホールで健康相談を行い劉揚さんによる二胡コンサートを被災者の方々に楽しんでいただいた縁があったので今回宿泊させていただきました。訪問直前(3月17日)にリニューアルオープンされた「新つた」は、唯一の旅館として一般のお客様の受け入れを再開することを決め食事にも工夫を加え、逆境に立ち向かおうとされていました。到着時間を決めることができなかった為、夕食は原発事故被災の浪江町より避難されてきた人が手作りではじめた「浪江そば」のお店へ。案内して下さった「新つた」の女将さんの苦しい胸の内は温泉郷全体の声なき声を代表するもので地震被害だけでなく原発事故の地域へ及ぼす今後の影響の重大さを物語るものでした。特に他のホテル・旅館はまだ原発工事関係者の受け入れでなんとか維持されているところ、一般客への営業再開を果たした女将さんの一番つらい点の一つだと感じました。
 翌21日 女将さんと別れを惜しみつつ、市内の常盤会病院訪問へ。震災時には透析患者さんをいち早く新潟県の病院へ搬送(「新つた」も依頼を受け搬送時の布団を提供された)して、水不足の危機を逃れ、事なきを得たそうです。今回訪れるとりっぱなPET透析センターができていて、患者さん達が多く受診され地域の支えとなっていると感じました。原発事故の影響がなければ温泉地として賑わっていた町、いわき湯本。どうなっていくのでしょうか。JR湯本駅近くの化石館(残念ながら月1回の休館日でした)の前には恐竜像が立っていて石炭を過去のものとして原子力発電に向いてしまった人類を笑っているかのように見えました。
 その後 原発事故の警戒区域にかかるため国道6号線が通れたら30分ほどで行ける距離を、わざわざ東北高速道路経由で大きく迂回し3時間近くもかけて大町病院のある磐梯山を望む南相馬市へ入りました。途中放射線の影響をさけて全村避難をしている飯館村を通過。沿道の家々の窓のカーテンが全て閉められ、人っ子一人見かけない村はのどかな高原風景の中、物悲しいものでした。途中では村を守っている警官とポニーを一頭見かけただけでした。この地に再び村民の方々は戻ってくることが出来るのでしょうか。
 ようやく到着した大町病院ではお忙しい中、猪又院長と藤原看護部長から震災時の病院の様子、その後のボランティアの皆さんの活躍についてプレゼンテーションをしていただきました。原発事故の影響で避難された多くの方々には看護師さんも含まれ、現在震災前の約半分の人員で業務を行われているそうです。震災翌月に業務を再開すると猪又院長が決断されたおりには、全ての物資の流通が滞っている状況でした。患者さんへの薬の提供にあたり、以前より連携されていた地域の薬剤師と協議され医薬品確保の為の卸業者さんの流通も考えて7日分ずつ院外処方箋を発行するということで再開されたそうです。しかし同地区の他の病院がそれぞれの門前薬局が震災の影響で閉店したままだったのに、同じ日に28日分処方の院外処方箋発行をはじめたため大町病院前の薬局に処方箋が集中し、全ての患者さんに薬を渡すのに深夜までかかるという大変なことになってしまったというお話をうかがいました。それをきっかけとして地域全体の薬局薬剤師との交流がより深まり、現在も地域の住民もまじえ色々な行事を開催しているということでした。医療の地域貢献には全ての医療に携わる職種の方々の協力なくしては成し遂げられないということを実感しました。そして地域の患者さんではない住民との交流も盛んに行われ、支えていただく体制を作っていく大町病院の底力を見せていただきました。
実は南相馬市の沿岸部は津波でも被災しています。大町病院の介護施設「ヨッシーランド」は入所者の内36名の方々が亡くなり現在も1名の看護師が行方不明だそうです。まだ建物がそのままで中を見せてもらいました。付近は砂浜のようになってしまい 風が吹き荒れ砂塵が舞っていて窓ガラスのなくなった窓からカーテンがむなしくバタバタと手を出しているようにはためいていました。多くの花束が今もたむけられ、わずかな違いで運命を分けた自然の威力に言葉がありませんでした。
 「相馬野馬追」祭りが開かれる時にはその沿道が多くの観客で埋まっていたという国道を仙台へ。途中の店で聞くところによると今までは地元産の牛乳使用ということで人気だったアイスクリームに北海道産牛乳使用と掲げないと売れないと嘆かれていました。たとえ放射線の数値が下がったとしても原発事故による地元の方々の苦しみは癒えないままです。途中盛り土の上に作られた自動車道の右と左では全く違う世界が広がります。海側は津波に襲われた水浸しの世界、山側はのどかな田園風景。非情な運命はなんと表現すればよいのでしょうか。この盛り土が偶然防波堤となったのでした。仙台空港では返却に寄ったレンタカー営業所のスタッフがつぶやかれました。「自然はすごい、潮水につかったのに仙台空港のまわりに今年も緑の雑草が生えてくる。」と。地球の上では短い人類の歴史、もっと長く生き抜いてきた生命である植物にはかないません。
 今回駆け足での被災地訪問でしたが、今後の人生を塗り替えるほど激しく気持ちを揺さぶられました。人間としてこれまで以上に強く生きていき、発揮できていない力を精一杯振りしぼらなければならないと実感しました。また医療者として多くの方々と手を取り合い、弱い立場の方々に手を差しのべることを長く続けるよう努力していきたいものです。
 最後に この機会を与えて下さった広川先生、全行程を運転して下さった板倉先生、ずっと一緒にいて下さった廣川秋子さん、ありがとうございました。

2012年3月28日水曜日

談話

東日本大震災から1年
支援続け、教訓生かそう
兵庫県保険医協会
理事長 池内 春樹

 東日本大震災から1年が経過しました。震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、仮設住宅にお住まいの皆さまや県外へ避難されている皆さま、全ての被災者の皆さまに、兵庫県保険医協会を代表して心からのお見舞いを申し上げます。協会はこれからも、全国の先頭に立って皆さまを支援させていただく決意です。
 昨年10月、岩手県陸前高田市を中心に被災地を視察させていただきましたが、がれきの処理もままならない状態でした。仮設住宅も訪問させていただきましたが、簡単な基礎の上にプレハブ住宅を乗せている構造で、余震や冬の寒さには不十分に見えました。
 避難所になった高台の中学校では、子どもたちが草花を植えているのが印象に残りました。3月は卒業式の季節です。あの草花は北国の寒さに負けず咲いているのでしょうか。
 阪神・淡路大震災でもそうですが、被災した子どもたちが笑顔を取り戻し、ふるさとを再生していくことが復興の要です。子どもたちがふるさとを誇りに思うように自然や歴史を教えましょう。
 阪神・淡路大震災では全国からボランティアが集まり、「ボランティア元年」と呼ばれました。個人補償はしないという国の厚い壁に、みんなの努力で「被災者生活再建支援法」という風穴をあけることができました。
 しかし、孤独死や借り上げ住宅からの追い出しなど、17年たってもコミュニティーを再建する復興は道半ばです。「創造的復興」などではなく、一人ひとりの住民が再生できる人間復興をめざしましょう。
 東日本大震災では、地震だけでなく巨大津波や原発事故が発生しました。医療支援では、兵庫県医師会を中心とする医療支援チームが活躍しました。地元では、高台に新築移転していた石巻赤十字病院が大活躍しました。協会も、地震発生直後から今日に至るまで何度も被災地へ医療支援に入らせていただきました。
 今後起こるであろう東海・東南海・南海大地震への教訓として、津波対策や原発対策は重要です。兵庫県は、県立こども病院をポートアイランドへ移転しようとしています。県立淡路病院も、現在地より海沿いに移転させます。
 関西電力の福井の原発群が放射能漏れを起こせば、近畿の水がめ琵琶湖が汚染されます。子どもたちの未来を守るため、こども病院の現地建て替えや脱原発の世論を広げましょう。