2014年6月4日水曜日

現地レポート51(1)

東日本大震災 現地レポート51(1)
現状を知り、思い新たに

 兵庫協会は4月27日〜29日、東日本大震災被災地である岩手県野田村・田野畑村・陸前高田市・宮古市、宮城県気仙沼市・亘理町、福島県南相馬市・いわき市・飯舘村を訪問。兵庫協会から川西敏雄副理事長、広川恵一・白岩一心両理事、松岡泰夫評議員が、保団連から住江憲勇会長、京都歯科協会から平田高士理事・浜辺勝美事務局長が参加した。被災地では、福島協会の松本純副理事長・菅原浩哉事務局長、宮城協会の北村龍男理事長・鈴木和彦事務局長に案内いただいた。参加した松岡先生のレポートを掲載する。

現地の方々の心境知る
長田区  松岡 泰夫

 26日の夜遅く、医師2人、歯科医師2人、同行事務局2人が八戸で合流し、27日早朝に野田村へ向かいました。視察用のレンタカーの車内で簡単に結団式を済ませました。村役場では、小屋畑勝久教育次長に震災当時の様子や復興状況の説明を受けました。ここは津波に何とか持ちこたえ、その後の「救援の司令塔」としての機能を果たせたようです。5千人弱の小さな村故に、「顔の見える関係」が日ごろから築けており、連絡が密にとれ、村民の要求が早く実現しやすく、仮設住宅からの恒久住宅への移転も70%完了しているとのことでした。ほかの町村に比べ生活復興が非常に進んでいると感じました。
野田村役場前で小屋畑教育次長と

















 次に田野畑村民俗資料館に寄り、圧政の続く盛岡藩に反旗を翻した「三閉伊(さんへい) 農民一揆」について学習しました。行政が主体となり「一揆」の学習をさせていることに本当に驚きましたが、ただ決して幕藩支配体制を覆すことを目的としていないところが日本的だと感じました。しかし、東北人の我慢強く、粘り強い気質だからできるのだろうなと勝手に納得しました。
田野畑民俗資料館

















 その後、元「開拓保健婦」の岩見ヒサさん(96歳)を訪問しました。岩手地方の開拓団は苦労も多く、特に妊婦や子育て中のご婦人たちに負担が大きかったようで、医学衛生面での彼女の指導は、かなり効果があったと思われます。
 大阪生まれのヒサさんは「短歌」を通じて知り合った「胸を患っている」と自ら告げた男性と、その一途な愛ゆえに結婚。しかし、その夫を戦後すぐに病で失い、さらに一粒種の可愛い長男とも、白血病で死別してしまいました。生きる気力を失っているときに、ふと「他人の幸福のために自分が生きること」、「生かされることの大切さ」に気付いたとのことです。岩手の山村の自然の美しさに魅了され、亡き夫の親戚にあたるやさしいお坊さんの岩見対山さんと結婚され、開拓農村で活躍されたとのことでした。
 地域の女たちだけでお産をしていた環境で、経験ある助産婦であるヒサさんへの信頼感は増すばかりだったことは想像に難くなく、戦後すぐは回虫症が蔓延しており、持参していた「特効薬サントニン」を少なめに使ったところ、たちまち名保健婦として名声を誇るほどになったとのことでした。
 ヒサさんは、昭和30年代に「原発誘致」の話が持ち上がったときに、「原発反対」を説く広瀬隆さんの本を読んで、愛すべき郷土に「危険な原発」は不要と反対したとのことでした。当時、村の予算が5億円で、35億円のお金が降って湧いてくるとの電力会社等の「甘言」があったようで、男性陣はもろ手を挙げて賛成されたようです。彼らに原発の危険性や、一度事故を起こしてしまうと取り返しがつかないことなどをじっくりと語り、もしくは広瀬さんの本を無償で送り読んでもらったようで、結局岩手には原発が作られませんでした。
 ヒサさんは、高齢ですがとてもチャーミングで、表情豊かに、時には悲しそうに、時には満足げにお話しくださりました。彼女と交流ができ、参加したかいがありました。
岩見さんをかこんで

















 南下して、陸前高田市の地域交流施設「朝日のあたる家」で笑顔の可愛い行本清香さんと交流しました。津波で押し流され、何もなくなった更地に建てられており、地域活性化の拠点としてはあまりに小さいかもしれませんが、その志は輝いておられました。被災地域で何とか皆が集える共同スペースづくりに努力されていることに共感・感動しました。
朝日のあたる家で行本さんと懇談

















 本当に充実した東北応援視察でした。診療所の代診が見つかっておれば福島まで行けたのにと悔やむことしきりです...。